壹
月の隠れた夜。
人々の心をかき乱し、羨望を際立たせ、欲望を唆し、願望を浮き彫りにさせる月。
人間が狼になる青い光を放つ月。
浮かび上がるたびにその表情を変え、見上げたものを戸惑わせる月。
様々な表情を持つ月。
朔。
既朔。
三日月。
上弦。
十三夜。
小望月。
望月。
十六夜。
立待月。
居待月。
寝待月。
更待月。
下弦。
しかし、今日はその中のどの月でもない。
晦。
晦とは読んで書いた字の如く、月隠りである。
そして今日は大晦。
つまり大晦日。
十二月三十一日。
もう少しで新年を迎える。
今頃、暖かいコタツで暖を取り、“紅白歌合戦”でも眺めて年末の恒例行事に勤しんでいる仲睦まじい家族や、神社へ赴き除夜の鐘を撞いて、今年の汚れを清めようとしている多くの人々は、新しい年が訪れることを祝福しようとしているのだろう。
僕は違う。
今年の汚れを今年のうちに清めようというのは同じだが、その方法、手法、手練手管は全く異なり、異種異様なものであるといえるだろう。
それは異質で異常とさえ。
冷たい風が吹いた。
氷の針を束ねたような木枯らしに、白く濁った息をぶつけて空を仰いだ。
夜空には月も、星も、雲一つさえなく、ドロドロとした濃く暗い闇があるだけだった。それはまるで自分の心の中と対峙しているように、僕を見つめ、見下ろし、見下し、見定めていた。
僕は自分の通っている学校の裏庭にいた。
私立神現学園。
僕の通っている高等学校は、東京都の端の端のほうに放り投げられたように存在し、敷地だけは一丁前に馬鹿っ広く、某アミューズメントパーク、通称、“夢の国”の敷地と比べても遜色のない広さ、いや、それを凌駕してしまう程の広さを誇っていた。
そのため、入学した生徒の大半が自身の通っている学園内の敷地内で迷ったり、まだ入ったことのない奇奇怪怪な建物に遭遇したり、そもそも存在すら知らず、知らされていない空間が存在していたり、していなかったり、エトセトラ、エトセトラ。
そしてこの学園に赴任している教師ですら、自身が働いている学園の全貌、全容、全形を把握しきれていないと言う、なんともお粗末な学園なのである。
そのせいか、いや、お陰とも言うべきか、高校の敷地内のセキュリティは今時にしては甘く、弱く、脆く、それはもはや、どうぞご自由にお使いくださいと言う領域にまで達し、通っている生徒たちは夜な夜な集まっては学園の敷地内に進入し、部活の闇練や肝試しを行ったり、宴会を開いたり、恋人同士で夜を明かしたり、物品を荒らしたりと、些事や悪事を働いていた。
そんな背景があるからなのか、この学園には昔から――僕達が入学する遥か昔、創立より語られる? ――神隠しや座敷童子の噂話が絶えず、よく人が姿を消したり、見知らぬ人が現れたり、人外の化物を見たり、見なかったり、エトセトラ、エトセトラと、生徒達の間では人気の噂話、学校の怪談となっていた。しかし僕はそんなオカルト染みたことには全く興味もないので、話半分、嘘八百、右から左に聞き流していた。
今時学校の怪談なんて下らない。
そんなものはとっくの遥か昔、幼い頃に、映画『学校の怪談』、もちろんパート1からパート4までを見て、テレビアニメ『学校怪談』を全話見て、謀図かずおの『謀図かずお恐怖劇場』も全話見て卒業している。
だから僕はそんなものをいちいち真に受けるお人よしではない。
再び冷たい風が吹いた。
僕は体をびくりと震わせた。
ケセラセラ、ケセラセラ。
溜息と共に呟く。
裏庭は空けっ広く乱雑な造りで、何もないといえば何もない。
山の斜面を削り取って造ったみたいに、奥のほうに行けば行くほど小高くなり、すり鉢の形をした丘のようになっている。裏庭の入り口であり山の麓と呼ぶべき場所には、色褪せ錆び付いた青色のベンチが何脚か転がり、赤いレンガの花壇が裏庭の淵を囲んでいたが、花壇の中の花はとっくに枯れ果て、悲しみですら枯渇した砂漠と化していた。
僕がこの裏庭を初めて見つけたのは入学して直ぐのことになる。
普通の高等学校と比べて在校生の数が多過ぎ――一学年五百名以上はいる――凡そ把握しきれない生徒の数の坩堝に投げ出され、環境になかなか馴染めずに迷子になった子供よろしく、一人鬱蒼として気を病んでいるところ、吸い込まれるようにこの場所に辿り着いた。白い兎を追いかける少女か、オアシスを求めて旅に出た砂漠の旅人のように、広がった見知らぬ空間に僕は胸を撫で下ろした。
それ以来、時折無性に一人になりたくなった時や、気が病んだ時にはここに訪れ、無為で無意味な時間を過ごしているが、この場所で誰かを目撃したことはなかった。はさみで綺麗に切り取られたみたいに、この場所は校内から除外され、隔離された場所になっていた。
僕はゆっくりとなだらかな斜面を、小高いすり鉢の丘を登っていく。
丘の上には大きな桜の樹が一本ある。
冬の季節によって裸にされた桜の樹は、大きな五本の指を伸ばして僕をその木の下まで誘っていた。余りにも人の手の形に似ているものだから、僕は『手招き桜』と、この桜の樹に命名していた。
桜の樹の下まで辿りつき、桜の樹を見上げる。
太い樹のごつごつした肌の模様が、何となく人の顔のように見え、この場所で今まで死んだ多くの生徒の最後の表情、この世への未練や怨念を念写しているように見えた。
もちろん見えただけだ。
木枯らしは一層強く吹いた。
僕の背を押すように。
僕は終業式の日に用意しておいた道具を桜の樹の裏に見つけ、安堵の息を漏らす。石灰水のように白く濁った息は、木枯らしに巻き上げられて夜の闇に溶けた。
ビールの空き箱が二つと、太く長い荒縄。
準備は万端だった。
この二つさえあれば、これから僕が行おうとすることは容易に完遂され、そして僕の今までの人生、十六年間の汚れを、今年のうちに清めることが、完結させることができる。
できるはずだ。
今年こそ。
どこかで鐘の音が聞こえたような気がした。
もちろん除夜の鐘じゃない。それはもっと物々しく、禍々しい、空恐ろしい音色だった。
僕の胸はその鐘の音に合わせて少しずつ高鳴り、ドラムロールのように響いていく。照明はもともと落ちている。後は幕が落ちるだけだった。
最後の台詞はもちろん決めている。
「恥の多い人生を歩んできました」
僕は早速ビールの空き箱を二つ重ね、桜の木の小指の部分に荒縄をしっかり巻きつけて結んだ。
自分の身長百六十センチを鑑み、足がつかない長さに調節して先を丸い輪にする。体重をかけてみて縄が解けず、枝が折れないことを確認してから、一旦桜の樹を離れた。
画家が構図を取るように、両手で作ったフレームの中に桜の樹を入れ、シャッターを切るように頷く。
悪くない。
完璧な構図だ。
最後を飾るのにこれほどの景観はないだろう。
僕は心の中で満足げに呟く。
僕はもう一度桜の樹の下に戻り、二つ重ねたビールの空き箱の上に乗る。ぐらぐらと不安定な空き箱の上は、今の自分の心模様を写しているように感じられた。自分の首に輪にした荒縄を通して輪を調整する。何度か引っ張ってみて、首から外れないことを確認した。
後はここから飛び降りるだけだ。
そうすれば、僕は死ねる。
僕の胸は最高潮に高鳴った。
ここから飛び降り、最後の台詞を吐けば、僕の人生は完璧な形で終焉を迎え、簡潔に完結する。
はずだ。
僕は暗闇にこの身を投げ出した。
後は堕ちる所まで堕ちるだけ。
ロープが張り、体に自分の体重と重力に引っ張られる激しい衝撃を感じ、喉は押しつぶされんばかりに圧迫された。喉に荒縄が食い込んでいくのが分かる。ぎしぎしと音を立てながら首を締め付ける。万力がきりきりと頭蓋骨を砕いていくように、僕の喉にも激しい力が加わっていく。息ができなくなり、体内の酸素が少なくなり、意識が朦朧とし、段々自分がどうなっているのか、右も左も分からなくなる。そして立っているのか座っているのかさえも分からない。
いや、今僕は宙吊りになっているんだ。
それは冷たい宇宙空間に裸で放り投げられたような感覚だった。
氷の中に閉じ込められたようにも、体中がふやけてしまったようにも感じられた。
喉の辺りで体中を駆け巡る激しい音が鳴った。
恐らく喉か首の骨が折れたのだろう、先ほどよりも壮絶な痛みが雷鳴の如く、脳天から爪先まで貫いた。
体はそろそろ限界に達しているのかも知れない。
後は、最後の台詞を吐くだけだ。
僕は頭の中で何度も何度も予習してきた言葉を口にしようと、口を開いた。
「――――あなた、何をしているのかしら?」
しかし、響いたのは別の声。
僕は驚いて瞳を開いた。
少女だった。
闇に溶け込んだ長い黒髪を腰の辺りまで、まるで空から舞い落ちた羽衣のように棚引かせた少女が、高い位置で腕を組み、足を広げ、威風堂々とばかりに立っていた。
少女の双眸は燃えるように赤く、煌々と輝き、凛とした表情を崩してはいなかったが、その燃える瞳と表情の奥には、まるで汚いものでも見るような、軽蔑と侮蔑の色が濃く浮かんでいた。
「ねぇ、何をしているのって聞いているのだけれど?」
少女は高くて低い不思議な声で、もう一度尋ねた。和音を奏でているような、重なり合って木霊しているような、どこか遠くのほうから聞こえて近くで響いているような、そんな魅力的な声だった。
恐らく人生で初めて耳にする声だ。
僕が唖然として彼女を眺めていると、少女は不機嫌そうな様子で額に手を当てた。しかしその台詞も、雰囲気も、動作も、どこか芝居じみていて、いちいち悦に入っているような調子が感じられた。
台本どおりに動いている、そんな感じだった。
「もしかして、あなた、私の言葉が分からないのかしら? なら、別の言葉にしましょうか? 私これでも五十ヵ国語は優に話せるの」
そこまで言うと、彼女はまず英語で「何しているの」かと、尋ねた。
そしてその次を試すように中国語、韓国語の「なにしているの」と移っていった。
恐らくそこらへんの国だと思う。アジア圏内の言葉が通じないと感じたのか、どうやらヨーロッパ圏内へと、地球儀を回すように流暢な「何しているの」は、大陸の横断を始めた。
ロシア?
フランス?
ドイツ?
イタリア?
スウェーデン?
ポルトガル?
ギリシャ?
ナイジェリア?
チェニジア?
もう完全に当て推量だ。
最後のほうは適当に知っている国を思い浮かべた。
何がどこの国の「何しているの」か、さっぱり分からない。
しかし「何しているの」フレーズは続いていく。
世界一周旅行に出かけたように。
このままでは、おそらく彼女は五十ヵ国全ての「何してるいの」を試すだろうと踏んで、僕はうんざりと溜息をついた。喉が締め付けられていたので上手く溜息は出なかったが、それでもその仕草で僕の考えていることぐらいは伝わっただろう。
短い溜息はまたしても木枯らしに連れ去られた。
どうやら、折れた喉だか首だかの骨は、既に治っているようだった。
やれやれ、便利なもんだ。
「おい、もう止めてくれ。日本語で大丈夫だよ。てゆーか、日本語しか分からない」
僕は降参したように言った。
「だったら初めから答えないさいよ。あなたのせいで無駄な時間と労力を使ってしまったじゃない。で、あなたは何をやっているのかしら?」
喋り方は平坦で抑揚がなかったが、いちいち腹の立つ物言いを、言葉選びをする女だった。しかし僕は苛立ちを抑えながら、勤めて冷静に、紳士的な対応をすることにした。
「何って、見たら分かりませんか? 自殺しているんですよ。ほら、首に縄食い込んじゃっているじゃないですか? これから最後の台詞を吐いて死ぬつもりだったんですよ」
「で?」
彼女は皆まで言わせずに、興味のなさそうな、そんなことは聞いていないと言いたげに続けた。
「で? 死ねるのかって聞いているのよ?」
その声の調子は、まるでそれにしか興味はない、そんな感じだった。
死ねるのか、死ねないのか、それだけが問題だとでも言うように。
「あなた、それで死ねるの?」
沈黙。
木枯らしさえも息を潜めていた。
「死ねない」
僕は素直に白状した。
そう、僕は死ねないのだ。
「そう」
彼女はがっかりしたように呟いた。
僕は自分の体をぶらぶらと揺らしてみた。
どうやら自力では降りられそうもない。
うーん、少し癪だが仕方ないな。
「あの、ちょっと助けてもらえませんか? このままだと、僕、新学期までこの格好のままここにぶら下がってなくちゃいけないので」
僕は死ぬことを諦めてみっともなく助けを求めた。まさに恥の上塗りだ。
僕は足元に転がっている空き箱を指した。すると彼女は気の効いたジョークでも聞いたみたいに、唇を吊り上げ悪魔的な笑顔を浮かべた。
もちろん作り笑いだが。
「面白そうね」
「えっ?」
「あなたが新学期まで、そこに死ねないまま惨めにぶら下がっているのって、とても面白そうって言ったのよ。私、是非とも見てみたくなっちゃったわ」
「放置プレイ?」
「それとも、今直ぐあなたの身ぐるみを剥いでしまって人を呼ぶのもいいわね」
「衆人環視の露出プレイ?」
「冗談よ。いえ、冗談って訳でもないけど、何かもっと酷い手は」
彼女は真面目くさった顔で訂正し、言葉を続けた。
「あんたどSか。いい加減にしろ」
「あらあら、直ぐに怒鳴ったりして、カルシウム足りてないのかしらね。それともお頭のほうかしら」
辛辣プラス悪辣な物言いに僕は押し黙った。
彼女は無言で空き箱を重ねて、僕の足をそこに乗せてくれた。
「ありがとう。助かったよ」
僕は首に絡まった縄を解いて地面に足をつけながら礼を言った。
僕を受け入れたがっちりと踏み応えのある大地に、そしてその圧倒的な包容力に何故か僕は安堵し、感動的なものがこみ上げているのを感じた。
やはり地に足をつけるというのは素晴らしいことなのだろう。
“人は大地を離れては生きていけない”。
そんな名台詞を残した映画を思い出した。
縄の食い込んでいた首の辺りを摩ってみたが、既にその後は無く、綺麗にもとの傷一つない皮膚へと変わっていた。僕は口元の涎を拭った。
僕が自殺の後始末をしていると、その後ろで少女はつまらなそうに僕を見つめていた。
「あなた、ここの生徒でしょう?」
僕の容姿を顕微鏡で観察するみたいに、訝しげに見つめ続ける。
「そうだけど」
さっきの一連のやり取りで、僕は彼女に対して礼儀を尽すことをやめようと決心していた。
こんな女、ぞんざいに扱ったって構わないだろう。
「そんな変な格好で学校に通っているのかしら?」
ぐっ。
その言葉に僕の心は強大な杭で貫かれたように痛んだ。
黒瞳、黒髪、黒い学ラン、白いYシャツ、黒い袴、足元は足袋と下駄。
僕の古き良き書生スタイルを、そんなに面と向かって馬鹿にする人間がいるなんて、僕は顔を引きつらせた。
「あら、もしかして傷ついたかしら? 謝るつもりはないけれど、もう一言だけ言わせてもらえれば、本当にダサいわよ。それは、それは、変態的なまでに」
僕は体を切り刻まれるみたいな痛みに襲われた。
産まれてこの方、変態的とまで、そして女性にそこまで貶された記憶はなかった。
いくら恥の多い人生でも、身なりについてそこまで言われるなんて、侮辱、屈辱、陵辱、辱めの三拍子もいいところだ。
僕はもうこんな女ほうっておいて、さっさとこの場所を後にすることを考えていた。
一体この女は何者なんだ?
いきなりこの場所に現れたかと思ったら、僕の事を散々言いたい放題いってくれて、おまけに人の自殺まで邪魔して。
いや、ちょっと待て。
この女、なんで僕が首を吊って死のうとしているのに、そして僕が死ねないことに全く驚いていないんだ?
悲鳴も上げないし、怖がってもいないし、まるでそんなの当然のことだと言わんばかりに。一般的な常識のある人間の基準だったら、ここはもう、大声で悲鳴を上げて立ち去ってしまうか、警察か救急車でも呼ぼうとしてもおかしくはないのに。
今度は僕が顕微鏡で観察するみたいに、彼女を見つめた。
長く黒い髪と対照的に白すぎる肌は、太陽なんて大嫌いと訣別宣言したみたいに青白く、どことなく発光しているようにさえ見えた。大きな目は釣りあがり、瞳はやはり燃えるように赤く、引き込まれそうな不思議な色をしている。形のいい半月の唇も紅を引いたように赤い。
よく見ると、めちゃくちゃ美人じゃないか。
僕の心臓の鼓動が早くなり、急に恥ずかしい気持ちになった。
この期に及んで恥辱まで、禁断の四つ目の辱めを与えられるなんて。
身長は僕より大分高く百七十センチはありそうだ。
ちくしょう。
彼女が着ているのはうちの学園の制服だった。スカーフが赤色と言うことは、僕と同じ一年生だ。彼女の肌よりも濃い白色のワイシャツに、黒色のブレザー、黒色のスカート、黒いニーソックス。黒いローファー。
こんなくそ寒い時期に、よく靴下一枚で出歩けるな。
衣服の上からでも彼女の体の細さ、線の細かさ、ラインのしなやかさは秀逸で、スラリと伸びる四肢は柳の枝のように見えた。
そして、そこには儚さと危うさが混同しているように、そしてその儚さや危うさ故の美しさが匂いたち、それだけで彼女を現実に留めている、そんな類の美しさだった。
次の瞬間には消えていなくなってしまいそうな、そんな女だった。
そう、まるで幽霊のように。
「ねぇ、ずいぶん見蕩れているけれど、私ってそんなに魅力的かしら? 不死身さん」
彼女は余裕を浮かべ、勝ち誇ったように尋ねた。
僕はその質問に赤面してしまうのを抑えながら、視線を強くすることに勤めた。
「あんた、何者なんだよ?」
「何者って、私のこと知らないの?」
「知らないから尋ねているんだろ?」
「無知って罪ね」
彼女は馬鹿にするように呟いた。
「うちの学校の生徒だろ?」
僕はめげずに尋ねる。
「そうよ」
「一年だろう、何組?」
彼女はくすりと笑った。
小さくくしゃみをしたみたいに一瞬表情が崩れたが、それがとてつもなく美しく見えた。
寒気がするほどに。
「ねぇ、そういう尋ねかたって私がっかりしちゃうな。おい、お前何中? 俺四中。誰々先輩って知ってるかよ? 俺あの人とマブだから、夜露死苦。って、そんなのもう流行らないわよ。もはや化石よ」
「僕はそんな不良漫画みたいな会話をしたことは一度もない」
「あら、ごめんなさい。あなたは毎晩ネットにへばりついて、自分を虐げた人々の悪口を延々書き続ける粘着質なインターネットマンだったわね」
「だったわねって、勝手に確定するな」
「ハンドル何だったかしら?」
「持ってるか、そんなもの」
確かに、僕はパソコンの前に張り付いているが、それはあくまでも覗き見ているだけであって、一度も書き込みをしたことはない。
本当だ。
本当なんだ。
恥の多い人生だが、それはまだやってないんだ。
しかし彼女にそんなことを言っても、また馬鹿にされて軽くあしらわれるだけだった。
「それに、お名前を名乗るなら男性からじゃなくって? 不死身さん」
僕はもう打ちのめされたように打ちひしがれ、素直に名前を名乗ることにした。
「晦日裏兎」
「ふーん、変わった名前をしているのね。不死身さん」
「不死身さんじゃない」
「分かっているわよ、晦日裏兎君。でも、不死身さんのほうがあっていると思うけどな。だって、本当に死ねないんだから」
「何であんた驚かないんだよ? 普通びっくりして、気味悪く思うだろう、こんな体」
彼女の表情が変わった。
しかし実際に表情が変わったわけではなく――彼女にはほとんど表情と言うものが無かった――それは扉を一枚開けたみたいに、彼女の奥底から何かから現れたと表現するほうが正解だった。
木枯らしが二人の間を通り抜けた。
それと一緒に何か得体の知れない、気味の悪いものまで通り抜けたような気がした。
「そんなの決まっているじゃない」
無表情のまま、どこか狂気めいた調子だった。
頭の箍が外れてしまったみたいに。
彼女はブレザーの内ポケットから、刃の長いサバイバルナイフを取り出し、自分の細く長い首筋に近づけた。。
「何を?」
白い蛇のように艶かしい首筋に刃を当て、うっすら青い雫が垂れたように流れる頚動脈に、そっと薄い白銀の刃を押し当て、優しく音を奏でるように引いた。
「やめろ」
僕は叫んだが、彼女はなんてことはいと言うように溜息をついた。
ナイフが通った首には一本赤い線が引かれただけで、血は一滴も流れなかった。
それは流されてはいけない血のように。
縦の青い筋に対して引かれた赤い横線は、彼女の溜息の間に綺麗に消えてしまい、何事もありませんでしたと、お澄まし顔の空気さえ流れた。
「何を驚いているのかしら、あなただって同じでしょう? 私も死ねないの。ねぇ、不死身さん、私達って一体どうなっているのかしらね?」
呆然と立ち尽くし思考停止していると、彼女はサバイバルナイフをブレザーの内ポケットにしまい、身なりを整えた。襟を正し、スカートの埃を叩き、手を後ろで組んだ後、僕を真っ直ぐに見つめ、澄ました表情のまま口を開いた。
「巡樞。よろしくね、不死身さん」
僕は息を呑んだ。
何だってこんな女の子が、突然僕の目の前に現れたりするんだろうか?
それに僕と同じく死ねない体なんて。
一体全体、何がどうなっているのやら、さっぱり分からなかった。
今分かっていることは一つだけだ。
今年も僕は死ぬことができなかった。
また恥の多い人生を歩まなければいけないということだけだった。
僕は虚しさと失望、そして計り知れない重みを持った虚脱感の混じった感傷に浚われた。
今年も、もう終わりだ。
そう言えば。
「巡さん、今何時?」
僕は腕時計をしていないことを思い出して咄嗟に尋ねた。
彼女はキョトンとした顔で、細い手首に巻いた細い黒革の文字盤の小さな腕時計を覗き込んだ。女の子らしくない、英国の紳士なんかがつけていそうな時計だった。
「グリニッジ標準時間で?」
「何でだよ?」
僕は皆まで言わせずに突っ込んだ。
「何が?」
「何がじゃなくて、普通今何時って聞いたら日本の時間だろ。何で国際的時刻基準を教えるんだよ。僕達はグリニッジ天文台にいる訳でもなければ、ハレー彗星の観察も、ロケットの打ち上げもやってはいないはずだ」
彼女は溜息をついた。
「晦日君って、最近のバラエティ番組のお手本みたいなツッコミをするのね。私そういうのってうんざりしちゃうな。だって毎日家でつまらないバラエティ番組を見ながら、大声で笑って手を叩いている人みたいで」
もはや僕は再生不可能なぐらいまで痛めつけられていた。
拷問の限りを尽されたみたいに。
世の中の下らない俗物の総称のように扱われている自分が情けなく、惨め過ぎて、これほど死にたくなったのは、死ねない体でここまで痛い目を見るのは、一体いつ以来だろうか?
初めてに決まっている。
「で、今何時なんですか?」
仕方なく僕は下手に出て尋ねた。
「ちょうど深夜零時ね。晦日君、明けましておめでとう、今年もよろしくね」
彼女は後ろで手を組んだまま、僕の顔を覗き込むように新年の挨拶をした。
やれやれ、女の子って何でこんなに可愛くて素敵なんだろうか?
今までのことが全部帳消しなっちゃうじゃないか。
「こちらこそ。明けましておめでとう、今年もよろしく」
僕は頭を背けながら言った。
赤くなった顔を隠すために。
鐘の音が聞こえた気がした。
それは先ほど聞いた鐘の音とは違う音色だった。