(9)キス
(……馬鹿げてる)
悠は心の中で何度も呟いた。
美月の肩を抱いたときに覚えた不思議な感情……それは悠にとってあり得ないことだ。
「絶対に違う……馬鹿げてる」
片側二車線の道路沿い、歩道を歩きながら悠は思わず言葉にしていた。すれ違う小学生くらいの子供を連れた親子連れから、不審そうな顔で見られたことなど、今の彼に気づくはずもなく……。
美月がホテルの中に入るまでちゃんと見届けた。
あとになって、悠も泊まればよかったと思った。自宅のマンションに来ることなど勧めず、美月に部屋を取ってやって、自分も隣に部屋を取れば安心できたはずだ。それを『僕のマンションに』と口にしたから、変に警戒されたのだろう。
悠の自宅マンションは暁月城ホテルから直線で五百メートルの距離にあった。普段は会社まで車で通勤している。だが今日は、車を支社ビルの地下駐車場に停めたまま帰ってきてしまった。明日の朝は秘書にタクシーを手配させよう。
悠はなるべく意識を美月から逸らすようにして、自分を落ちつかせた。
広い道路から敷地内に入り、エントランスを抜ける。フロントには管理人の男性がいて、「お帰りなさいませ」と声をかけられた。
マンションはL字型に建てられており、B棟の部分は十一階建て。悠の部屋はA棟で八階――最上階に位置する。三LDK、ルーフバルコニー付き。男のひとり暮らしにはどう考えても広過ぎる。立派な対面式キッチンが、その機能をフルに発揮したことはなく、四畳半の和室に至っては足を踏み入れたことすら数えるほど……。
当然だが、これまで一度も女性を連れ込んだことはなかった。
休日以外で昼間に家にいることも珍しい。
悠は仕事中毒という訳ではないが、家にひとりでいるのは苦手だった。おそらく、ひとり暮らしの経験がないせいだろう。ボストンの一年目はルームシェアをして、二年目に経験する予定だったが……結局、美月と一緒だった。
明るい部屋の中、スーツの上着を脱いでソファの背もたれにかける。
バルコニー側の窓に向かって立ち、カーテンを開けた。そこからはO市の誇り、暁月城が真正面に見える。
(そういえば……ソレが売りのマンションだったな)
マンションのB棟最上階には展望浴場があり、パーティルームにゲストルームまであった。そこからの景観が最高だと、不動産屋が熱心にここを薦めたのだ。
だが自室からの眺めすら、ろくに堪能したことがない悠には無縁のこと。
そう思ったとき、美月の泊まる暁月城ホテルが視界に入った。
(離婚、離婚と……本当に子供のことだけなのか?)
悠の心に疑惑が首をもたげ始める。
ボストンには、彼女が身軽になって帰ってくるのを待つ男がいるのかもしれない。もしそうなら、きちんとした身元調査をする必要がある。美月はしっかりしているように見えて、どこか甘い。いや、優しいと言うべきか……。ひとりで様々なものを背負いながら、弱音を吐かないのは彼女の優しさだろう。だが、そんな“弱音を吐かない”という部分だけを見て、美月は強くて冷たいという連中がいる。
(彼女にたかろうとするような連中に、夫の座を譲れるものか)
家族から離れた悠にとって、かろうじて家族と呼べる存在。そんな美月を守るのは自分の役目だ。だから心配なだけだ、と悠は心の中で念を押す。
だがそれは、いったい誰に向けて念を押しているのか……。
悠の胸がざわめいたとき、脱いだ上着の胸ポケットで携帯が鳴った。
表示されているのは見覚えのない番号。まさか、と思いながら通話ボタンを押す。――と同時に。
『悠さん。助けて……お願い、私を助けて……』
それは震えるような美月の声だった。
~*~*~*~*~
ホテルのフロントで美月の部屋がシングルルームと聞き悠は驚いた。
しかし、本当に驚いたのはそのあとだ。美月の部屋をノックし、「僕だ。美月ちゃん?」ドア越しにそう呟くなり、ドアが開いて美月が飛び出してきた。
そのままの勢いで抱きつかれ、悠は言葉を失う。
「どうして? ねえ、どうしてなの? どうしてこんな……」
美月が部屋に入ってすぐ、電話が鳴り始めたという。不審に思ったものの彼女は受話器を上げ……それは無言電話だった。そのあとも数回繰り返し、美月はフロントに内線でイタズラ電話がかかると告げ、かけている部屋を調査してもらうことにしたのだ。だが、その部屋に宿泊客はいないと言われる。
それでも無言電話は続いた。
美月は自ら乗り込んでやろうと思ったものの、拉致された恐怖が甦り部屋の外に出ることができない。直後、彼女の精神は抑制のたがが外れた。
彼女は電話機本体を掴み、コンセントを思い切り引っ張り、そのまま壁に叩きつけていた。
引き千切られた電話線、そして電話機本体も床に転がっている。
「落ちついて……とにかく、落ちつくんだ。すぐに」
「私はただ、家族で静かに暮らしたいだけなのに。他には何もいらないのに。ママが寿命を縮めたのも、桐生のお金や権力を欲しがる連中が追い詰めたせいだと聞いたわ。私は……幸せになってはいけないの? だったらどうして、この世に生まれてきたの!?」
「そうじゃない……そんなことは」
悠は美月の尋常ならざる気配にたじろいだ。
「私のパパは本当のパパじゃないのよ。私もママも、周りに迷惑をかけるだけの存在。孤独に生きて……最後にはひとりぼっちで死んでいくのよ」
白いシャツに縋り、美月は肩を震わせて泣いていた。
自分の国に帰る、ただそれだけのことに、彼女は勇気を振り絞ってやって来たのだろう。
「君が迷惑だなんて……誰も思ってない。もちろん、僕も……」
悠の言葉を聞くと美月は顔を上げた。
充血した瞳からポロポロ涙を零しつつ、
「そうね。そうして優しい人を傷つけて、犠牲にして生きていくの。あなたの言うとおりよ……私が母親になれば、今度は子供を巻き込むわ」
美月は何もかも諦めたように笑う。
その悲し過ぎる笑顔を見たとき、悠は吸い寄せられるように口づけていた。
クリスマスやニューイヤーに軽くキスすることはあった。だが、親愛の情以外で美月に触れることなどありえない。ましてや欲望の対象にするなど言語道断だ。
悠が離れようとしたとき――。
「……悠さん……」
切ない吐息と共に美月は悠の名を呼んだ。
悠は離しかけた手を彼女の腰に回し、腕の中に引き寄せる。
「わかった。君の願いを叶えてやる。だから……泣かないでくれ」
重なった美月の唇から熱が伝わる。彼女の手も悠の背中をなぞるように動き……美月の仕草はふたりのキスをそれまで以上に深くした。
美月の願いを叶えてやろうと思った。“悠と離婚して子供を産みたい”という願いを。それは悠にとって予想以上に、胸の痛い決意であった。




