(8)気づけぬ想い
「電話は一切取り次がないで。どこからかかったか、あと、件数だけ教えてちょうだいね」
美月は予約を入れていた暁月城ホテルのフロント係にそのことを頼み、部屋に向かった。
そこはなんの変哲もないシングルルームだ。悠が知ればきっと、金に困っているなら自分が……と言い始めるだろう。
だが、美月にすれば普通のこと。
身内に大企業のオーナーや資産家は多いが、彼女は父が勤める会社の社宅で慎ましく暮らしてきた。父が再婚するまではふたりで。新しい母も贅沢を好む人ではなく、一家は生活に困らない程度の収入に満足してきた。
それは美月にとんでもない遺産が転がり込んでからも同じだ。
美月は結婚後、自ら動かせるほとんどの遺産を福祉団体に寄付している。その中には彼女が働くボストン・ガールズ・シェルターもあった。本音を言えば、日本で同じ職に就きたい。しかし、桐生の力が及ぶ場所は危険と言われ、彼女はボストンで働き続けている。
美月は部屋に入るなりハイヒールを脱ぎ捨てた。そしてジャケットも脱ぐと、クローゼットからハンガーを取り出してかける。
ブラウス越しにも綺麗な胸元が浮かび上がり、タイトスカートは魅惑的なラインを描いていた。決して、悠に話したように隠したくなるようなボディラインではない。華やかに装いたいと思いつつ、美月は女性的な部分を見せていくことに不安を抱いていた。
発育が早く、小学生のころからブラジャーが必要な体型をしていた。初潮を迎えたのは小学四年のとき。当時から彼女は知能指数が高く、学年で誰よりも優秀だった。しかし、バストのサイズやテストの点数と心の成長は比例しない。
美月は、身体の成長に心が追いつく前に、性的な嫌がらせを随分受けてしまう。
加えて、桐生の遺産を相続してからの騒動……。
わずか二十三年、彼女の人生のどこに、異性に対する憧れや理想を持つときがあったというのだろう。
いや、あるとしたらほんの一時期――彼女を守ることだけを考えてくれた、悠の存在以外になかった。
(悠さんなら……なんて、甘かったわね、やっぱり)
美月は鏡に顔を映しながら、心の中で呟いた。
今回のことを決めたとき、悠ならまた美月に力を貸してくれるかもしれない、そう思った。悠の女性観や結婚観が変わっていなければ、子供が産みたいなら自分の子供を産めばいい、そう言ってくれるのではないか、と。
婚姻中に産んだ子供は夫の実子と推定される。それならいっそ、本当に悠の子供であればいい。一緒に暮らして欲しいとか、父親としての役目を果たして欲しいとかは望まない。ただ、子供に将来、父親の名前を教えてやれたら、と願った。
彼の立場を考え、一条の相続権は放棄させる。もし、悠に結婚したい相手ができたときは、子供の親権だけもらって別れるつもりだ。そのときには、桐生の名の下にある様々な権利を、一条や藤原に分散させる方向で可能な限り譲渡しようと思っている。そのまま桐生の親族に任せるより、よいほうに導いてくれると信じたい。
(でも……言えないわよね。いきなり、『子供が欲しいからあなたの精子を提供してくださる?』なんて……)
美月は緩く波打った髪を掻き上げた。
彼女はもともと天然パーマだ。短くするともっとクルクルになる。肩くらいの長さにしていた幼稚園のころは、ふわふわの髪が肩の上一杯に広がっていた。生まれながらにブラウン系の髪の色をしていて、フランス人形のようだと言われた。
その髪にストレートパーマをあて、黒く染めたのは小学三年の終わり。父の転勤に合わせて九州から東京に戻ってきたときのこと。
美月は以前から、父にも母にも似ていない自分を不思議に思っていた。そんなとき、父方の祖母から『実の孫ではない』と教えられた。
(あのときからよね……必死になってママに似せようとしたのは)
美月は自分と父の生活に割り込んでくる祖母が嫌いだった。思えば、随分生意気な口を利いていたと思う。祖母はそんな実の孫でもない美月が疎ましかったのだろう。
そのあとすぐ、父が再婚して……。
美月はせめて父に見捨てられまいと、懸命に母の面影をトレースした。ストレートの黒髪で華奢な体つきをしていた母。音楽や芸術方面に優れ、スポーツは苦手だったという。だが、髪はともかく、平均より高い身長はどうしようもない。体型も同じく……。必死でダイエットをしても、美月のしっかりとした骨格では“華奢”と言ってもらえることはなかった。得意なスポーツもなるべく避けるようになり、器用ではないのにピアノの先生を目標にしてレッスンに通った。
ボストンに渡った当初、美月は周囲の出来事に対して必要以上に警戒し、ピリピリと張り詰めた日々を送っていた。
愛想は更に悪くなり、身なりを気遣うことすらしなくなり……。
(こんなことなら髪を戻してくるんじゃなかったわ。悠さんに余計な誤解を与えたかもしれない)
美月の容姿が変わったことに、悠は過剰に反応していた。
確かにそれを望んだのは彼女自身だ。十六歳の少女ではなく、二十三歳の大人の女性だと認めて欲しかったからだが。
セックス抜きで、美月は悠の子供を望んでいる。それが正しいのか間違いか……そして、自分の心に眠る想いの真実がなんなのか。理屈や計算式では答えの出ない感情を持て余したまま、悠と再会してしまった。
美月は軽く首を左右に振り、悠に対する想いを振り払うと、携帯電話を取り出した。
帰国していることを父に伝えておこう。もうすでに悠から連絡がいったかもしれない。父の体調はほぼ回復して、現在は代表取締役社長を勤めている。数年前、ボストンまで来てくれた父に昇進のお祝いを言ったが、『雇われ社長だから大したことはない』と笑っていた。
弟の小太郎は飛行機が苦手なため、義母と弟とは八年近く会っていない。
悠との結婚以降、ボストンで妙な目に遭うことはなくなった。桐生もグローヴァー一家を唆しただけで、直接乗り込んで来てはおらず……。グローヴァーは会社を解雇され、一家は藤原グループを敵に回したことにより、マサチューセッツ州から追われたという。
日本国内では法すら捻じ曲げる権力を持っていても、海外では通用しない。そんな桐生一族の中には、藤原や一条に擦り寄ってくる者もいるらしい。
(もう大丈夫かしら? 家族と会っても、迷惑はかけないかしら? それとも……)
悠の言ったように、美月が独身に戻り子供を産めば、今度はその子供の命を盾に結婚を強要されるだろうか? 有形の遺産は可能な限り譲渡や寄付しても、美月の存在そのものに価値がある、と言われたら……。
(ひょっとして、子供にまで辛い思いをさせることになるの?)
前向きになろうとするたび、絶望的な思いが美月を襲う。
次の瞬間、室内に電話の音が鳴り響いた。
ハッとして固定電話を凝視する。外線は繋がれないはずだ。おそらくはフロント係だろう。伝え忘れたことがあるのか、あるいは、フロントに悠が尋ねて来た可能性も考えられる。
美月は携帯をバッグに戻し、固定電話の受話器を手に取り……。




