(7)五十センチの距離
「キャッ!」
身体が傾いたとき、誰かにぶつかった。そのおかげで美月は石段から落ちずに済んだ。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけてきたのは、美月と同じ年ごろの青年だった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、悠が来てくれたのかと思い、美月の心は浮き立った。だが、そんなはずがない。美月は怒りに任せて自分の食事代を払ってきてしまった。おそらく、悠のような男性にとっては一番嫌がることだろう。
(可愛げのない女だわ……自分でもそう思うもの)
唇を噛み締めたまま立ち尽くす美月に、ぶつかった青年の連れが顔を覗き込んできた。
「へぇーっ。すっごい美人さんだねぇ。ひとり? だったら、一緒に飲もうよ。さあ」
ふいに腕を掴まれ、引っ張られる。
美月はハッとしてその手を振り払った。
「ご、ごめんなさい。ぶつかってしまって……」
「いえ、別に。ああ、すみません。コイツ酔ってて。俺たち、近所のカットサロンで働いてるんです。うち、男ばっかりで。そこで花見してるんで、よかったら一緒にどうですか? 酒もつまみもあるし」
最初にぶつかった青年も少し酔っているのだろう。ほんのりと顔が赤い。
アメリカではほとんどの州で、野外での飲酒が禁止されている。日本では会社をあげての行事ともいえる“桜の下で宴会”など、あり得ない光景だ。
「あの、ごめんなさい。少し見物していただけなので……」
美月が重ねて謝り、そのまま立ち去ろうとしたとき、
「そう言わずにさぁ。いいじゃん、いいじゃん、一緒に飲も!」
連れの男はかなり酔っているみたいだ。振り払われたにも関わらず、更に力を込めて手首を握り、河川敷まで引っ張っていこうとした。青年のほうは「おいおい」と止めるが、石段は狭く、誰かが激しく動けば危険だ。
石段を下り切ったとき、美月は力任せに男の手を振りほどいた。
「放してくださらない? 私はお断りしたはずだわ。無断で女性の身体に触れるなんて犯罪よ!」
美月の剣幕にふたりは息を飲むが、その様子に気づき、彼らの仲間が何ごとかと集まってくる。
「は、はんざい? だったら警察でも呼べよ。俺が何したって言うんだ!?」
男は仲間がいることで気が大きくなったのか、美月に詰め寄りはじめた。
だが、その程度で怯む美月ではない。
「いいわ。呼べと言うなら呼んでも構わないけど、困るのはそちらのほう……」
言いながら、美月が携帯を取り出したとき、その手を背後から掴まれた。
「すまないね。こう見えて妻も酔ってるんだ。酒の上でのことだから、お互い様ってことでいいかな?」
悠だった。いきなり携帯を取り上げられ、しかもとんでもないことを言われて美月は真っ赤になる。反論したいが、横から強く抱きしめられては声も出せない。
先ほどの青年が「もちろんです。こちらこそすみません」などと小さな声で返した。
あっという間に周囲は、和やかなお花見ムード一色となる。
そんな中、美月は“酔っ払い”に認定され、夫である悠に肩を抱かれ、その場から離れたのだった。
「まったく! 飲酒が免責理由になる国なんて、日本ぐらいのものね」
“酔っていたから仕方ない”――セクハラや軽微な犯罪はそれが言い訳として通る国だ。
美月はそれを自分に適用されたことが悔しくてならない。
「郷に入りては、と言うだろう? 君なら本気で警察を呼ぶんだろうが、呼ばれた警察も迷惑だよ」
「だから、ああいったことが横行するんだわ。酔った挙げ句に集団心理が働けば、重大犯罪に繋がるのよ」
「気持ちはわかるし正論だが、警察の力は無限じゃない。犯罪者を庇うつもりはないが、自衛という言葉も覚えてくれ、美月ちゃん」
「それは……」
「子供じゃない? 大人の女なら尚更、あの程度の坊やたちくらい軽くあしらって欲しいもんだ」
理路整然と言われ、美月は言葉に詰まる。
高校、大学とスキップし、二十二歳でロースクールを卒業した美月だ。討論でもそうそう言い負かされることはない。だが、この悠には逆らえなくなる。心に刷り込まれた『悠は正しい』という思いが前提にあるせいだろう。
「それで、悠さんは私に説教をするために追いかけて来られたの?」
河川敷には、夕日川を背にたくさんの屋台が出ていた。『桜フェスティバル』と書かれた大きな横断幕も掲げられている。土手沿いには桜並木が延々と続き、見渡す限りピンク色だ。
その下にはシートを敷き、先ほどの青年たちのようなグループが一杯いた。平日の昼間だというのに大勢の人間が缶ビールを手にはしゃいでいる。
ふたりは肩を並べて通路を歩く。
悠はダークネイビーのスーツを着ていた。イタリアンファブリック仕立てのエレガントなラインと、それを着こなしている悠の姿に、すれ違う女性のほとんどが振り返っていく。
美月は横目で見ながら、彼の五十センチほど後ろを歩いた。
ボストンでは隣に立ち、無邪気に彼の腕を掴んでいた。でも今は……それができないほど、美月が大人になったことに、悠は気づいているのだろうか?
「君の自覚のなさに驚いて追いかけてきたんだ。日本だと何が起こるかわからない。だから君も、成人してからも帰国しなかったんだ。地方都市だからと甘くみているのは危険だ」
悠は立ち止まり、真剣な表情で美月に言った。
決して馬鹿にしている訳でも、軽んじている訳でもない。正真正銘、美月の身を案じての言葉とわかる。十六歳のときのように悠の手を取り、彼の後ろに隠れたら、きっと守ってくれるだろう。
妹のように――。
そう思った瞬間、美月は悠の横をすり抜け、彼より前に出てから振り返った。
「ご心配ありがとう。でも、私はひとりでも平気よ」
「僕は君の夫だ。君のお父さんに、家族として守ると約束した手前もある。ここで……僕の手が届く範囲で、何かあってもらったら困るんだ」
「だから、その義務はもうなくなると言ってるでしょう? 私は本当の意味で強くなりたいの。だって、桐生の名で背負ったものは一生ついてくるんだから。今の自分にできることを、と思ってシェルターの弁護士になったけど……。“一条美月”という偽りの名前のまま、これ以上の人生は重ねたくないの。だって“一条悠の妻”は私に与えられた正しい肩書きじゃないでしょう?」
かつて、美月の知っている悠の家族はとても仲がよかった。招かれると必ず悠も一緒にいて、家族を守るように気を配っていた。自分にも悠のような兄がいればいいのに、と何度思ったかわからない。
だが、ボストンで再会した悠は違った。
昔話をしようとすると、決まって顔が曇る。最初は青年期特有の症状かとも思ったが、そういう訳ではないようで……。
思えば、中学で真と違う学校になり、一条家を訪れなくなってからの悠は知らない。真から、悠が一条グループの後継者となるべく大学の後期課程は経済学部に進んだと聞かされたことはあった。そのため、実家を出て成城の一条邸で叔母夫婦と暮らし始めたという話も。
彼は美月にプロポーズしたとき、言ったのだ。
『僕は冷酷な人間だから、人並みの温かな感情は持ってないんだよ。だから、誰かと恋に落ちて、君を途中で放り出すようなことはしないし、子供も欲しくないから結婚もしない。僕が相手ならちょうどいい』
美月は悠より七歳も年下だが、本当に冷酷な人間をたくさん知っていた。彼らは揃って『自分は優しい』と連呼する。そして、自分の感情は大事にするが、他人の感情にはお構いなしだった。
「“藤原美月”に戻りたい訳だ……」
そう言った悠の声はなぜか打ち沈んで聞こえる。
思わず、
「どうかしら……“藤原”も“桐生”も借り物のような気がするわ。私は……自分が何者か知らないのよ」
美月も正直に答えていた。
それは自分でも信じられないほど頼りなげな声――。
「美月ちゃん?」
「なんでもないわ。大丈夫よ……ほら、信号の向こうにホテルが見えるじゃない。ここまで送ってくださってありがとう。離婚届は私が用意しますから……じゃ」
美月はぶつけるように伝える。このままだと、また悠を頼ってしまいそうだ。美月はそんな自分が卑怯に思え、慌てて離れたのだった。