(6)特別なひと
懐かしい思いが胸に込み上げ、悠は訳もなく苛立った。
そのとき、ハッと気づく。
「ちょっと待ってくれ。那智さん、どうして彼女がホテルに泊まっていると思うんだ? 先に僕の家に帰ったと思うのが普通じゃないのか?」
悠の剣幕に那智はわずかに驚いた顔をする。
「さあ、どうしてだと思う?」
彼は片笑みを浮かべ、思わせぶりに言葉を返した。それは那智のクセだ。いつもなら、たいして気にならない。言いたければ言うだろうし、言わないということは言いたくないのだ、と思い、重ねて尋ねることはしない。感情の起伏がきわめて小さい悠にとって、カッとして叫ぶことなど、ここ数年記憶になかった。
だが……。
「とぼけるな! 何を知ってるか言え!」
立ち上がった勢いで、悠は那智のTシャツを掴んでいた。
胸の中に七年前の美月がいた。
守ってやりたい、と思った二ヶ月後、悠は彼女と入籍した。どうしても、彼女をあれ以上傷つけたくなかったからだ。その結果、自分の身に危険が及んだとしても。
悠と美月の結婚は、一部の人間にのみ知らされた事実。世間一般ではほとんど知られていない。それはふたりが望んだことだった。
「一条……お前」
「いや、違う。そうじゃない! そんなことは絶対に……」
「落ちつけよ。話し合うより、自分の中で整理するほうが先だな」
悠は那智から手を放し、息を吐いた。
「違うと言ってる。なんの問題もないんだ。きっちり整理はついてる。ただ……彼女の立場は複雑で、色々危険な目にも遭ってきた。僕は、保護者のようなものなんだよ」
そこまで聞いて、那智は口を挟む。
「じゃあ、尚更ひとりはまずいんじゃないか?」
美月は一階で自分の分の会計を済ませたという。そのとき、暁月城ホテルの場所を尋ねた。二キロもないと聞くと、美月は歩いて行くと答え――。
「ちょっと待て、タクシーでホテルに向かったんじゃないのか?」
「桜フェスティバルの話をしたら、さくら通りを歩いて行くと言っていたが」
「どうしてそれを先に言ってくれないんだ!」
悠はスーツの上着を引っつかむと、早足で階段に向かう。
そんな悠に那智は声をかけた。
「彼女には許してるんだな」
なんのことかわからず、悠は足を止め振り返った。
「“ユウさん”だよ。どこかのパーティで会ったとき、そばにいた女性がそう呼んだら、翌日には別れてた。それは“トクベツ”なんだろう?」
悠は何も答えず、再び那智に背を向けた。
~*~*~*~*~
ボストンにも桜は咲く。
だが、日本で見る桜はどこか情緒豊かで、気がつけば、美月は通りすがりの人と顔を見合わせ「綺麗ですねぇ」と微笑みを交わしていた。
七年前の悠は本当に優しかった。その優しさに甘え、彼を縛ってしまったのも事実だ。
土手の桜を見ているとチャールズ川沿いの桜を思い出す。日本がゴールデンウィークに入ったころ、ボストンの桜は濃いピンク色の花を咲かせる。チャールズ川沿いは桜並木というわけではないが、それでも悠に頼んで一緒に見に行った。
悠はボストンで唯一、心を許せる人だった。
他は誰も信用できない。フジワラの社員も、ボディガードも、最終的は金で美月を売り渡そうとしたのだから。
美月をホームステイさせてくれていたフジワラ・ニューヨーク本社の社員、フランク・グローヴァーには十八歳のひとり息子、サイラスがいた。気さくで礼儀正しく、結構なハンサムだ。マサチューセッツ工科大への入学も決まっており、優秀で美月には親切にしてくれた。
そして、少しずつだが心を開き始めたある日、美月は恐ろしい話を聞いてしまう。
フランクとサイラスは妻のメアリーも交えて深刻な顔で話していた。美月に日本人のボーイフレンドができたらしい、と。それは悠のことだろう。勘違いだ、と話の輪に加わろうとしたとき、フランクは息子に言った。
『このままではその日本人に横取りされてしまう。さっさとミツキをお前のモノにしろ。あの娘には莫大な価値があるんだ。上手くやればフジワラ・ニューヨーク本社を日本の本社から切り離して、私の物にできる。そうキリュウが言っていた』
それを聞いたとき、美月は背筋が寒くなった。
しかも美月が亡き母を偲んでいることを知っているメアリーは、
『あの娘は愛情に飢えているから「愛してる」とたくさん言えばいいわ。あと、すぐに妊娠させること。家族になろうと言ったら、喜んであなたと結婚するでしょう』
間もなく夏を迎える時期だというのに、全身の震えが止まらない。
美月は急いで部屋に戻り、大事なものだけ小さなバッグに詰めた。勇気を奮い立たせて平静を装い、普段どおりに出かけようとした。だがそこをボディガードに止められたのだ。彼は『この娘はあなた方の話を聞いてましたよ』そう口にした。
美月は取り押さえられ、部屋に引き戻された。
サイラスに組み伏せられたときはレイプも覚悟したが……。
『レイプしたければすればいいわ。ただし、あなたの罪を告発して私が死ねば、あなたたちはおしまいよ。桐生に何を言われたか知らないけれど、すべての力は私が持ってるのよ。甘くみないことね!』
激怒したサイラスはレイプを断念した腹いせに、何度か美月を殴った。そのまま、彼女を部屋に閉じ込める。おそらく桐生と連絡を取り、美月の処遇を決めるのだろう。下手をすれば違法な薬を使われる可能性もある。意思を奪われ、生かされ続けるくらいなら……。
まとめた荷物はもちろん、カードや身分証、小銭まで取り上げられた。その上、外に出られないように、窓から助けも呼べないようにと、服もすべて持っていかれたのだ。身に着けているのはキャミソールとショーツだけ。もちろん手近に靴どころかスリッパもない。
その夜は嵐だった。恐ろしいほどの風が吹き荒れ、大木の枝が揺れていた。美月は木製のイスを振り上げ、ガラスを叩き割る。そして、手当たりしだいに部屋の物を壊し回った。嵐に負けないほど激しい音が家の中に響き渡る。さらには、窓から車めがけてイスを投げ落とした。その衝撃にフランクの車から警告音が鳴り響いた。美月の部屋に駆けつけてくるふたり分の足音。外からフランクとボディガードの声が聞こえ始め……。
美月は開いた扉の影に身を潜め、飛び込んできたメアリとサイラスが窓から外を見ている隙に逃げ出した。一階の騒ぎとは反対側の窓を開け、外に飛び出す。
あとは、彼女がただひとり信じられる人物、悠のアパートに向かった。
裸同然の格好で真夜中に五キロもの距離を走るなど、そうそう経験することではないだろう。幸か不幸か、激しい嵐と雷のおかげで誰にも襲われなかった。
だが……あの夜から、雷と嵐が大嫌いになった。追いつかれ、背後から襲われ、監禁される恐怖が付きまとう。桐生家の兄弟に監禁されたときのことや、父が撃たれた瞬間も思い出し……。
美月には、その嵐が永遠のように感じ始めるのだ。
(でも……もう六年よ。六年もひとりにしながら、今さら……)
夫婦となってからも寝室は別だった。だが、嵐の夜は美月のベッドで抱きしめて眠ってくれた。
何を求めるでもなく。必要以上に触れることもなく。悠は一年間、美月の保護者という立場を貫き通した。そしてMBAを取り、帰国するときに言った言葉。
『僕が夫でいる限り、藤原と一条の名前が君を守る。誰にも傷つけさせない。――また、会いに来るから』
あのときの美月は泣いて縋ることもなく、『ありがとう』と答えて笑顔で見送った。
(本当はひとりになるのは不安だったのに。でも……帰らないで、とは言えなかったわ)
だが、悠はニューヨークまで来ても、美月のもとへは来てくれなかった。
美月は吸い寄せられるように、桜の木に囲まれた土手の石段を下りようとした。
しかし、その石段は高さも不揃いで、ハイヒールで歩くには慣れとテクニックを必要とする場所。初めてハイヒールを履いた美月は足もとがふらつき……。