(9)君しかいない
吹き込んできた熱い風にダークブラウンの髪が数本ふわふわと靡き、美月の視界をよぎった。
そして、ドアがバタンと閉まったとき――抑え切れない嗚咽とともに涙が溢れ出す。
「……いかないで……」
消え入るような声で、ようやく思いを口にできた。
「……悠さん、おねがい……行かないで、傍にいて……」
デスクに縋りつくように、美月は床に崩れ落ちる。
そのとき、わずかに風が揺れ――。
「……本当に?」
美月が振り返る寸前、背後から包み込むように抱き締められた。
「出て行こうと思ったけど、行けなかった。どうしても……君の迷惑になるとわかっていても、これだけは……」
「ゆ……う、さん?」
「愛してる。君を愛してるんだ。いつからか、わからないくらい前から……。この街で一緒に住んでいたときも、十六歳の君に何度欲情したか知れない。今度会ったら、絶対に自制できないと思って……だから、会いに来れなかった」
信じられない強さで抱かれ、信じられない悠の言葉が耳に流れ込む。
「君は幸せにならなきゃいけない。でも、僕には幸せにできない、と。自信がなくて……愛してると、認めることができなかったんだ」
「じゃ……ど、して?」
どうして、今、こんなことを言い出すのだろう?
美月が泣いていたから? まだ、悠のことを忘れていないと知ったから、『愛してる』と言ったのかもしれない。
もしそうなら、すぐに離れなければ。
そう思うのだが、美月は悠の腕を振りほどけないでいた。
「離れたら、君のことも忘れられると思ってた。でも無理だ。これまでは、沙紀がいつも心の真ん中に居座って、彼女から逃れられないと思っていたんだ。それなのに……君がいなくなったら、考えるのは君のことだけになった」
「ウ、ウソよ……そんな……」
「嘘じゃない。それから父が……事務所を畳んで、沙紀を養女にすると言いだした」
美月は、そのあまりに突拍子もない内容に息が止まった。
「四十年前に戻ってリセットするんだそうだ。沙紀は逃げてるけど、今度は父のほうが追いかけてるよ」
「お、お母様は? なんて?」
「父がどんな失敗をしても、見捨てないんだそうだ。……愛してるから」
「それは……悠さんは、平気なの?」
母親のことを大切に思う悠にすれば、十年前と同じショックを受けたのではないか。美月はそんな心配するが……。
「君の言葉を思い出していた。“私はあなたを信じてる”――これからの人生で僕を許して、認めてくれるのは、君しかいない。もう一度、君のヒーローになりたくて会いに来た。僕と結婚して欲しい……いや、正確じゃないな。どうかこのまま、妻でいて欲しい」
悠の告白に美月はビックリして振り向いた。
「今、なんて言ったの? 離婚届けは……」
「出してないんだ、悪い。出せなかった」
「そんな……」
美月にはあとの言葉が続かない。
「桐生の問題がだいぶ落ちついたとはいえ、日本に暮らし続けたら再燃しかねない。君はボストンに住み、年に数回日本に戻るほうがベストだと思う」
「だったら……余計に、あなたの妻には……」
「僕がボストンに住む。そのつもりで、一条を辞めてきた。もう一度ロースクールから入り直して、今度こそ弁護士になろうと思う。そのときは、ガールズ・シェルターで雇ってもらえるかな?」
一条の財産を継ぐ人間は何人もいる。
会社は一条の血縁にこだわらなければ、悠が辞めても傾くようなことはない、と。そう言ったときの悠は、本当に晴れやかな顔をしていた。
そのまま美月から手を放すと、彼は床に両手をついて頭を下げる。
「一条のバックアップも何もない。何も持たないただの男だ。でも、君だけは失いたくない。ここから、全力で挽回する。だから……僕を君の子供の父親にしてくれないか?」
悠の言葉に美月はハッとした。
彼を信じずに、とんでもない嘘をついてしまったのだ。
「あ、あの……悠さん、わたし」
「君のお父さんのような父親になると誓う。たとえ、生まれてきた子供が金髪だろうが、青い目をしてようが……僕の子供だと言ってみせる。残りの人生すべてを懸けて、君たちへの愛情を証明させて欲しい。頼む」
早く告白してしまわなければ、あとになればなるほど、悠はショックを受けて怒ってしまうかもしれない。
でも……。
美月は悠の首に手を回し、力いっぱい抱きついた。
「好き……愛してるの。離さないで、ずっと一緒にいて。本当は六年前も言いたかった。帰らないで、ここにいて、ひとりにしないでって。悠さんのバカ! 悠さんが悪いのよ……全部、あなたのせいなんだからぁ」
そこに美月の場所があった。
誰のものでもない美月だけの場所に、彼女はようやくたどり着いた。
御堂です。
長らくお付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。
次回で最終話となります。
明日の0時に更新予定です。
最後までよろしくお願いいたします。




