(8)涙のプロポーズ
「美月……これくらじゃあの女は……」
「わかってるわ。これですべてが解決する訳じゃないことくらい。でも、投げ出したら負けよ」
警察が帰り、後日、事情聴取に赴くことになった。
また、沙紀にかかわる日々が始まる。それを思うだけでうんざりする。
「負けたらダメなのか? もう……気力が尽きたよ。金で片がつくなら、かまわないと思い始めている……」
「でも、あなたのお父様はそれをよしとされなかったんでしょう? なのにあなたが――」
「やめてくれ……あの人にはまともな人間の血なんて通ってないんだ!」
父は強い。何を言われても、どれほど孤立しても、決して折れることなく平然と前を向いている。痛みなど一切感じないかのように。
そんな父に似ていると言われてきたが……。
悠にはそれほどの強さはない。ただ痛みに鈍いだけで、平気な訳じゃない。明哲保身に長けてもおらず、怜悧な頭脳も持ち合わせてはいなかった。
父のようになりたくないのではなく、なれない。
悠は自分自身が父の悪質なコピーに思えた。
「あの女が父に直接向かわず、僕を追い回すのは……この僕が愚かで何もできない男だからだ。父ならきっと、君のように徹底的に戦うだろう。でも僕は……サンドバッグのように殴られるだけだ。さっさと金で追い払う決断もできず、かといって戦うこともできない。きっと親も呆れてるさ……いつまであんな女にかかわってるんだって。自分で始末できないなら、父の懐に逃げ込めばいい。あの人が本気になれば、沙紀くらい簡単に追い払うさ」
そう言葉にすることで、悠はようやく自らの本心に気づいた。
(ああ……そうか、僕は父さんを超えたかったんだ……父さんとは違うやり方で、自分は違う、と証明したかった……でも……)
「……そろそろ、降参したほうがいいんだろうな」
うつむき、ポツリと呟いた。
そのとき、ドン、と胸に一枚の紙が押し当てられる。
「離婚届よ。私の名前は書いてあるわ。私から自由になりたいなら、自分の名前を書いて提出してちょうだい」
彼女の目に強い光があった。
それが煮え切らない悠に対する憤りか、無様な男に向けた同情か……区別がつかない。
「あ、ああ……いや、でも……」
「愛してるって言ったこと、撤回する気はないわよ。誰がなんと言っても、あなた自身が自分を信じていなくても、私はあなたを信じてる。ボストンで私を助けてくれた、あなたは私にとってたったひとりのヒーローだわ」
美月が眩しかった。目が眩んで、それ以上直視できない。そのとき、ふいに彼女が片手で悠のネクタイを掴み引っ張った。
前屈みになる悠の唇にサッと口づけ、一瞬で手を離す。
黒曜石を思わせる凛とした美月の瞳が、ほんのわずか揺らめき……その光が涙だと知る。
「私の母は父を変えたそうよ。大人になったら、私も母のようになりたいとずっと思ってきた。でも……」
一度口を閉ざし、ふたたび開く。
「でも、私は私にしかなれないみたい。苗字がなんになろうと、私のルーツがどこにあろうと、自分の居場所は自分でみつけるしかないのよ。――愛してるわ、悠さん。あなたが子供は欲しくないというなら、作らない選択もできると思う。日本で暮らしたいなら、私は日本の弁護士資格を取り直すつもり」
美月はマリッジリングを外し、悠に渡した。
「ほんのわずかでも私を愛する可能性があるなら……あなたの手ではめて欲しい」
ボストンで急遽用意したマリッジリングだった。イニシャルも日付も彫られてはいない、シンプルなプラチナリング。
あのときは、なんとしても美月を守りたい一念で交わした結婚の誓い。ひとまずの安全が確保されてからは、誓いを破りまくっている。いい加減、神様も呆れているだろう。
美月の傍にいたい。
彼女のすべてを独占したい。
それならここで、愛していると認めてしまえばいい。
これほどまでに美月は自分を求めてくれている。十年前に戻って、未来と自分自身をもう一度信じるなら今しかない。
悠は手の中でリングを握り締めた――。
~*~*~*~*~
「美月……どうしてもボストンに帰るのか?」
成田空港の出発ロビーで美月に声をかけるのは父、太一郎だ。
せっかく家に戻れたのにたった三日しかいないなんて、と母の茜とともに不満を口にする。
「もう随分仕事を休んじゃったから。自分から志願してシェルターの弁護士になったんだもの、これ以上勝手はできないわ」
日本に滞在したのは約三週間。
それは美月にとって、短くて長い三週間だった。
「いっそ、仕事を辞めて戻ってくるっていうのはどうだ?」
「それはダメよ。本家の卓巳おじさまもおっしゃってたじゃない。今は桐生の動きはないけど、完全に途絶えた訳ではないって。私が帰国することで、よからぬことを考える人間が現れないとも限らない。……大丈夫よ。今度は年に数回、帰って来れるんだから」
父は言い難そうに口を開き……。
「それで……悠くんとは」
「ええ、離婚するわ」
美月の左手の薬指から、マリッジリングは消えていた。
悠は指輪を握り締めたまま、ふたたび美月の手を取ることはしなかった。
『……すまない……』
春だというのに、凍えるような声で謝罪を口にした。謝って欲しくはなかったけれど、さすがに美月も言い返す力は残ってはおらず。
『いいのよ。私は後悔なんてしてない。……あなたもそうだといいけど』
声を震わせた美月に悠は、
『君にはもっと相応しい相手がいる。精子バンクの件は……』
『あなたには関係ない! そのことは、私に“相応しい相手”と相談するわ。あなたが言いたいのはそういうことでしょう? 今までありがとう。――さようなら』
あの翌日、警察に出向いて事情を話し、その足で東京の自宅に戻ってきた。
両親も弟も喜んで美月を迎えてくれて……。年老いた祖母から初めて『美月ちゃん』と呼ばれた。それは嬉しくもあり、寂しく思えたのは自分が少し成長したからかもしれない。
そんな感慨を覚える美月だった。
「離婚届を彼に預けてきたから、きっと都合のいい時期に提出してくれると思うわ。何年も拘束してご迷惑をかけたんだから、それはあちらに任せようと思って」
「そうか……。まあ、一条もグループ内でゴタゴタがあって、悠くんも従妹との間に結婚話が出てるというから、ちょうどよかったのかもしれないな」
父の言葉に内心ドキッとしながら、美月は小さく笑った。
「ごめんなさい、心配ばかりかけて……しかも出戻りだし」
「バカ言うな。父さんはおまえを嫁にやったつもりは一度もない!」
母も隣から、
「離れていた八年分をこれから取り戻さないとね。よかった……もう一度、こんな日がきて……」
笑いながらポロポロ涙を零す。
父は怪我の後遺症かかなり痩せた。母も年齢以上に老けて見えるのは、気のせいではないだろう。決して美月の悪意や不注意で起こした事件ではないけれど、自分が原因でこんなにも苦労をかけたことは事実だ。
両親の傍にいて、少しでも親孝行したいが……。
美月が長く日本にいることで、桐生の生き残りが動き出さないとも限らない。
美月は緩みそうになる涙腺を必死で引き絞った。
(泣いたらダメよ。泣いて甘えたりしたら、悠さんと何かあったって思われる。これ以上、どんな気苦労もかける訳にはいかないんだから)
「コーヒーでも飲んでて。私は化粧室にいってくるわね」
「ひとりで大丈夫か? 母さんについて行ってもらうか?」
父の言葉に立ち上がろうとした母を制し、
「やだ、もうお父さんたら。私は十五歳じゃないのよ、大丈夫だから……私より、小太郎がどんどん向こうに行っちゃってるんだけど」
美月が指差すと、母は「あらあら」と言いながら走って小太郎を追いかけていく。
そんな母と小太郎の後ろ姿を見ながら、父と顔を合わせて笑った。
ささやかでも幸せはここにある――美月は胸に甦る温もりを感じていた。
化粧室の鏡に映る自分の顔をジッとみつめる。
(思い切り失恋したはずなのに、意外とどん底の顔じゃないわよね。悠さんのこと……それほど好きじゃなかったのかな……)
子供のころから自分が変わっていることは自覚していた。心を解放するのが怖い。愛の告白すら、どこか他人事のような言い方だった。本当は千絵のようになりふりかまわず『捨てないで』と泣き叫び、悠を困らせたほうがよかったのかもしれない。
(だって……そんなことできないんだもの。仕方ないじゃない……)
美月が一旦目を閉じ、込み上げた涙を鎮めて目を開いたとき――。
背後に立つ沙紀の姿が、鏡に映っていた。




