(7)侵入者
タクシーから下り、静まり返ったマンションのエントランスにふたりは立つ。
美月は静かなままだ。
それも当然というもの。悠は彼女の告白に何も答えを出さなかった。まるで何も聞かなかった素振りで、那智に礼を言い帰って来たのだ。
「一条様、お帰りなさいませ、あの……」
フロントの出迎えを手で制し、足早にエレベーターに乗り込む。
「いいの?」
「……えっ?」
思いがけず声が裏返り、悠は軽く咳払いをした。
「今の人、何か言いたそうだったわ」
「家の電話を切ったままだから、問い合わせがあったのかもしれないな。どっちにしても急ぐ用事なら会社や携帯に連絡してくると思うから……明日でもいいさ」
美月の顔を見ず、できるだけ平静を装って答える。
だが、悠のそんな態度を彼女が見逃すはずがなかった。
「そうね……それどころじゃないものね。離婚予定の妻から“愛してる”なんて言われて……。今は、どうやったら逃げられるか、必死で考えてるところでしょうから」
「……美月……」
知らず知らずのうちに悠は息を止めていた。
エレベーターの狭い空間に熱気が籠もり、妙に暑く感じる。
「私も植田さんと変わらないわね……いいえ、それ以上にあなたを罠に嵌めようとしている魔女なのかもしれない」
「そうじゃない。そんなことじゃないんだ……ただ……」
「はっきり言ってくれていいのよ。むしろ言ってくれなきゃ、いつまでも付き纏うかもしれないわ」
エレベーターの階数表示を涙目で睨みながら言う。そんな横顔を見ていると無条件で抱き寄せ、彼女の望むままにしてやりたいと思ってしまう。
(それで……どうなる? 愛してると言い切る自信はあるのか? 幸せにすると、言えるのか?)
美月には幸せになって欲しい。彼女にたしかな愛と子供を与えられる男、自信を持って自分の苗字を名乗らせることのできる男――。
悠自身が一条の姓を名乗ることに躊躇いを覚え、自らの存在価値を見つけられずにいる。そんな男が美月に相応しいとは思えない。
エレベーターが八階に停まり、扉が開く。
美月のほうが先を歩き、玄関扉に鍵を差し込み――手が止まった。
「……開いてるわ」
「まさか!?」
そんな訳はない。美月が鍵をかけ忘れたのかもといった気持ち……いや、期待がよぎる。
「わかった。君はここに……美月!?」
気を取り直して言葉をかける悠を尻目に、彼女は一気に扉を開けた。
「誰かいるの? いるなら返事をなさいっ!」
声を張り上げなら、ずんずん家の中に入っていく。
「美月、いったい何を考えているんだ!?」
「はっきりさせたいだけよ」
「それなら僕がやる。君は玄関で待ってるんだ!」
美月の腕を掴み外に引っ張り出そうとするが、
「……リビングに……誰かいるわ」
言うなり、彼女は悠の手を振り払う。
「え? あ、いや、待て」
彼女の言葉に気を取られ、リビングに視線を向けた瞬間、美月は悠の傍から離れた。
つかつかと廊下を進み、美月はリビングのドアを開け放った。
「お帰りなさい。ふたりとも遅かったのねぇ」
リビングには煌々と電気が灯っていた。その中央に置かれたソファの上、沙紀は座っている。まるで我が家のように寛いだ格好で、ふたりの顔を見るなり、さも愉快そうに笑った。
「何を……している? なぜ、貴様が部屋にいるんだ!?」
美月を押し退けリビングに足を踏み入れた。
悠は訳がわからないまま、沙紀に詰め寄ろうとする。
「あら、お言葉ねぇ。この間来たときにフロントの方に引き止められたのよ。姉って言っても信用してもらえないし……。だから、あなたに確認しておいて欲しいってお願いしたの。そうしたら……」
日付を言われてようやく思い出す。
それは美月を初めて抱いた日のことだった。セックスは那智に教わると電話を受け、半ばパニックで美月に思い留まらせようとした。マンションに戻ったとき、フロントに呼び止められたが……『わかっている』と答えて内容は確認しなかった。
「びっくりしたわぁ。今日訪ねて来たら、はい伺っております、なんて言われるんですもの。あなたもようやく私のことを認めてくれたってことかしら」
あのときは色々焦っていたから……というのは言い訳だろう。
付け入られる隙を作ったのは悠自身だ。千絵のことといい、いいように振り回されている自分が情けなくてならない。
「出て行け。ここは貴様の家じゃない」
できる限り感情を殺して訴える。
だが沙紀は鼻で笑いながら、
「力尽くで追い出してみたら?」
挑戦的なまなざしと共に、そんな言葉をぶつけて来た。
「それで私が触れた途端――セクハラだ、暴行未遂だ、と言い立てるつもりだろう?」
「さあ、どうかしら。ああ、なんだかお腹が空いたわね。今夜は泊まるところが決まってないの。ピザでも頼もうかしら……悠くん、あなたも食べる?」
「いい加減にしないか! 少しは恥を知ったらどうだ?」
「だったら警察でも呼ぶ? 私は構わないわよ」
不遜な表情で沙紀はせせら笑った。
警察を呼べば一から説明しなくてはならなくなる。沙紀と顛末を話し、恥の上塗りをして、それでも彼女を拘束できるのはせいぜいひと晩がいいところだ。
一応、承諾を受けてここまで来ている。色々言及すればフロントの責任も大きい。およそ無理を言って鍵を開けさせたのだろうが、落ち度は悠自身ゼロとは言えない。
(どうやったら穏便に追い出せるんだ……)
混乱が悠の心に隙を作る。
いっそ、金でも払ってしまおうか、と。そうすれば、少なくとも今夜の平安は買えるのだ。
妥協に揺れる心を叱咤するように、美月の声が聞こえた。
『ああ、警察ですか? 事件です……自宅に戻ると不審者が入り込んでいました。ええ……すぐに来てください。住所は……』
通報を終え、美月は手元の携帯電話をピッと切る。
「お望みどおり警察を呼んで差し上げたわ。五分ほどお待ちくださるかしら」
「……それで私に勝ったつもりなの?」
「なんのことかわからないわね」
沙紀はクスクス笑いながら立ち上がる。
「悠くんも可哀相に。私との関係を周囲に知られたくなかったでしょうに……。無神経な奥さんのせいで台無しになってしまったわねぇ」
「問題をすり替えようとしても無駄よ。おとなしくお迎えを待つのね、不法侵入者さん」
美月の冷ややかな返答に沙紀の笑い声がピタリと止まる。
「不法侵入になるの? まあ、知らなかったわ。だって弟の家で弟夫婦の帰りを待っていただけですもの」
沙紀の常套手段だった。『知らなかった』『気づかなかった』そう言って素直に謝罪してもう二度としないと泣くように言う。凶器を持っている訳でも、何かを盗んでいく訳でもない。
そしてまた思いがけない場所に姿を見せては同じことを繰り返す――。
常に見えないロープが首に巻きついているような感覚。それはじわじわと悠の心を疲弊させていく。
鬱屈して口を閉ざす悠の傍らで美月が答えた。
「それは私たちではなく警察に説明するのね」
「ええ、そのつもりよ。ちゃんと説明したらわかってくださると思うわ」
「何年にも渡って同じ言い訳を繰り返しているみたいだけど……次はないわよ」
「あらあら怖い奥さんね。私を脅すつもりなら……」
「バカなことを言わないで。私はあなたを心配しているだけよ。何年間も世間一般で常識とされていることが理解できず、赤の他人を弟と呼び続けているんですもの。きちんとした病院で鑑定を受けて、必要に応じて治療してもらうことをお勧めするわ」
美月の言葉に思い当たることはある。
精神鑑定なら受けさせた。結果、精神疾患とは認められなかった。仮に認められたとしても沙紀の罪が免除されるだけで、悠は更なる我慢を強いられることになる。
悠の思いが伝わったように沙紀の嘲笑がリビングに広がった。
「いいわよ。また受けましょうか? 以前はなんの病名もつかなかったと思うけど……」
「ええ、受けてもらうわ。事件を起こすたびに何度も、何度でも。病名がついたときは、そうね、あなたのために必要条件を満たした指定病院を作って差し上げるわ。せっかくのご縁ですものね、あなたが生涯に渡って治療できるように尽力しましょう。ああ……お金のことなら心配なさらないで、私は曽母から受け継いだ財産をボランティアに使い果たすことが使命だと思ってるのよ」
このとき初めて、沙紀の表情が変わった。
直後、フロントから連絡があり、警察がやってきた。
沙紀は連行されながら、
「この女は私を精神病院に閉じ込めるって脅したのよ。脅迫だわ! この女も捕まえてちょうだい!」
そんなことを喚き続けていた。




