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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第5章 妄執
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(5)愚かなマリオネット

 太ももが柵に当たり、美月は足に力を入れて踏み止まろうとした。だが、それだけで上半身を起こせるような力はない。柵に当たった部分が滑り、半身以上が空中に振られた瞬間――目を閉じた。


(ダメ……落ちる……)


 直後、何かが背中に張り付くような衝撃を受ける。

 驚いて目を開くと、ふいに視界が二転三転した。誰かが彼女を背後から抱き締め、どういったプロセスを辿ったのかわからないまま、唐突に視界が定まった。柵越しに、真っ青になってこちらを見ている千絵に姿がある。ということは、どうやら美月は柵を乗り越えた状態で止まっているらしい。

「美月さん! 大丈夫か?」

 千絵の横から現れた那智の額には大粒の汗が浮かんでいる。


(ええ、なぜだかわからないけれど……大丈夫です)


 そんな言葉が心に浮かび、声にしようとするのだが息を吸い込むばかりで声が出ない。

「大丈夫だ。もう、大丈夫だから、ゆっくり息を吐くんだ。力を抜いて……できれば、首に手を回して抱きついてくれたらありがたい」

 真後ろから悠の声が聞こえた。

 どうして美月の後ろに悠がいるのだろう? 不思議に思ったが、今、美月がその場所にいられるのは、悠が彼女を抱きかかえるように支えているからだ、と気づく。

「ゆ……さ、ん」

「説明はあとにしよう。とりあえず、僕の首に抱きついてくれ。さすがに片手だから、そう長くは持たないんだ」

 悠の片手は美月の腰に巻きついていた。

 もう片方の手が柵のポールを掴み、それでふたり分の体重を支えているらしい。

 美月はゆっくりと手を伸ばし、言われるとおり彼に抱きつく。すると悠は、空いた手で美月の膝下をすくうように抱き上げ、そのまま反動をつけて柵を飛び越えた。



「しかし……驚いたな」

 那智がホッと息を吐きながら言う。

 それに重ねるように、

「ああ、驚いたよ。どういうことなんだ? どうして君が美月と会ってる? まさか……突き落とそうとしたのか!?」

 悠の言葉は美月ではなく、千絵に向けたものだった。

 千絵はカタカタと震えるだけで、言葉にならないようだ。


「ちがう……の。彼女が、落ちそうになって……手を貸したら、今度は……自分でバランスを崩しただけ……」


 さすがの美月もまだ震えが止まらない。

 だが、言うことだけは言っておかなくては、彼女の矜持が千絵に濡れ衣を着せることを許さなかった。

「ああ、それは、こっちからはよく見えた。でも、私が言ったのはおまえだよ、一条。一緒に落ちるつもりかと思った……」

 那智によると、まさに一緒に飛び降りるかのように美月の背中に飛びつき、腕一本で体勢を元に戻したのだという。

 たしかに数メートルの高さの崖を、悠は腕の力だけでスイスイ登っていくことは知っていたが……。まさか、こんな場所でその腕力を発揮してくれるとは思わなかった。

 それ以前に、美月はそんな近くまで悠が来ていたことすら気づかなかったくらいだ。

「まあ、それは……この程度なら、何度か落ちたし……」

「下が違うだろう!? ひとりで飛び降りるのと、人を抱えて落ちるのは意味が違うんだぞ! ……いや、まあ、美月さんが怪我をするくらいなら、おまえが下敷きになったほうがいいか」

 冷静に見える那智も声が上ずっている。

 ふたりとも無事では済まないかもしれない、と内心焦っていたに違いない。


「すみません……驚かせてしまって……」


 ふと気づくと、地面に膝をついた悠に美月は横抱きにされたままだった。通行人もこちらをチラチラ見ながら歩いて行く。その視線が、美月は恥ずかしくてならない。

 やっと悠から手を放し、身体も引き離そうとする。

 だが、

「ついさっき、調査会社から連絡があった。暁月城ホテルの美月の部屋を突き止め、内線で無言電話をかけたのは君だな」

 悠の言葉に美月は動きを止めた。


 同時に、『ユウさんユウさんって……。聞こえよがしに……桜フェスティバルのときだって』つい先ほど千絵が口走った内容を思い出し……。



 千絵はあの日、納得できずに会社の周囲をウロウロしていた。『十六夜』から飛び出す悠のあとを追い、桜フェスティバルで“楽しそうに寄り添う”ふたりを見つけてしまう。

 風に乗って聞こえてくるのは『ユウさん』の声。

 悠は女性の扱いはスマートで、気前のよい男性だった。他の女性との付き合いにさえ口を挟まなければ、千絵の自尊心を満足させてくれる。悠の結婚は嘘だと、千絵に教えてくれる人がいた。その人物は、『ユウさん』と呼んでみれば彼の真意がわかる、とも教えてくれたのだ。

 そして千絵が満を持してその呼び方を試した途端、悠は千絵と別れると言った。

 美月が本物の妻であったら困る。千絵は動揺し、暁月城に勤める親戚に一瞬だけ空き部屋を使わせてくれるように頼んだ。千絵の父親に借金のあった親戚は断ることができず……。



「私のマンションにかけてきたのも君だ。千絵、私たちの関係で謝罪しなければならない相手がいるとしたら、それは妻だけだ」

「でもっ……あなたの結婚は嘘だと聞いたんだもの。……彼女も言ったわ。もうすぐ離婚するって!」

 

 千絵の言葉に悠の顔が曇る。

 美月も自分の言ったことだけに、どうフォローしたらいいのかわからない。


「一条さんの結婚は嘘で、私と結婚するつもりでいるって……そう聞いたから、だから父にも話してしまったのよ」

「聞いた? 誰から聞いたと言うんだ!?」

「父があんなことをするとは思わなかったし……。今さら、本当に結婚してて……捨てられたなんて言ったら……」

「私の質問に答えろ! 君はいったい誰から私の話を」

 焦点の合わなくなった千絵を怒鳴りつける勢いで悠は尋ねる。

 それを引き止めたのは美月だった。



~*~*~*~*~



 二時間後、『十六夜』の上にある那智の私室に三人はいた。

 つい先ほどまで千絵もいたが、彼女はすべてを告白すると美月に謝罪して引き上げていった。


「しかし……とんでもない女に見込まれたもんだな」

 千絵が帰ったあと、悠からひと通りの話を聞き那智はため息をつく。

「中々姿を見せないと思ったら、まさか、あの女が千絵の裏で手を引いてたなんて……」

 よほどショックだったのか、悠は呻くようにつぶやくとうつむいたままだ。

 那智は美月に向き直り、

「こういうことは犯罪にはならないのかな?」

「遠藤沙紀のやり方は巧妙だから……。むしろ、植田さんのお父様のほうが罪に問われるでしょうね。まあ、自業自得と言ってしまえばそれまでだけど……」

 


 悠との関係が一年を過ぎたころ、あまりに見えない妻の影に千絵は疑問を感じ始めていた。そこに近づいたのが沙紀だ。

 自分は悠の腹違いの姉である。実は結婚というのは形ばかりのこと。弟に幸せな結婚をして欲しいから、あなたが悠を本気で愛しているなら協力したい。そう言ったのだという。

 沙紀は実に一条家のことをよく知っており、千絵は完璧に彼女を信用してしまい……。

『私から色々聞いてるって知ったらあの子を怒らせると思うわ。だから、協力は内緒でさせてね。でも、生活に余裕がないから、いつまでここにいられるか……』

 沙紀のほうから金品を要求した訳ではない。ただ未来の義姉を気遣い、千絵のほうから色々な世話を申し入れただけだ。

 しかしそれが半年も続けば、千絵が法律事務所の経費として計上する不正な金の流れに、父が気づかないはずがない。

 金の使い道を問われ、

『一条さんは実は独身なの。結婚相手を探されていて、私がお姉様のお世話を任されたのよ。それって、どういう意味かわかるでしょう?』

 千絵はそんなふうに答えてしまった。

 まさか弁護士である父が“一条悠と娘の結婚”を利用して、多くの企業から便宜を図ってもらうなど思いもせずに。

 


「そもそも、同じ女性と二年近くも関係を続けた悠さんにも責任はあると思うわ。たとえ、あらかじめ遊びだと伝えていたとしても、ね」

 美月が睨むと悠は顔を逸らせた。


「わかってる。裏に沙紀がいると知っていれば、あんな……」


 千絵はある程度の信頼を悠から勝ち取っていたようだ。もちろん愛人としての信頼だが、それでも美月にすれば面白くない。

 とくに悠の『千絵』と呼ぶ声にはやり場のない苛立ちを覚える。


「彼女が沙紀を訴えることは可能だけど、評判を落とすだけで実利はないでしょうね。沙紀にすれば“弟の幸福を願っての行動”にすぎない訳だから」

 沙紀が悠を弟と言い続けるのが血縁に対する情愛であれ、打算であれ、それだけで罰することは難しい。宿泊場所や食事の提供を受けていたが、契約したのは千絵だ。現金も貸しているが、きちんと契約書も交わしており、それに関する返済期限も過ぎてはいない。

 何より、千絵が案じていたのは父親が弁護士資格を剥奪されることだった。

 周囲が羨むような結婚相手――虚栄心が見せた愚かな夢を、うっかり口にしてしまったばかりに。田舎弁護士に過ぎない父にまで危険な夢を見せてしまった、と。


「結局、十年経ってもあなたは同じだということよ。遠藤沙紀の手の平で踊らされて……」


 そのとき、ガタンと大きな音を立てて立ち上がったのは那智だった。


「そろそろ夜の部の開店時間だ。ここは好きに使ってくれていいから。――美月さん、君が怒る気持ちはよくわかる。でも、それより先に一条に言うべき言葉があるんじゃないかな?」

 

 那智の言葉を聞いた瞬間、美月は頬が熱くなる。助けてもらった礼も言わず、ひたすら嫉妬していたことに気づいたのだった。


 


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