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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第1章 離婚
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(4)ボストンの春 ―七年前―

 しばらくボンヤリとイスに座っていた。

 カタンと音がして振り返ると、そこに那智が難しそうな顔で立っている。休憩時間に入ったせいか黒のコックコートは脱いでおり、白無地のTシャツと黒のパンツ姿だ。

「久しぶりに会った奥さんを、ホテルまで送らなくていいのか?」

 悠はそれには答えず、冷たくなったコーヒーに口をつけた。

「……離婚して欲しいってさ」

「そりゃ当然だな。あれだけ派手に女遊びをして、愛想を尽かされないほうが不思議だよ。まあ、普通の結婚なら、だが」

 那智は少し呆れたような笑みを浮かべ、隣の席からイスを持ってきた。跨ぐように座ると、イスの背を抱きかかえるようにして悠を見ている。

「事情のある結婚なんだろう? 余計に、冷静になって話し合う必要があるんじゃないのか?」

 悠は那智の言葉に、七年前、ボストンで美月と再会したときのことを思い出していた。



~*~*~*~*~



 ちょうど七年前の四月、ビジネススクール留学一年目の終わりに、悠はボストン美術館で藤原美月に会った。

 美月は悠の弟、まことの同級生だ。悠が実家にいた頃、何度か家に遊びに来たことがあった。当時の彼女はまだ小学生。大人びた美少女ではあったが、悠にとって“弟の片思いの相手”以外に思うことはなかった。

 だが、美月は悠のことを覚えていたという。彼女から声をかけられ、同国人、それも顔見知りの気安さから数回約束してお茶を飲む。それを目にした大学の友人たちは何かと冷やかしたが……。いくら美月が小学生からステップアップしたとはいえ、ティーンエイジャーに変わりはない。ハイスクールに通う少女に対して、下心など一切なかった。

 しかし、美月がふとした拍子に見せる影と、そして彼女の周囲で見かける不審な男たちに悠は気づいてしまう。


『真からファザコンだって聞いてたのに、ハイスクールから留学なんて。ひょっとしてお父さんの再婚相手と上手くいってないとか?』

 悠にすれば冗談めかして尋ねたつもりだった。

 しかし、美月は深刻な声でとんでもないことを口にしたのだ。

『いいえ、継母ははは優しいわ。弟も可愛いし……父も……家族が大切だから、ここに来たの。私がそばにいたら、皆の命に関わるから……』

 それはただならぬ返事だった。



 美月の実母は旧姓を桐生奈那子きりゅうななこという。桐生家は政治家を多く輩出し、戦後の政財界に深い影響を与えてきた一族だった。そのため、現金に換えられる資産も相当あったが、換えることのできない、それでいて一部の人間には非常に重要な無形の財産も含まれていた。権力や影響力、いわゆる、公表できないが黙認されている資産もあったということだ。

 そして桐生家の祖母が亡くなったとき、美月はひとりでそれを相続する立場になってしまう。

 だが、美月や彼女の両親はごく普通の生活を望み、そう過ごしてきた。相続を放棄することも考えたが……美月の母、祖母、ともにひとり娘で近しい血縁は誰もいない。特別縁故者に該当する者もいなかった。

 仮に、美月が相続放棄をしてしまった場合、資産は国のものとなってしまう。だが、数千万円、数億円の金額ではなく。それ以上に、経済界のバランスを崩してしまうことすら起こりうる。

 美月は仕方なく、十五歳で莫大な資産を相続した。


 未成年者には後見人が付けられる。当然、父親が親権者として後見するわけだが……。しかし、財産の質と量を鑑みて、管理権を持つ後見人を桐生家から立てることになった。そして後見人を監督する人間として、双方の血縁者が相手の監督人と決まる。

 その桐生家を代表して管理権のみを有する未成年後見人となったのが、遠縁にあたる桐生善朗きりゅうよしろう

 ――そしてこの男が騒動の発端となる。


 美月の父親、藤原太一郎ふじわらたいちろうは中堅企業の重役をしていた。父親が再婚したため、美月には継母と九歳違いの異母弟がいたが、悠の覚えている限りではごく普通の家族にしか見えなかった。

 ただひとつ、あまり普通でないことは……美月の父親は国内最大のコンツェルンと言われる藤原グループ本家の人間という点か。グループの総帥は美月にとって従兄叔父にあたる人物なのだ。それが、彼女の相続に深く関わってくる。

 もし、藤原が桐生の“力”をすべて手に入れたら、経済界は著しく不均衡な事態となる。それは誰にとっても好ましい事態ではない。

 あえて言うなら、ある程度の力を持つ一条グループの後継者となった悠の立場でも同じこと。

 そんな中、桐生善朗はひとつの提案をした。

『すべてを桐生に戻して欲しいとは言わない。だが、経済界のバランスを取るため、美月が十六歳になりしだい、息子の久幸ひさゆき友朗ともろうと結婚して欲しい』

 善朗には二十代の息子がふたりいた。どちらも評判はよくないが独身だ。善朗が理事を務める経済研究所に所属し、経営コンサルタントを名乗っているが……。実際のところはニート同然という噂だ。

 結婚すれば美月は成年に達したものとして擬制ぎせいを受ける。飲酒喫煙などは認められないし、選挙権もない。だが、財産の管理は自ら行うことができる。というのは建前で、美月の婚姻により、父親の後見――ひいては藤原の鎖を外そうというのが桐生の狙いだ。

 実質、妻の資産を動かす権利は夫のほうが強くなる。父親の出番はなくなり、いずれすべての資産を美月から奪い取る算段なのは誰の目にも明らかだった。


 当然、美月の両親は反対する。

『娘には、仕事も結婚相手も自由に選ぶ権利がある! 桐生も藤原も関係ない。そんな結婚は承諾できない』

 父親の太一郎は徹底的に桐生の要求を跳ね除けた。

 最初は嫌気が差すほどしつこくやって来るくらいだったが、その口調はしだいに攻撃的になり、脅迫じみたものに変わっていく。

 


 ……そこまで話したとき、美月の瞳に炎が浮かんだ。

 それが怒りのあまり込み上げた涙で、だが、彼女はその涙を上を向いてごまかし、決して流さなかった。

 いつも礼儀正しく、穏やかな笑みを湛えていた少女。弟から聞いていた彼女が、どこにでもいる普通の少女ではないことに、悠はこのとき気がついた。

 奥歯を噛み締め、頬を小刻みに震わせながらも、涙を飲み込む彼女に……不覚にも見惚れていたような気がする。

 

 悠は小さく咳払いして、

『いやなことなら無理に話す必要はないんだ。深く詮索するつもりはないし……』

『こんなこと……聞かされても、お兄さんが困りますよね』

 気遣ったつもりが、拒否に取られたようで、悠は慌てて付け足す。

『そうじゃない。日本から離れたこんな場所で偶然会えたのは奇跡のようなものだし……。僕の力になれることならなんでもしてあげたい。ただ……言葉にできないほど辛いこともある、と、僕も知ってる』

 自分で言った言葉に悠の胸はズキンと痛んだ。

 家族がらみの話題は、今の悠にはきつい。自分の話をせずに、美月のことだけ聞いていられるなら、そのほうが楽だった。

 どうやら、美月はそんな悠の本心が、何度か言葉を交わしただけで察したらしい。昔話をしたのが最初に会ったときだけで、あとは一切尋ねないのがその証拠だろう。ハイスクールを一学年スキップすることが決まっているというだけのことはあり、頭の回転はすこぶる速い。

 そんな美月の口から出たのは……。


『私のせいで弟が誘拐されて……私と弟を助けようと、父が拳銃で撃たれたの……』


  

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