(1)試される朝
美月は朝方まで悠のベッドで過ごし、夜明け前、小太郎の眠る和室へと戻っていった。
おそらく二時間も眠ってはいないだろう。少し眠そうな美月を横目で見ながら、一睡もできなかった悠は欠伸を噛み殺す。
「悠お兄さんは僕のことが嫌いですか?」
それは美月の弟、小太郎からの質問だった。
血は繋がっていないというのだから、姉弟は似ていなくて当然だと思う。病弱だったという小太郎は小柄で年齢より幼く見える。だが、人の目を真っ直ぐに見ることのできる少年だった。後ろ暗いところばかりの悠にすれば、小太郎の真摯なまなざしが恐ろしく、ついつい視線を逸らしがちになってしまう。
(曲がったことの嫌いな美月の瞳によく似てる。馬鹿正直な真となら、気が合うだろう。それに比べて僕は……)
早めの朝食を終え、美月は東京に戻るふたりのためにお弁当を作っていた。
バイクの調子を見てくるとマンションの来客用駐車場に真が向かい、リビングは小太郎と悠のふたりきりだ。
「いや、まさか。昨日のことを言ってるんだったら、悪かった。本当は夕食までには戻る予定だったのに、なかなか大阪から帰れなかったんだ」
一生懸命言い訳をする悠に、小太郎は笑った。
「だったらよかった。僕のせいで、お姉さんは友だちとケンカすることもあったから……」
「ケンカ? 美月がかい?」
美月なら遠慮なくやるかもしれない。理不尽なことなら、たとえ身内でも容赦なく言い負かしそうなタイプだ。
小太郎がゆっくりと説明してくれたところによると……。
どうやら、美月とはあまりに違う弟の存在に、友人たちは気遣いを忘れるか、やり過ぎるらしい。どちらも結果的には同じで、友人らは小太郎を避けるのだという。
「遊園地とか行くときは必ず僕も連れて行ってくれて……。でも僕は苦手なものが多いから」
いつだったか美月が話してくれたことがある。
中学時代の彼女は人と話を合わせて付き合うのが苦手だったという。嫌いではないのだが、同じ気持ちになって楽しめないので疎外感を抱くのだ、と。
そんな彼女を人の輪に繋ぎとめてくれるのが小太郎の存在だった。自分を頼りにして、しっかり手を握り返してくれる弟を少しでも楽しませてやりたい。その一念で、中学時代の彼女は多くの時間を弟のために割いた。そのため、友人たちとの付き合いに、弟を同伴することが多かったのだという。
ただ、未就学児童の小太郎が中学生と一緒に遊べるはずもない。
ましてや、多くの人が楽しいことでも、小太郎には苦手に思えることも多かった。そんなとき彼は堪え切れずに泣き出してしまう。
「僕を嫌う人もいて……。お姉さんは、僕と一緒がイヤなら誘わなければいい、って言うんだけど。でも、みんなお姉さんのことが好きだから、仲よくしたかったんだと思う」
そう言うと小太郎はまたジッと悠をみつめた。
「もし、僕が来たせいで悠お兄さんとケンカしたら、どうしようって。僕がもっと普通だったらいいのに、僕は普通じゃないから」
小太郎の言葉に悠は胸が痛くなる。
「そうか……本当を言えば、僕も普通じゃないんだ。自分で自分が情けないよ。真のようになれたらいいと思う。君も、真のことが好きだろう?」
「はい! 真お兄さんは優しくて楽しくて、大好きです」
屈託のない返答に悠も笑うしかない。
「でも、悠お兄さんも好きです。だって、お姉さんの大好きな人だから」
悠は不覚にも涙が零れそうになる。必死でごまかしながら「ありがとう」と笑い返した。
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「大阪あたりで合流できるはずだから、ちゃんと如月さんに電話しろよ」
「勇気兄ちゃんだろ? 仕事大丈夫なの?」
如月勇気は父の親友の息子だ。悠より十一歳年上で警察官をしている。
悠が小学校に上がったころに弟の真が生まれた。母が真にかかりきりだったころ、よく如月家に預けられ遊んでもらったのを覚えている。悠にはなぜか一条の祖父母の家より、如月家のほうが居心地がよかった。
「ああ、確認した。如月さんの運転のほうが安心だからな」
「それはあんまりだろ。バイクに乗れない兄貴に言われたくない」
「うるさい」
勇気は白バイに乗っている。昇進したらしく最近はあまり現場には出ないというが、それでも腕前は真よりはるかに上だ。
悠より少し遅れて、美月と小太郎も来客用駐車場に下りてくる。
「いい? 真くんの言うとおりにするのよ。邪魔はしないこと。気分が悪くなったり、怖くなったりしたら、早めに言いなさい。真くんは怒らないから……わかった」
「うん、わかった」
小太郎にお弁当の入ったリュックを背負わせながら、美月は過保護な母親のように注意を繰り返している。
「事情が許すようになれば、姉さんから会いに行くから。もう、無茶はしないで。お父さんやお母さんにもそう伝えて」
「うん。大丈夫だよ。お父さんが退職したら、みんなでお姉さんの住むボストンに行くからね。そうしたら、また一緒に暮らせるよ」
「……アメリカまでバイクでは来られないわ」
美月は優しく微笑んだ。
「船があるよ。ボストンも海の近くなんでしょう?」
「ええ……大西洋側だけど。それに、アメリカまで定期客船はないのよ。貨物客船で西海岸に着いても、バイクで大陸を横断することになるんだから……」
「だったら反対に回って行くよ。大丈夫、海は必ず繋がってるんだから……お姉さんのとこまで行けるよ」
「そうね。小太郎にかかったら、なんでも簡単なことね」
幸福に満ちた笑顔を浮かべ、美月は小太郎を抱き締めた。
(嘘をついてるんだ……桐生の問題はほとんどなくなった、しばらく様子をみたら、東京の実家に戻ることも可能だ、と……伝えなかった……自分の欲望のために)
後ろめたさが際限なく襲ってきて、悠は姉弟の姿から目を逸らす。
「兄貴――」
そんな悠の態度に何か感じたのか、真の声は珍しく低いトーンで声をかける。
「……なんだ」
「俺たちより、美月ちゃんが大事か?」
「俺たちって?」
「親とか、弟妹とか……」
真の質問の真意はわからない。だが、
「大事だよ。“妻”だからな」
形式上であれ、期間限定であれ、今の悠にとって美月はたったひとりの家族だ。プライドを捨て、嘘をついてまで引き止めたいほどの……。
「そっかー。だったらいいよ。今はそれで勘弁しておいてやる」
「なんだ、それは……」
「俺の気持ちは兄貴にも言ったし、美月ちゃんにも言った。返事が決まったら、ちゃんと教えろよ。いいか? 十年前みたいに逃げんなよ。何が起こってるのか、兄貴が何を考えてるのか、何も言わずにあのときは逃げたけど……今度は逃がさないからな」
真は、悠と美月の関係を知ったのだ。
それに気づきながらも、悠には何も言うことができない。
「――逃げてない。逃げてたら、今ごろ日本にはいなかったろうな」
「ふざけんなよ。吼える犬から十メートルしか離れてない、百メートルに比べたらマシだろう、なんてマジで言ってんのか? ったく、兄貴も父さんとそっくりだ。ボロボロになっても自分で担ごうとする。姉貴や俺も、紫だっていつまでもガキじゃないんだぜ。少なくとも、美月ちゃんからは逃げるなよ。そんときはぶん殴るから、忘れんな」
朝の陽射しが清んだ空気を金色に染める。眩しい光の舞う中、車道まではみ出した緑の街路樹の下をふたりの弟は走り去った。




