(3)魔女の微笑
(あのまま……抱いてくれてもよかったのに。本気だと言った言葉の意味を、ちゃんと教えて欲しかった……)
美月は寝不足気味のぼんやりとした頭で考えていた。
昨夜、ソファで美月に口づけながら、悠はその先に進もうとはしなかった。ふたりの弟がすぐ近くに寝ているのだから、当然といえば当然なのだが。
抱き合うことが新鮮で楽しく、ついついのめり込んでしまいそうだ。
美月は慎みを欠いてしまった気がして、少し後ろめたい。形だけとはいえ夫婦なのだ。成人した大人の男女が自分の責任で抱き合うことに、誰も文句は言わない。などと、自らに言い訳をしてしまうくらいに。
悠は続けて休暇を取るために出勤した。
(今朝の様子もおかしかったし……。悠さんは早めに、私たちの関係を切り上げるつもりなのかもしれない)
真の顔を見て、悠は我に返ったのかもしれない。身体を求め合う自分たちの行為が、愛情とは呼び難い浅ましい姿である、と。
悠と真の間にどんな会話があったか知らない美月にとって、それは切ない現実だった。
「美月ちゃん……小太郎が心配してんだけど」
ふいに真の声が聞こえ、美月はハッとして顔を上げた。
真の横にはウサギを抱いた小太郎が、途方に暮れた瞳で姉を見つめていたのである。
三人が来ているのはO市内の動物園だ。弟たちは学校の関係から、今日一日しか滞在できない。明日の朝にはバイクで東京に帰るという。強行軍にならないようにするため、大阪まで迎えが来てくれるそうだ。別の人間が小太郎をバイクに乗せ、真は車で戻ると聞いた。
悠を送り出したあと、せっかくだから、季節もいいことだし三人で外出することに決める。とはいえ、三人とも旅行者でO市内は地図なしではどこにも行けない。
しばらく考えた結果、動物好きの小太郎のため、シンプルでわかりやすい場所……動物園に来たのだった。
春休み終盤で子供連れの客も多く、結構な賑わいを見せている。こういった場所なら妙なことを企む連中がウロウロしていたら目立つだろう。とっさに、子供連れやデートを装って接近してくることはまず不可能だ。
もちろん悠にも連絡して許可をもらったが……。『真と一緒なら安心だ。いざというときはアイツが君を守るだろう。楽しんでくるといい』そんなふうに言われたのである。
「やっぱり、兄貴がいないと寂しい?」
「え? どうして……やっぱり、なの?」
真の質問を不思議に思い、美月は聞き返した。
「だって、昔からうちに来るたびに『お兄さんは?』って聞いてたじゃない。俺がどんなに一生懸命話しかけても、君の目は兄貴を追ってた。……だから、結婚したって聞いたとき、幸せな美月ちゃんを見たくてボストンまで行ったんだ」
それは予想外の答えだった。
美月自身、そんなに昔から悠の姿を追いかけてきたつもりはない。
「それは……見ていたかもしれないけど、そんな特別なものじゃないわ。私にも兄がいたらよかったのに、と……それだけよ」
そう答えて、美月は小太郎の抱くウサギに手を伸ばす。
「そうかな……ん、俺の気のせいかもしれない」
真は小さな声でそう言った。
悠に惹かれたのはボストンで再会してからだ。
そう思う反面、他の誰にも近づかなかったのに、悠の姿を見るなり話しかけてしまった。あの衝動に理由があるとしたら……それは“恋心”だったのかもしれない。
そんなふうに認めてしまいそうな美月もいた。
美月は途中の売店で飲み物を買い、ベンチに座る。
真と小太郎は動物に餌をやるのに夢中だ。幼稚園くらいの子供たちと一緒になってはしゃぐふたりを見ているのは楽しい。でも、もしここに悠がいたなら……。
小さな子供の手を取り、馬に餌をあげようとしている。そんな真の姿が悠に重なり、美月は愕然とした。
(何を考えているの? 無駄な夢は見たらダメだって言ってるじゃない。悠さんは絶対に子供は欲しがらない人なんだから……)
真を見続けているのが辛くて、美月はベンチから立ち上がった。
シマウマを見るフリをして、彼らから少し離れる。
「一条……美月さん?」
ふいに名前を呼ばれ、美月は警戒を露わに振り返った。
だが聞こえてきた声は女性。それもおそらくは三十代後半、美月にすれば継母に近い年代だ。
「失礼ですが……」
「ああ、ごめんなさい。私は遠藤沙紀といいます。知り合いの子供さんの付き添いで来たんですけど……子供にはとても追いつけないわ」
沙紀はサービス業を思わせる人懐こい笑顔で美月に話しかける。
薄化粧だが顔の作りが派手なせいか華やかな印象を与える女性だ。若々しいといえば聞こえはいいが、色っぽい、ともすれば妖しい色香を漂わせていた。
美月は彼女が夜の商売をしている人間だと思いつく。
敵意めいた危険なものは感じないが、沙紀は『一条美月』の名前で声をかけてきた。
それを知っているということは……。ここ数日の間に知り合った人たち以外では、桐生に繋がる――敵だった。
「ごめんなさい。遠藤さんというお名前に心当たりがないのだけれど……。どちらの遠藤さんかお聞かせくださる?」
ニコリともしない美月に相手も警戒したのだろう。
わざとらしく口角を吊り上げ、先ほどとは違うアルカイックスマイルを見せた。
「あら……そうだったの? 悠も困った子ね」
その呼び方に美月はドキリとした。
悠にとって美月は特別だと那智が教えてくれたことがある。それは、悠を『ユウさん』と呼ぶことだ。那智の知る限り、親しげにそう呼んだ女性とは翌日には別れていた、と。
美月がそう呼ぶのは悠の母親の影響だった。
一条家に遊びに行くと、悠や真の母親は息子たちを『ユウ』『シン』と呼んでいた。
『本当は子供たちが混乱するからよくないんだけど……』
そんなふうに笑っていたが、母親と息子の特別な繋がりを見た気がして……。ボストンで再会したとき、『お兄さん』と呼ぶ美月に悠は名前で呼んで欲しいと言い……『ユウさん』になった。
悠はそのことで美月に訂正を求めたことは一度もない。
この沙紀という女性は悠の恋人だろうか?
それも、『ユウ』と呼ぶことを許した特別な女性。悠より十歳近く年上に見えるが、年の差は恋愛を否定する理由にはならない。
「主人のお知り合いかしら。でしたら、彼と直接お話になったほうがよろしいわ。私が聞いてもお答えできませんので……。失礼」
できる限り平静を装い、美月はその女性から離れようとした。
そのとき、沙紀が小学校中学年くらいの子供の姿を目で追いながら、ポツリと言った。
「私にも、ちょうどあの子たちくらいの子供がいたはずなの」
「……そうですか。連れがおりますので……」
「悠が泣いて堕ろして欲しいって頼むから、言うとおりにしてあげたのに。そのあとは、一条家のお金の力で私のことを追い払ったのよ。ホント、冷酷なところまで父にそっくりだわ」
およそ、頭の回転が鈍いほうではない美月だが、さすがの彼女にも沙紀の言葉の意味がわかりかねた。
だが、悠の過去を知る女性なのは確かで、それは美月にとって不愉快極まりない話のようだ。
「それがどうかなさって? 妻である私が聞くべきことかしら? 過去のことなら関係はないし、過去でないなら……発言は充分に気をつけたほうがよろしいわ」
同業者すら声を失う冷ややかな言葉と視線。美月の美貌は鋭い刃物のように沙紀の口舌を斬り捨てた。普通の女性であれば、そのまま立ち去るはずだ。
そう……普通の女性なら……。
沙紀は予想外にも憫笑を浮かべたのである。
「あら怖い顔。でも、私にその手の脅しはきかないわよ。なぜだか教えてあげましょうか、お嬢ちゃん。私の父親は、一条聡というの」
「……何をバカな……」
「嘘じゃないわ。だって彼は私の母と結婚していたんだもの。――そうよ。悠は私の異母弟。あの子は実の姉に手を出して妊娠させた鬼畜ってこと。そのことがバレて、母親に絶縁されて家を追い出されたの。それがあなたのご主人の本性よ」
魔女のような沙紀の笑顔に、声を失ったのは美月のほうだった。




