(3)月日が変えたもの
他に客はいない個室同然の二階席に座り、ふたりは出された食事を終えた。
コーヒーが美月の前に置かれたとき、彼女はごく自然に「ありがとう」と口にする。その気遣いと優雅な振る舞いは見ているだけで心地よい。
悠が何も言わずにじっと見つめていると、美月は困ったように口を開いた。
「悠さん、私の格好はそんなにおかしいかしら?」
「え? ああ、いや……だが、生活を切りつめている、という訳じゃないんだろう?」
サイズの合わないスーツが気になり、ついつい余計なことを言ってしまう。
「もちろんよ。このスーツのことが気になるのね。これは……身長のわりに貧相な胸とヒップを隠したいだけ。それに、私はウォール街で働いている女性とは違うわ。シェルターの弁護士なんだもの」
ひと息に言うと彼女はコーヒーを口にした。
美月が顧問弁護士をしている『ボストン・ガールズ・シェルター』はいわゆる女性救済センターだ。あらゆる暴力の被害者となった女性を保護し、法的な救済から自立まで支援するシステムになっている。公的機関の介入や圧力から入所者を守るため、民間の寄付による運営を基本としていた。
彼女はそういった女性を守るために弁護士の道を選んだ。
悠自身、大学一年までは法律家を目指していた。そのため、ボストンで一緒に暮らしていたときは、日本の法律について知っている限りのことを教えたと思う。
「たしかに、シェルターの弁護士に高級なスーツは相応しくないだろうが……。とりあえず久しぶりの帰国なんだ。それなりの格好はして欲しかったかな。まるで僕が、生活費を渡してないみたいだからね」
自分でも酷く意地悪な言い方だと気づいた。
女との痴話げんかを見られた気まずさか。連絡もなしにやって来た苛立ちか。いや、そうじゃない、おそらく――。
「あら? 実際にいただいてないもの。違った?」
コーヒーカップを置くと、美月は澄ました顔で言い放つ。その目は挑戦的にキラキラと光っていた。
「必要なら送るよ。夫の義務だ」
「じゃあ安心して、もうすぐ義務はなくなるから」
悠は息をつくと、コーヒーをひと口啜る。
「なるほど、次に義務を負う男は……その大きなジャケットに隠されたバストとヒップももらえる訳だ」
その瞬間、テーブルが揺れた。
美月が勢いをつけて立ち上がったせいだ。両手をテーブルについている。その瞳には怒りが見えた。
「いい加減にしてくださらない? ボストンを出てから、一度も会いに来なかったのはあなたのほうでしょう? 私がそう簡単に日本に戻れないことも知っていたはずよ。悠さんには感謝してます。でも、嫉妬深い夫のように振る舞うなら、私は代理人を立てるわ」
嫉妬などありえない。女性に執着したことなど一度もないのだから。十六歳の美月に感じた同情、或いは保護欲。それが大人の女性に成長した彼女を前にして、支配欲や性欲になりつつあった。
悠はあらためて深呼吸する。
「悪かった。嫉妬じゃないよ、ただ……美月ちゃんを守ってあげられるのは自分だけ、そんな思いがずっとあったんだ。もう必要ないと言われて、ショックだったらしい」
気持ちの半分くらいを正直に答える。
「とにかく座ってくれ。代理人は要らない。離婚理由を話してくれないか?」
美月は黙って腰を下ろした。
しばらく無言の時間が過ぎ、やがて、彼女のほうから口を開き……。
「私……子供を産もうと思ってるの」
ガタンとイスが後ろに倒れた。
今度は悠の番だ。驚きのあまり言葉にならない。目を見開き、彼女の腹部の辺りを凝視する。大きなジャケットもそのためだったのか、と思うと、どうにも落ちつかない。
「違うわ。妊娠してるわけじゃないの。これからのことを言ってるのよ」
「相手は? 父親になる男は決めてるわけか?」
「そうね、候補は……」
「アメリカ人?」
「日本人も含めてアジア系も候補に入れてるの。でも、選択肢が少ないから……ずっと向こうで暮らすなら、アメリカ人の父親でもいいと思ってるわ」
何をどう言えばいいのかわからない。
悠は立っているだけの気力がなくなり、イスを起こすとそこに座り込んだ。
「悠さん、どうしたの? 大丈夫?」
まるで新しい車でも選ぶかのような口ぶりに、何も答えられなかった。
美月は男というものを嫌っていたはずだ。日本でも酷い目に遭い、向こうに渡ってからも散々な思いをしてきた。『私は一生結婚なんてしない』たった十六歳の少女が何度も言っていた言葉だ。悠の耳に今でも残っている。
「いや……驚き過ぎて言葉もない。随分な心境の変化だと思ってね」
美月は一旦口を閉じると、目を伏せて話し始めた。
「私、今年二十四歳になるの。母が私を産んだのが二十二歳のとき、そして二十五歳で亡くなったわ。母が命を懸けて子供を産んだ意味を……私も知りたいと思ったの」
「それで……父親候補を探した訳か。使ったのは結婚相談所か何かかい?」
悠の問いに美月は吹き出した。
「いやだ、悠さんたら。言ったでしょう? 私は一生結婚なんてしない。もちろん、本当の結婚は、って意味だけど。――精子バンクを利用するの」
先ほどとは別の衝撃が悠を襲った。
だがすでに、美月は何度か訪れて相談したという。相手の身元は一切わからないが、人種や髪、瞳、肌の色などはチョイスできる。あとは身体能力であったり、学歴、既往症など……。様々な条件でふるいにかけて候補者を選ぶ。
だが、彼女の場合大きな問題があった。“夫”の存在だ。
既婚者の場合、夫の合意が不可欠となる。これより先の面会には夫を伴って行かなければならない。また、明確な理由も聞かれるという。
「このままの状態で私が子供を産めば、自動的にあなたの実子になってしまうの。それだとあなたに迷惑をかけてしまうから。離婚していただけますか?」
悠は必死に頭の中で整理しようとする。
「君が子供を産みたいという気持ちはよくわかった。ひとつ確認しておきたい。例の……“桐生”の件はすべて片がついたのか?」
桐生とは美月の亡くなった母の旧姓。
その問いに美月は口を引き結んだ。悠は大きく息を吐きながら、
「美月ちゃん……なぜ、僕らが結婚することになったのか、もう一度ゆっくり考えてから出直してくるといい」
「でも、私は」
「君にはまだ相当の資産がある。それに……」
「私はもう成人してるわ! 二度と……家族に迷惑をかけることはないはずよ」
美月の反論に悠は首を振る。
「いや、今度は子供ができる。子供の命を盾に結婚を迫られても、君はノーと言えるか?」
水の入ったグラスを取ろうと、美月は指を伸ばした。その指は小刻みに震えている。そして、グラスを掴み損ね、倒しそうになったとき、悠の指がスッとグラスを持ち上げた。
残った手で美月の手を握る。
「とりあえず、連中の現状を調べさせてみよう。君自身、安全と言い切れないから、実家にも戻らず僕の元に来たんだろう? しばらくは僕のマンションに滞在すると……」
「結構です!」
そう言うと同時に美月は手を振り払った。
「空港で紹介していただいて、暁月城ホテルに部屋を取りましたから。それと……いくら夫婦とはいえ、馴れ馴れしく触らないでください」
「嵐がきたら、ひとりで寝るのは怖いんじゃないかな? 美月ちゃん」
小さな子供に話しかけるように言うと、美月は立ち上がってバッグを掴んだ。
「その呼び方はやめてください! 不愉快だわ」
美月は階段に向かいながら悠を振り返った。
「あなたはとても紳士的で立派な方だと思っていたのに……。この六年で随分変わってしまったんですね。これ以上、失望させないでください。失礼します!」
悠は何も答えず、そして、彼女のあとを追わなかった。