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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第4章 過去
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(2)姉と弟

「小太郎……本当にどこも痛いところはない? 気分は悪くない?」

 四畳半の和室は小さめの座卓をリビングに出しても、ふたり分の布団を敷いたら畳の見える場所はほんのわずかになった。

 美月が枕カバーを付けながら尋ねると小太郎はふわりと笑う。


「大丈夫。これでも結構丈夫になったんだよ」


 その温かな笑顔は八年前と少しも変わっていない。そのことにホッとして、美月は涙が零れそうになる。


 小太郎は平均に比べてほんの少しIQが低かった。療育手帳をもらったり、特別支援学校に通うほどではない。今も公立中学校に通っているが、成績は下から数えたほうが早く、普通科高校への進学は厳しいと聞いている。

 体格も幼いころから標準をはるかに超えていた美月に比べ、かなり小さめだ。小学校に上がる前は病弱で、美月の知るだけで三度も救急車で運ばれていた。

 弟ができる前、美月の願いごとは『早く大人になりたい。もっと大きくなりたい』だった。しかし、小太郎という弟ができて、彼女の願いごとは『小太郎が元気になりますように。無事に大きくなりますように』に変わった。


「でも、お父さんもお母さんもよく賛成したわね。タンデムで七〇〇キロもの距離……姉さんだったら反対するわ」

「お母さんは心配そうだった。でも、お父さんが……お姉さんに会ってきたらいいって」

「伊勢崎のおじい様はお元気? 千早の会長も……入院されたって聞いたけど、大丈夫なのかしら?」


 伊勢崎の祖父とは父方の祖父のこと。

 祖父は十四年前、藤原の祖母とは離婚した。今はシルバー向けのマンションでひとり暮らしをしている。

 父は同居したかったようだが……父の家で藤原の祖母の面倒をみている関係から、伊勢崎の祖父が遠慮をしたらしい。

 藤原の祖母は美月にとって天敵だ。

 だが、そんな祖母も今年で七十六歳。美月が日本を離れている間に祖母は脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残った。現在はひとり息子である父が自宅に引き取り同居しているというが、美月にすれば顔を見るだけで何を言われるか恐ろしい。

 父が大怪我をしたときも、『母親が疫病神なら娘も同じ』と罵られたことは、今でも忘れられない。

 千早会長は父の勤める千早物産のオーナーだ。藤原の縁戚にあたる人物で、美月が産まれる前から父と亡き母が世話になった人だった。

 それに加えて、千早会長の孫と美月がまたいとこという関係から、彼女のことも実の孫同然に可愛がってくれた。

 父が仕事に復帰してすぐ、千早会長から社長の椅子を譲られ、その直後に心臓を悪くして入院したと聞く。

 美月はその話を聞いたとき、見舞いに行けない自分が薄情者に思え、悔しくてならなかった。


「伊勢崎のおじいちゃんも千早のおじいちゃんも元気、春休みにみんなで藤原の本邸でお花見をしたんだ。三月には、奈那子ママのお墓参りも行ったし……」

「え? 伊勢崎のおじい様も?」

「うん、おばあちゃんも一緒にね」

「……それは、どこのおばあ様?」

 

 美月にはよくわからない。

 伊勢崎の祖父が再婚したという話は聞かないし、桐生の祖母はとうに亡くなっている。

 小太郎にすれば母、茜の実家、佐伯家の祖母がいるが……。美月の知る限り、小太郎の小学校の入学祝いすら寄越さなかった人間だ。一緒に墓参りに行くだろうか?


「藤原のおばあちゃん。すっごく優しいんだ。僕がテストで何点取っても褒めてくれるんだ」

「…………それは、病気が酷くなったのかしら? 寝たきり、とか?」

「違うって。リハビリして歩けるようになったんだよ。美月姉さんに会ったら最初に謝りたいけど、許してくれないかもしれないって言ってた。僕はお姉さんは優しいからそんなことないって言ったんだけど……。おばあちゃんのこと、怒ってないよね?」

 

 時間をかけて、小太郎は必死で祖母の現状を話してくれた。

 どうやら、あの頑なだった祖母の心を変えたのは小太郎らしい。美月姉弟の家系図はかなり複雑で、美月すら混乱することがある。

 しかし、それらは小太郎にとっては実にシンプルなものだった。

 祖父は祖父、祖母は祖母、血の繋がりも何も関係なく、彼は誰のことも愛して慕った。

 思えば、祖母は寂しい人だ。嫌味ごとでも口にして近寄らなければ、誰も彼女に近づこうとしない。身から出た錆、とはいえ……孤独は人の心を腐らせ、狂わせる。


「怒って……ないわ。そもそも、姉さんを嫌っていたのはおばあ様のほうだもの……」

「よかった。お姉さんが帰ってきたらみんな喜ぶよ。そのときは、真さんが僕のお兄さんになるんだって。それって、ホント?」


 なんと答えたらいいのかわからない。

 真は去年の夏にボストンを訪れたときも同じようなことを言っていた。美月が十六歳のとき、真も十六歳だった。結婚可能な年齢であったなら、自分が結婚していたのに、と。

 真は本気で美月を想っているのだろうか……。初恋の延長ではなく、ひとりの男として。


「それは……でも今、あなたがお義兄さんと呼ぶのは、悠さんのほうよ」

「うん! もちろん、わかってるよ。真さんから聞いてる、お義兄さんて凄く頭がよくてカッコいいんだって。優しくて、頼りになって……両親にとって自慢の息子だから。自分じゃ代わりにならないって……ちょっと悲しそうだったな」


 ツキン、と胸が痛む。

 それは小太郎自身の思いも含まれているのではないか、と。

 美月が日本にいたころ、心ない人間が彼女と小太郎を比べて『お姉さんのIQを少しもらえたらよかったのに』などと下種な言葉を口にした。美月がいなくなったことで、彼に余計なことを言う連中が増えてはいないだろうか……。それが心配でならない。


「小太郎……学校で何か言われた? もしそうなら、お父さんかお母さんに……小太郎?」


 隣の布団からスースー寝息が聞こえる。

 美月が思うより小太郎は強いのかもしれない。苦笑して、布団をかけてやる美月だった。



~*~*~*~*~



 薄暗いリビングに美月は足を下ろした。

 いつもは開け放しの和室のふすまが、今は全部閉まっている。自分が出てきたところも、後ろ手でそっと閉めた。


(そういえば……悠さんが言った言葉……あれは本気だったのかしら?)


 真と小太郎が来る寸前、悠とふたりバルコニーで戯れていた。何度も重なり合い、キスを交わして、悠は何か言いたげだった。 

 美月が悠の部屋に行くかどうか迷った、そのとき、


「小太郎くんは寝たのか?」

「……きゃ……」


 ふいに話しかけられ、美月は小さく声を上げる。

 悠だった。ソファに座り、少し酔った風情でこちらを見ていた。テーブルの上には、冷蔵庫に入りっぱなしだった白ワインが置いてある。白ワインの注がれたグラスには水滴がビッシリとついていた。


「ええ……寝たわ。ごめんなさいね、突然やって来てしまって」

「それはお互い様だ。どうせ声をかけたのは真のほうだろうし……」

「でも言い出したのは小太郎みたい。私に会いたいって。それで、真くんがバイクを提案してくれたらしいわ」

 美月はそう言いながら悠の隣に座った。

 グラスに手を伸ばし、少しワインを口に含む。

「冷やし過ぎね、味がわからないわ」

「アルコールは嫌いなのに、ワインの味はわかるんだ……」

 まるで拗ねたような悠の言葉に美月はクスッと笑う。

「意地悪ね。何もわからないくらい冷たいって言ってるんだけど」

「シャンパンじゃないけど、口移しで飲ませてあげようか? 美月ちゃん」

 そう言った悠の瞳に欲情の火が見えた。


(すぐそこに小太郎がいる。それに、書斎には真くんも寝ているのに……)


 断らなくては、そう思いながら……美月は悠の肩にもたれかかり、目を閉じた。

 

 

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