(4)奪わない恋もある
「上手くいったみたいじゃないか。おめでとう」
発泡酒を差し出され、悠はそれを受け取りながら、那智の言葉に答えた。
「いや、そんな……めでたくはない、というか……」
「なんだ。まだ、離婚するとか言ってるのか? 往生際の悪い男だな」
悠は黙ったままプルトップを開け、口に運んだ。
美月は那智になんと言ったのだろう。これではまるで、悠から離婚を言い出したかのようだ。離婚して欲しいと言ったのは美月のほうである。悠はこれまでどおりの関係を……。
(……これまでどおり?)
これまでと同じでいられるはずがない。そんな思いを自覚しながら、悠は従業員の女性たちと楽しそうに笑う美月を見ていた。
桜の下にブルーシートを広げ、男女六人ずつの従業員が寛いだ表情で楽しんでいる。みんな二十代で仕事場の雰囲気はすこぶるよさそうだ。面識はあるものの、悠自身はそれほど親しい付き合いをしてきたわけではない。那智にしてもそうだ。彼から声をかけられ、色々誘われなければ、友だち付き合いはなかっただろう。
そんな中、ひと際悠の視線を惹くのは、やはり美月だった。
今の彼女は保護しなければならない少女ではない。目が離せないほど、魅惑的なひとりの女性に過ぎない。カシュクールワンピースの胸元から形のいい鎖骨が見え……。悠はその部分に口づけ、強く吸い上げて、自分の刻印を押して回りたくなった。
動悸が早くなるのはアルコールのせいだけではないようだ。
食道から胃に流れ込んだはずの液体は、なぜか悠の下腹部に熱をもたらした。これ以上、美月を見つめて少年のような妄想を続けたら……この場から立ち上がることもできなくなるだろう。
悠はその思いに軽く首を振る。
「あ、すみません、遅くなりまして。……差し入れをお持ちしました!」
那智と並んで大きな石の上に座る悠の横で、女性の声がした。
声のしたほうを見ると、細くて小柄な女性が満面に笑みを浮かべ立っている。彼女は両腕でビールの箱を抱えていた。350ml缶を一ケース……かなり重そうで悠が手伝おうとしたとき、那智のほうが素早く動いた。
「来生さん、どうしたの? 中山くんは一緒じゃなかったの?」
女性は少し切なそうに微笑み、
「えっと……中山さんは別の仕事で。どうもすみません、せっかく声をかけていただいたのに」
「いや、そんなことはいいんだけど。ひとりなら電話すればよかったんだ。取りにいったのに……重かっただろう?」
「いえいえ、こう見えても私、力持ちなんですよ!」
那智はさっさと箱を持ち上げ、従業員に「アカツキフーズからの差し入れだ」そう声をかけてひとりに手渡した。
従業員たちは「ありがとうございまーす」と声を揃える。
女性は何度も頭を下げながら、
「こちらこそ、いつもお世話になってます」
そう言ってニコニコ笑った。
「紹介するよ。うちに業務用の食品を入れてくれてるアカツキフーズの営業で来生さんだ。――来生さん。彼は市内の一等地に支社ビルを構える、一条物産の統括本部長殿だよ。嫁さんも一緒だけど、女性には手が早いから、声をかけられてもついて行ったらダメだよ」
那智は笑いながら言う。
本気か冗談かよくわからない那智を横目で睨みつつ……。
(こっちから、乗り気じゃない女性を口説いたことはないぞ。それに、『十六夜』の女の子にだって一度も声は……)
不満を口にしようとしたが、ふと心に何かが閃き、悠は彼女に手を差し出した。
「はじめまして、一条悠です。こう見えて、妻ひと筋の真面目な男なんですよ。逆に真面目に見える男のほうが……彼は意外とムッツリだから、気をつけたほうがいい」
横から「どこが妻ひと筋なんだ?」という那智のつぶやきはとりあえず無視する。
すると彼女はクスクス笑いながら、
「アカツキフーズの……正確に言えば営業補佐をしています、来生茉莉子です。気をつけるなんて、そんな……那智さんは、聖人と呼ばれるような方ですし、ファンの方もいらっしゃるくらいですから。私なんて、とても相手にもしていただけませんよ」
「一条、調子に乗って失礼なことを言うなよ。来生さんにはちゃんと恋人がいるんだから。それと念のため……奥さんが二メートルほど離れた場所から、君を見ていることを忘れるな」
釘を刺すような那智の声だった。
言われて、悠は桜の下に視線を向ける。
すると、こちらを見ていた様子の美月がスッと目を逸らせた。彼女は横を向きながらも、どうやら悠が茉莉子に向ける笑顔が気になるようだ。それに気づくと、彼自身どうにも落ちつかなくなる。
何かを察したのかどうかわからないが、茉莉子はバネ仕掛けのように勢いよく頭を下げ、従業員たちの輪に加わっていった。
「聖人ねぇ……僕には狙ってるように見えるんだけどなぁ」
茉莉子はストレートのボブ、あまり手の入っていない感じのするサラサラの黒髪をしていた。紺色のスーツを着て、それが制服を思わせるデザインのせいかもしれない。二十歳前後……女子高生と言っても通用する外見だ。
「未成年ならさすがにまずいか……。那智さん幾つでしたっけ?」
「お前のふたつ上だよ。ところで、美月さんの歳は?」
「……たしか、今年の十月で二十四歳だったと」
「じゃあ同じ歳だ。来生さんもついこの間二十三歳になったと言ってたから」
那智の言葉に驚いた。
今は美月と隣り合って座り、店で用意した料理を一緒に食べている。
体型は、バストを中心にふた回りほど小さい……というのは大袈裟か。だが、骨格がしっかりしていて背の高い美月に比べ、あまりにも頼りなく感じる。化粧は、むしろ茉莉子のほうがしっかりしているみたいだが、美月のほうが際立って見えた。
「一年以上付き合ってる恋人がいる。彼女は結婚まで考えているんだ。いい子だから、幸せになって欲しいんだけどね」
那智の言葉には含みがあった。
「それって……さっき口にした“中山”って奴?」
「耳がいいな。いや、勘がいい、と言うべきかな」
苦笑いを浮かべて那智は差し入れの缶ビールを口に運んだ。
「ということは……彼女のほうが考えてるだけで、結婚も婚約もしてないんだろう? だったら、ごちゃごちゃ考える前に、奪ってみればいい」
数日前に言われた同じセリフを那智に返した。
あの夜はしたたかに酔っていて、自分の話した内容はよく覚えていないが、言われた言葉はしっかりと覚えている。人間の記憶は意外と都合のいいようにできているらしい。
彼は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、
「私は何も奪わない。でもそれは、奪えないこととは違う。間違えるなよ、一条」
余裕綽々で笑われ、ヤケクソ気味に手にした発泡酒を飲み干す悠だった。




