(2)嫉妬
「今になって思えば、悠さんより、真くんのほうが優しかったのね」
ショートケーキの上のスポンジを突きながら、美月はそんなことを口にする。
弟の名前が出たことに、悠はドキッとした。
「今にって……君が知ってるのは七年も前のアイツだろう?」
そんな悠の言葉に美月は微笑んで首を振った。
「いいえ。真くんと最後に会ったのは、去年の夏よ」
「去年って……」
「ええ、ボストンまで会いに来てくれたの。大学に入ってから四年間、毎年、ね」
悠は何も知らなかったことに、ショックを受けていた。
初めて、真がボストンを訪れたのは四年前の夏。バイトと貯金をはたいて、夏休みのうち二週間をボストンに滞在した。美月は驚いたが、変わらない真の態度に、彼女も普通に接したという。
そのとき、美月は悠との結婚が形だけのことだと伝えた。
「だって、あなたがいない理由をちゃんと話さないと……。真くんは怒って、日本に帰ったらあなたのところに怒鳴り込んで行きそうだったから」
悠の両親には美月の事情や偽装結婚のいきさつを話してあった。
父は何も言わなかったが、母は『そんな形で結婚するのは間違っている』といって譲らなかった。美月は自分のことが反対されている、と思ったようだが、そうではない。母は、悠の決断が間違っていると反対したのだ。
だが、悠にとって母は“父の妻”であり、もう“悠の母親”ではなかった。
悠は言い訳もせず、許可も取らず……。ただ、結婚することを両親に報告しただけに過ぎない。
そんな両親は、すでに大学生になっていた桜と、美月に恋心を抱いていた真には、悠の結婚の事実だけを伝えたらしい。真は自分の気持ちに終止符を打つため、ボストンに住む“兄夫婦”のもとを訪ねた。
当時の悠は、東京とニューヨーク、ロンドンの間を行ったり来たりの仕事だった。
「真くんはすぐにわかってくれたわ。そして、悠さんになら……『兄貴になら安心して任せられる。優しくて頼りになる男だから』って。納得してくれたの」
「……」
悠は何も答えられない。
真は悠が家を出てからも数回会いにきた。忙しいと言い訳して、ろくに話もせずに追い返したが……。
「その分なら、去年、桜さんが婚約破棄したことも知らないんでしょうね」
「それは……」
そのことは知っていた。
東京の本社に戻ったときは必ず社長の叔父や、重役である叔母の夫に挨拶をする。彼らを通じて、妹の桜が去年の正月に婚約し、春には解消したと聞かされた。理由まではわからないが……。
「昨夜、ご両親のことは聞いたわ。でも、弟妹は別じゃないかしら?」
「……事情があるんだ」
「そう……あなたを軽蔑するような事情じゃないといいのだけれど」
美月はサラリと返して、コーヒーに口をつけた。
(軽蔑されるかもしれないな)
口にできない言葉を、悠は心の中でつぶやいた。
会計を済ませ、喫茶店を出る。さすがの美月も、自分が払うとは言い出さなかった。
喫茶店を出てすぐ、悠はサービスカウンターに向かう。彼の姿を見るなり、カウンターの女性がにっこり笑って、綺麗にラッピングされた商品を紙袋に入れて渡してくれた。
悠はそれを「ありがとう」と言って受け取る。
「何か特別なものを買われたのね。ピンクのリボンが見えたから、女性へのプレゼントかしら?」
振り返ったところに美月がいた。
口調は穏やかだが、目は笑っていない。そんな彼女の目の前に、悠は袋ごと差し出した。
「正解だよ。奥さんへのプレゼントだ」
「え?」
険を含んだまなざしが一気に和らぐ。
「まさか、プレゼントも受け取れないとは言わないだろう?」
「ええ、もちろんよ」
美月は少し恥ずかしそうに微笑み、「ありがとう、嬉しいわ」そう答えた。
「開けて見たいのだけど……」
「あ、いや……それは家のほうがいいかな。できれば今夜……寝室で着てみて欲しい」
悠がトーンを落として耳もとでささやくと、途端に美月の頬が真っ赤に染まる。
「悠さん! いったい、何を買ってくださったの?」
軽く笑いながらエスカレーターに向かおうとしたとき、美月の携帯が鳴った。
一瞬、美月の顔に警戒心が浮かんだが……。
「あら? 那智さんだわ」
「は?」
どうして那智が美月に電話をかけてくるのだろう? 悠が疑問を抱いたときには、すでに楽しそうに話し始めている。
「昨日は本当にお世話になりました。……ええ、まあ……」
何が“まあ”なのか不明だが、美月は少し照れた様子だ。
「え? 今から暁月城でお花見ですか? それは……」
美月が悠のほうを見たので、目を細め、首を左右に振った。
ところが、
「悠さんはお花見には行かれないそうです。ええ、私だけご一緒させていただいてもよろしいですか?」
予想外の美月の返事に、悠は慌てて携帯を取り上げた。
「那智さん、なんで勝手に人の嫁さんを誘ってるんですかっ!?」
『なんだ、不良亭主も一緒にいたのか。それは残念』
残念と言いつつ声が笑っている。どうやら最初に、悠は一緒にいるのか、と尋ねたようだ。
『離婚するなら後釜に名乗りを挙げようと思ったんだが……』
「……とにかく、美月の面倒は僕がみますから、せっかくですが」
『今日は夜の営業は休みにして、従業員全員で花見なんだ。酒もあるけど……料理も充分にある。暁月城の去年と同じ場所だ。外国暮らしが長いなら、たまにはこういったのもいいんじゃないか?』
そう言えば、最初に『十六夜』から歩いて帰ろうとしたのも、桜が見たかったのだろう。酔っ払いの一団に絡まれ機嫌は悪かったが……。
思えば、ボストンでも美月にせがまれチャールズ川沿いの桜を見に行った。
ただ眺めながら歩くだけだったが、本当に楽しそうだったのを思い出す。
「――わかりました。少し時間がかかるかも知れませんが」
『なんだ。ひょっとして“最中”だったのか? それは悪かった』
「違います! 裏のラッキータウンに買い物ですよ。荷物をマンションに置いてから行きますので……」
完全にからかわれているようだ。
携帯を切り、美月に返す。
「お花見には行くことにしたの?」
「君をひとりではやれないだろう?」
「あら、那智さんがいれば平気よ。お店の人たちも親切そうな人ばかりだったわ」
「……それが問題なんだ」
美月は可笑しそうにクスクス笑っている。
悠が慌てて携帯を取り上げ、那智と話しているのがよほど面白かったらしい。
(今夜は誰が亭主か、きっちりと教え込んでやる!)
そう思ったとき、悠の心に得体の知れない何かが広がった。
――離婚するなら……。
(ああ、そうだ。僕たちは離婚するんだ。これは、束の間の夫婦ごっこに過ぎないのに……何を考えてるんだ)
ふいに、笑顔で前を歩く美月が眩しくて……彼は目を伏せた。




