(2)離婚してください
七年ぶりの日本、そして、一条美月として入国したのは初めてのこと。
実家は東京にある。とはいえ、できる限り、目立ちたくはない。彼女は実家には戻らず、O市に住むと聞いた“夫”のもとに直行した。
美月が悠と結婚したのは七年前のこと。悠はビジネススクールに通い、美月はハイスクールに入学したばかりだった。当時悠は二十三歳、美月にいたってはなんと十六歳。彼女にはどうしても結婚しなくてはならない事情があり、悠はそれに応じてくれた貴重な人だ。
結婚を偽りにしないため、悠がビジネススクールを卒業し、日本に帰国するまでの一年間を一緒に暮らした。実際には、夫婦とは呼べない関係だったが、美月の心に思い描く悠は、紳士的で誠実な男性だった。
悠と直接顔を合わせるのは約六年ぶりだ。
一八〇センチを超える長身の悠は、アメリカ人に混じっても決して見劣りするものではなかった。フリークライミングが好きで、市内のインドアクライミングのクラブに入っていたくらいだ。五メートルくらいの岩壁や人工壁をロープも使わずにスイスイと登っていた。美月は自分で登ることはしなかったが、そんな悠の姿を見るのは好きだった。
今もやっているのかどうかわからない。だが、体格は以前と変わらず引き締まって見える。容貌も六年前とあまり変わらない。当時から三十歳近くに見られていたが、今もそんな感じだ。
ただ、女性の存在は覚悟していたものの、目の当たりにすると気分のいいものではなかった。
「では改めまして。お久しぶりです。お元気そうで……ああ、取締役へのご昇進、おめでとうございます」
先ほどの女性の前では親しげな口調で話したが、悠は限りなく他人に近い家族だ。美月は気持ちを切り替え、丁寧に挨拶した。
それは悠にも伝わったらしい。
彼も姿勢を正して、
「どうもご丁寧に。こちらこそ、ご無沙汰しております。ご連絡いただけましたら、私のほうが東京まで行ったのですが」
同じような挨拶を返してきた。
悠の応対は美月の心に薄い傷を作った。自ら引いた線、同じ線を引かれることに、痛みを感じるなんて思ってもいなかった。
「……というのはこれくらいにして。さてと、美月ちゃんにはまずいとこを見られたな」
悠は口元に手を添え、困ったフリをしながら、本当は今にも笑い出しそうだ。
美月はホッとして口を開く。
「チラッと聞こえたけれど、さっきのような女性がたくさんいらっしゃるの?」
「君が想像するほどたくさんじゃないさ」
「その返事だと……あの女性以外にもいる、ということよね」
何気ない言葉だったが、悠は本当に戸惑ったようだ。
そんな悠に美月は思い切って伝える。
「でしたら、簡単に承諾していただけそう……」
「それは……?」
「悠さん、私と離婚してください。そのために日本まできたの」
美月は本心を悟られないよう口元を引き締め、笑顔を浮かべた。
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『僕と結婚すればいい。とりあえずは君が二十歳になるまで。そのあとは……状況に応じて決めよう』
そんな言葉で求婚したことを悠は思い出していた。
「それは……彼女の存在を知ったから? とか」
恐る恐る尋ねるが、美月は笑って首を振った。
「まさか! 向こうにいてそんなことはわからないわ。もちろん、予想はしてたけれど」
ダブダブのジャケットは似合っていないが、背筋をピンと伸ばして話す姿は、悠の目に凛々しく映る。
数歩前に進み、美月の前に立つ。そして、自分でも無意識のうちに、その髪に触れていた。
「じゃあ答えは簡単だ。君をこんなに可愛らしい髪型にさせ、大人の女性に変えた男のため、ってことか」
長い髪の毛先を指先に巻き取り、口元に引き寄せようとしたとき……。
ガタン、と大きな音がした。
「あ……申し訳ございません。お、お客様と聞き、お茶を……」
悠より年上の秘書がドアに抱きつくように立っていた。その向こうには支社の幹部社員たちが顔を揃えている。誰もが興味津々といった顔つきだ。
「あの……奥様がおいでと聞きまして……ご挨拶に、と」
悠は髪から手を離した。
千絵に間違いない。帰り際、悠の妻が来ていると会社中に触れ回ったのだろう。
秘書室のほうに向き直ると、悠は美月の肩を抱いた。
「挨拶は次の機会にしてくれ。妻と食事に出てくる。午後の仕事はキャンセルだ。それくらい構わないだろう?」
その言葉に全員うなずき、人垣が左右に割れて道ができたのだった。
「ごめんなさいね。突然訪ねてしまったから……」
「いや、君ならいつでも歓迎だ」
明日中には、いや、もうすでに支社中で『本当に結婚してたんだ!』と社員全員が騒いでいることだろう。
「社内にいらっしゃる女性に、言い訳してきたほうがいいんじゃないかしら?」
支社ビルから出て、噂のことを考え振り返った悠に美月はそんな言葉をかける。
嫌味の口調ではない。むしろ、本気で心配しているみたいだ。複雑な心境で悠は答えた。
「社内にはいない。後々面倒になるから」
「でも午後の仕事は……」
「いいんだ。なんといっても“離婚の危機”だろう? ランチは? 僕はさっきの件でまだなんだが」
美月も話を済ませなければと思ったのか、「まだです」と答えた。
お気に入りの店には個人的な付き合いのある女性は連れて行かない。私生活に関わって欲しくない、というのが本音だ。
創作料理『十六夜』、微妙なバランスの月が描かれた看板が目に入る。その店に女性を伴うのは初めてだった。
支社ビルから南に五分ほど歩いた場所。オーナー兼シェフの那智貴臣は、市内のホテルにあるフランス料理店でシェフをしていた。十代から二十代の始めにかけてパリで料理を学んだと聞く。同年代ということもあって、悠は那智のことも、彼の作る料理も気に入っていた。
古い木製の扉を開いて中に入ると、いつものカランという音が鳴った。一階の窓と壁際に四角いテーブル席が並び、センターには円形のテーブル席が置かれている。全部で六十席程度、立食パーティなら八十人程度まで可能という広さだ。二階にはパーティションで仕切られた席がある。仕切りを取れば、十五人くらいまでの会食に使えた。
店内は淡いブラウンを基調とした色で纏められていた。テーブルもイスもホワイトオーク材を使った特注品。オフホワイトのテーブルクロスもジャガード織りのフランス製だと聞いた。
「いらっしゃいませ、一条さま……あの、ランチは終わってしまったんですが」
白いブラウスに黒のスカート、その上に黒いカフェエプロンをつけたウエイトレスが足早にやってくる。
ランチタイムには行列ができる店だ。今は客もまばらで、本日の予定数は終了と外にも出ていた。
すると彼女の後ろから、
「一条なら構わないさ。ランチメニューじゃなくてもいいんだろう?」
そんなふうに言いながら、厨房から那智が姿を見せた。
悠よりひと回り小柄で、すっきりした一重の目元が印象的な男だ。地元タウン誌で特集を組まれるほどの人気シェフだが、女性関係で浮いた噂は聞かない。
「ああ、食えるならなんでも構わない。ふたり分頼むよ」
「これはまた……。一条が女連れとは珍しいな」
「ナイスフォローだな。おかげで株も上がるよ」
悠は笑って答えた。
「妹なんてオチはなしで頼むぞ」
「当たり前だ。――妻の美月だよ」
顔見知りの従業員が一斉に振り向き、「本当に結婚してたんだ!」と言われる悠だった。