(1)恋人のように
「ねえ、悠さん。これって似合う?」
美月は楽しそうな笑顔を向ける。
今日一日、いや、この二時間ほどで、同じセリフを何回聞いただろう。その都度「似合うよ」と悠は答えてきた。とはいえ、いい加減付き合うのも苦しくなってきて……。
「ごめん、ちょっとトイレ」
そう言って逃げ出す悠だった。
都心ほど品揃えがある訳ではない。だが、繁華街のデパートに行けば、聞き慣れたブランドショップは何軒か入っている。悠も女性にねだられ、贈り物をすることぐらいはあった。
それと同じ感覚で美月を買い物に誘ったが……。
『上質なものと高価なものは違うのよ。もちろん、両方を合わせた高級なものもあるけど。普段着にそんなものは要らないわ』
あっさり断られた。
結果、マンションの裏手にある大型スーパーに行きたいと言われて付き合うことになり……。
だが、美月もごく一般的な女性同様、二階の婦人服コーナーから中々離れようとしない。
彼女はこれまで、洋服はなるべく目立たない地味で大人っぽいものを選んできたという。悠自身、ボストンで暮らしていた頃は、美月のファッションを気に留めたこともなかった。学生らしい服装だと思っていたし、彼女もそれを好んで着ていると考えたからだ。だがひょっとしたら、もっとおしゃれを楽しみたかったのかもしれない。
それに関しては、気配りが足りず可哀相なことをした、と悠は反省しきりだ。
そんな美月から、今日は何も考えずにショッピングを楽しみたいのだと言われ、それなりの覚悟を決めた悠だったが……。
フェミニンでお嬢様っぽい服から、露出度の高い女子大生のような服まで、試しに着てみては、悠の評価を確認しようとする。
この店で売っている普段着なら、高くても一着四桁を越えることはない。せめてもの罪滅ぼしに、と『試着した品は全部買ったらいいよ』そう声をかけたとき、美月の視線は急に鋭くなった。
慌てて訂正し、逃げ出す羽目になる悠だった。
ひとりになると昨夜のことが頭に浮かぶ。
美月だけは抱くつもりはなかった。これは言い訳だが、もし彼女が少しでも拒否したら、決して踏み越えることはなかっただろう。
理由は簡単。悠では美月を幸福にすることができないからだ。
彼女は血の繋がった両親に育てられなかったことに大きなコンプレックスを抱えている。だが、悠の目に、彼女は恵まれているように映った。七年前、美月の周囲にいる誰もが彼女を守ろうと必死だった。悠は美月の父親から、『娘を頼む』と何度も頭を下げられたことを覚えている。
あれがもし、悠の父であったら……。
感情的になったり、他人に頭を下げたりはしないだろう。
(いや……人目があればやるかもしれないな。何もかも、計算ずくの人だから……)
自分は父に似ている。それは幼い頃から言われ続けたことだ。
どんな女性に対しても真剣になれない。そんなところも、きっと似ているのだろう。
面倒な感情は抜きで、彼女を保護する夫の役なら悠にもできる。しかし、愛や家族を求め始めた美月に、自分のような冷酷な男は相応しくない。
だからせめて、彼女が“誰か”に束の間のパートナーを求めるというなら、自分にできるすべてのことをしてやろう、と思った。
それだけでなく……思いがけないほど、美月と過ごした夜は楽しかった。美月も同じだというのなら、彼女が日本にいる限り、応じたいと思う。
だが、子供だけは作る訳にいかない。自分には父親になる資格がないのだから……。
昔のことを思い出すと、いまだに、底なし沼に片足を突っ込んだままの自分の姿が見えてくる。
悠は大きく息を吐き、そのまま沈み込んでいきそうな気分を振り払った。自己嫌悪に陥るために、一週間の休暇を取った訳ではない。反省や後悔が必要になるとしたら、美月がボストンに帰ったあとだろう。
美月は次の満月までと言った。
(休暇の延長が必要かな……でも、あまり長く一緒にいるのは……)
すべて合わせてもたった二週間。これまでの経験と照らし合わせたら、同じ時間をかければ簡単に忘れられるだろう。
「あの……失礼ですが、お客様、何かお探しでしょうか?」
ふいに横から声をかけられ、悠はハッとした。
彼はいつの間にか女性用下着コーナーの真ん中に立っていたらしい。目の前に陳列された多数のブラジャーに気づき、悠は口元を押さえながら、苦笑いを浮かべた。
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「そんなに神経質にならなくてもいいと思うんだけどね……誰にも頼らず、すべて自分で決める、なんて」
同じ階、サービスカウンターの横にある喫茶店に入り、ふたりは窓際の席に向かい合って座った。そこからは、駐車場の向こうに悠の住むマンションが見える。
悠はコーヒーを、美月はケーキセットを注文。ケーキが店のオススメになるセットではなく、単品を自分で選んできたほうがいい、と薦める悠の意見はあっさり却下された。
ケーキセットのこともあるが、悠が口にしたのは別のことだ。
「どうして? だって、悠さんに買ってもらう理由がないわ」
「大した金額じゃないんだし……」
「なら、余計に構わないと思うんだけど」
数枚の春物を手に美月がレジに並んだとき、支払おうとした悠を頑なに拒否した。どうあっても彼女は自分から引こうとはしない。
「たしかに、君が買えないくらい高価なものをねだられても、僕には買えないけどね」
「なら、心配しないで。私は身体の関係を理由に、何かをねだったりはしないから」
「……それはありがたい……」
悠のほうが諦めて口を閉じた。
すると、美月も少しは気になったようだ。
「悠さん、怒ってるの?」
「なぜ?」
「“ありがたい”って言いながら、少しもありがたくなさそうだわ」
彼女のほうが怒ったような口調だった。どうやら、悠がさっさと話を切り上げたのが面白くなかったらしい。
「本当に思ってないからね」
「どうして? 私は金銭的にあなたの負担にはなりたくないだけよ。一セント、いえ、一円だっていやだわ」
「言っただろう? 恋人同士のように、と。それに、君は色々教えて欲しいと言いながら、少しも僕の気持ちは聞こうとしない」
「あなたの……気持ち?」
悠はひと呼吸置くと、
「僕は君に最高級のものを着せて着飾りたかった。たしかになんのためにと言われたら……ただ、見たかっただけだよ。でも、君がいやだと言うから諦めた。君の行きたい場所に連れて行くと約束したからね。それでここに来たけど……。僕が何かをしてあげたくても、君はすべて断る。すると男は思うんだ……自分は必要とされてない。恋人を楽しませることもできない無能な男だ、と」
美月は水の入ったグラスを手の中で回していたが……カタンと置き、
「……ごめんなさい……」
「謝らなくてもいい。ただし、僕の忠告を無視したのは君だ」
表情の曇る美月に、悠はウエイトレスが手にしたトレイを見ながら言った。
「お待たせいたしました」
そう言ってウエイトレスが美月の前に置いたのは……大きなイチゴの乗ったショートケーキ。
「ゆ、悠さん、知ってたのねっ」
「知る訳ないだろう。ただ、店先のショーケースに、ソイツがたくさん並んでいたのが目に入っただけさ」
美月にすれば、メニューの写真がガトーショコラだったため、思い込んでしまったのだろう。
悠は美月から視線を逸らし、無言でコーヒーを口に運ぶ。そんな悠を恨めしそうに睨みつつ、そっとイチゴを避けようとした。
「好き嫌いはダメだよ、美月ちゃん」
悠の言葉に美月の手が止まる。
そのとき、悠はサッと手を伸ばし、イチゴを取り自分の口に放り込んだ。
「お、お礼なんて、言いませんからっ」
拗ねたふりをする美月の横顔に、思わず笑顔になる悠だった。