(9)壊れた絆
「ごめんなさい、バスルームを占領してしまって」
美月は髪を拭いながら寝室に足を踏み入れる。
ベッドの上に悠は転がっていた。目は閉じたままで返事がない。
(ひょっとして眠ってしまったの?)
時計を見ると、すでに深夜の一時を回っている。悠の身体に布団をかけようと近づいたとき、ふいに手首を掴まれた。
「きゃっ!」
「遅すぎる。しかも、夜中にシーツカバーまで外していくんだから……」
悠は目を開け、ベッドの上に美月を組み伏せた。
「それは……だって仕方がないでしょう? 汚れたものをそのままにはしておけないわ」
シーツの汚れに気づいた瞬間、美月はすべてをかき集めて、洗濯機に押し込んでいた。
「でも、夜中に洗ったのはまずかったかしら?」
ボストンではシェルターに保護された女性、少女たちと同じ建物に寝泊まりしている。そのほうが美月にとっても便利で安全だった。
だが、昼夜問わず働くことも多く、その分、日本の集合住宅に住むときの気遣いなどうっかりしていた。
「いや、遮音設備は相当だと聞いているから、それに、うちの洗濯機は静かだろう?」
「ええ、そうね。本当に回っているのかわからないくらい……よ」
言葉が途切れたのは悠が唇で邪魔したからだ。
悠の指先がバスローブの中に滑り込む。決して脱がそうとはせず、性急ではなく、時間をかけて熱いシャワーに火照った肌をなぞった。
美月にすれば少しこそばゆい。
身体をくねらせ、くすくすと笑い始める。
「やだ……悠さん……今夜はもうダメよ。明日も仕事なんでしょう? 私は書斎のソファベッドで寝るから」
「何を言ってるんだ。ここで一緒に眠ればいい。もちろん、初めての君にこれ以上ムチャはしないさ。安心してお休み」
「ルーフバルコニーでムチャしたくせに?」
美月が悠をからかうように言うと、
「ああ、そのとおり。どうしてもと言うなら……ご期待に応じてもいいよ“美月ちゃん”」
「あ……や、だ」
名前を呼ぶと同時に、悠の手の平がバストを包み込む。その手は優しさから激しさに変わる。
「ゆ、悠さんっ」
美月が叫んだ途端、悠は手を引いた。
本当に嫌な訳ではないのだ。ただ、いくら背伸びをしても、初めての経験に身体のほうが悲鳴を上げている。彼のもたらす快感には身を委ねたくなるが、それと不慣れなことは別だ。
「ごめんなさい……怒らせてしまった?」
「いや、悪いのは僕のほうだ。ふざけすぎたな。今夜はこのまま眠ろう。続きは起きてからだ」
「起きたら仕事でしょう? 朝は何時に出るの? 朝食はパンでいい?」
一緒に住んでいたころ、悠は毎朝きちんと食事を取っていた。数日間でも夫婦でいるなら、朝ごはんの支度くらいはちゃんとしてあげたい。
ところが、悠の返事は美月の予想に大きく反していて……。
「仕事は休む。明日から一週間。大きな予定はないから、問題ないと思う」
その言葉に美月はなんと返したらいいのかわからない。
自分のせいで? と尋ねるべきか。それとも、自分のために? と喜べばいいのか。
「ちょうど、秘書にも説教されたばかりだし……。綺麗な奥さんが来てくれたんだから、馬鹿な振る舞いはするなってね」
「秘書の方も、悠さんの女癖の悪さをご存じなのね」
悠のオフィスで会った女性秘書の顔を思い出す。美月の継母と同じ年代に思えた。
もし、桐生の問題さえなくなれば、継母や小太郎とも普通に会えるようになるのかもしれない。ただ、七年も離れた家族と元どおりになれるだろうか? ボストン時代、本当に親しく過ごした悠とですら、これほどまでにギクシャクしているのに。
美月の顔は不安に曇る。
「休みを取るのが不満なのか? 僕もよく知ってるわけじゃないが、市内を案内したいと思ってる。他にも君の行きたい場所に連れて行くし……。夫婦というか、恋人同士のように遊んでみないか? その……離婚や子供のことはひとまず保留して。ダメかな?」
こちらを見ながら悠は心配そうに言う。
美月は慌てて、
「ダメじゃないわ! 違うのよ。家族のことを考えていたの。あの秘書の女性って、うちの継母と同じぐらいに思えて……」
「ああ、川口さんと言うんだ。彼女は四十代前半だったと思うよ」
「継母は今年四十二になるの。七歳のときに別れた弟は十四……今年十五歳よ。きっと、全然別人になってるでしょうね。家族の中に私の居場所はなくなってるかもしれない」
悠は美月から身体を離し、ベッドの上に座り込んだ。
しばらく沈黙を守っていたが、やがて……。
「家族……親に、過大な期待をし過ぎないほうがいい」
それは喉の奥から搾り出すような声だった。彼自身が、まるで親に期待をして裏切られたような口調だ。
「そうね……期待というか、信頼というか。でも、そうじゃない家族もいるでしょう? 無条件で信頼し合える絆を作るのには、血の繋がりも重要なのかしら?」
悠に尋ねるのは愚問だろう。
美月の目に、悠の家族こそ信頼し合って固い絆で結ばれているように映った。少なくとも、小学生の彼女が遊びに訪れていたころは。
「血の繋がりなんて意味がないと思うけどね。女が子供を産めば、男は責任を取らざるを得なくなる。親が子供に見せる顔と、それ以外の顔は別だってことだ」
その言葉に美月は身体を起こした。
バスローブの裾をはだけたまま、悠の隣に座り込む。
「それはどういう意味かしら? 私があなたを騙して責任を取らせようと思っている。そう言いたいの!?」
美月の剣幕に今度は悠のほうがビックリしたようだ。
「違う違う、うちの両親のことだ」
それを聞いたとき、美月は思い出した。
ボストンで結婚式を挙げても、日本国籍のあるふたりは正式に結婚したことにはならない。日本の役所に婚姻届を提出したのだが……。そのとき、悠の両親は難色を示したという。
悠の母にすれば息子の身を案じてのこと。誘拐や監禁、発砲事件まで起こっていたのだから、当然かもしれない。
だが、“両親のこと”というのがわからない。
「ご両親が、私のことを疑っているということ?」
「いや、君のことじゃなくて……うちの親だよ。父は……母と結婚するつもりはなかったんだ。でも、母が勝手に僕を産んでいて……立場的に仕方なかったらしい」
「まさか!」
美月はひと言口にすると何も言えなくなった。
小学一年のとき、同級生の真が『うちの親は結婚十年くらい』と言っているのを聞き、不思議に思ったことはある。なぜなら、そのとき悠はすでに中学生だった。兄弟はみんなそっくりだったので、真の勘違いだろう、と深く追求しなかったが……。
「信じられないわ。あんなに仲のよさそうなご両親じゃない」
すると悠はおよそ彼らしくない皮肉めいた表情で笑ったのだ。
「ああ、セックスの相性がよくて妥協したみたいだな。まあ、本人たちが幸せだというんだから、別にいいさ。子供も次々できたしね。下の三人は望まれた命だ。でも僕は違う。――父は僕に生まれてきて欲しくなかったんだ。まあ、結果的に悪くなかったから、僕のことも大事にしてくれたけどね」
部屋の気温がグッと下がった感じがした。
美月はゴクッと唾を飲み込み、悠に尋ねる。
「そんなこと……誰から聞いたの? お父様にちゃんと確認した?」
「父は認めた。それを教えてくれたのは…………僕の姉だよ」
とんでもない言葉を口にした直後、悠は小さく笑うと「シャワーを浴びてくる」そう言って寝室を出て行ってしまう。
初恋は終わったのかもしれない。
でも、悠の心には少しだけ近づいたような気もして……。
悠の過去に何があったのか、気になり始める美月だった。