(8)月が満ちるまで
*性的表現があります。苦手な方は飛ばして下さい。R15でお願いします。
「だい……じょうぶよ」
「え?」
美月は右手で髪をかき上げると、上を向きニッコリと笑った。
「妊娠に備えて周期を調えるために、ピルを飲んでるの。だから……あなたが心配するようなことにはならないわ」
その言葉に悠はあからさまな安堵の表情を浮かべた。
美月は胸の痛みを顔に出したくなくて、必死になって笑顔を作る。
「いやだ。そんなふうに言われたら、私のほうが心配になるじゃない。たくさんの女性と遊んでるあなたですもの。安全なセックスを心がけているんだと思ってたのに」
悠の手からevianをスルリと抜き取り、口に含む。まだ、充分に冷たかった。
「もちろん、心がけてるよ。僕は安全だから……君の妊娠の妨げになったりはしない」
美月が性病の心配をしたことが伝わったのだろう。悠も同じ言葉で返してきた。
ペットボトルを悠に返し、美月はバルコニーの手すりを掴んでもたれかかった。正面に暁月城ホテルが、その向こうに国宝暁月城が見える。ライトアップされて闇の中に浮かび上がっていた。
暁の名前に似合わず、闇に溶け込むような城壁の色をしている。ひょっとしたら、暁を待つ、夜を表した城の名前なのかもしれない。
美月は新月の夜空を見上げ、切ない思いを打ち消した。
「悠さん……喉が渇いたわ」
「じゃあもう一本取ってこよう」
「待って!」
踵を返そうとした悠の腕を掴む。
「それでいいわ。……あなたが飲ませて」
「それは、どうやって?」
「決まってるじゃない。口移しで……」
美月は指先で悠の唇をなぞった。
かすかに悠は目を細めて、困ったように深呼吸する。
「こんな誘惑の仕方を、どこで覚えたのかな?」
「映画よ……確か、イチゴをヒロインに食べさせたあと、シャンパンを口移しで飲ませていたわ」
「イチゴもシャンパンもないけど……」
悠の返事に美月はクスッと笑った。
「構わないわ。イチゴもアルコールも嫌いよ」
悠は水を口に含むと、美月に口づけた。
唇の隙間から伝い落ちるように入ってくる水は、さっきと比べて生温い。お世辞にも美味しいとは言えないが、どこか背徳的で……彼女の全身に染み込んでいった。
悠は唇を離し、喘ぐように言う。
「これくらいにしておこう。美月ちゃん、危険な遊びはもう充分だろう?」
「やっとわかったわ。悠さんが私を“美月ちゃん”と呼ぶときは……本当は抱きたいときなんじゃない?」
そう呼ぶことで、美月との間に壁を築こうとしている。
だが、もう手遅れだ。一旦、壁を乗り越えて関係してしまった以上、再び築き上げるなんて馬鹿げている。美月には無駄なあがきにしか思えなかった。
「そう言って僕をやり込めたつもりか? 本当にここで襲いかかるかもしれないぞ」
少し乱暴で、男性的な声色に変わる。
愛を望むなら手放したほうがいい。
そのことは、恋の手管に長けていない美月にもわかるようなこと。このまま進めば、悠との関係はセックスだけになる。特別な“妻”であり、守るべき“美月ちゃん”の立場を捨て、他の女と同列になるのだ。それはプライドの高い美月にすれば屈辱とも言える。
だが美月は、今、手の中にある温もりを放したくなかった。
彼女の中で、理性より本能が勝った瞬間――。
「ここで? 隣の棟の住民に見られるかもしれないのに? ムリよ。悠さんにそんなことはできないわ。あなたは無茶をしているように見えて、ルールに縛られて生きている人ですもの」
それは挑発だった。
目に見えるほどわかりやすい挑発。だが、悠はそれに乗ってきた。
「“美月ちゃん”はなんでもお見通しだ。――ところで、男を挑発するときは、覚悟はできてるんだろうね?」
悠の手が伸び、美月の身体を覆った黒のベッドカバーを奪い取る。
「きゃっ!」
激しいキスをされるかもしれない。ひょっとしたら、この場に押し倒される可能性もある。そこまでは考えていたが……。
まさか、バルコニーで裸にされるとは思わなかった。
ここより高い建物はたくさんある。夜とはいえ、見られない保証はないのだ。
「綺麗だよ。白い肌にキスマークがよく映える」
「……目立つの間違いじゃないかしら? 形式上とはいえ、妻の裸を人に見せても平気なの?」
あえて隠そうとはせす、美月は左右に手を広げ、手すりに身体を預けた。背中にざらざらとした感触を覚える。鉄はひんやりとして冷たかった。
「それもそうだ。じゃ、公平にいこうか?」
そう言うと、悠も服を脱いだ。
「君がそのつもりなら、遠慮はいらないな。一度試してみたかったんだ……バルコニーでセックスってヤツを」
悠はキスと同時に、手すりにもたれたままの美月の太ももを持ち上げた。
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『私、セックスが気に入ったわ。でも、できる限り、不道徳な婚外交渉は持ちたくないの』
立ったまま抱かれて、冷えた身体を温めようと寝室に入ったとき美月は口にした。
『桐生の件がどうなったか、調査が終わるのにしばらく時間がかかるんでしょう? それまで、ここで夫婦として暮らしたいわ』
調査が終わらなければいい。
あるいは、それまでに悠の気持ちを変えることができれば……。
『きっと、次の満月までもかからないわ。それまで、あなたに色々と教えて欲しいの』
悠はすでに抱いてしまったことで諦めたのだろう。仕方なさそうに承諾してくれた。
昨日とは違う思いを抱え、美月は頭からシャワーを浴びていた。
悠が吐き捨てるように口にした『もし君を妊娠させたら――最悪だな』……最悪という言葉が何度も頭の中で回る。彼はそれほどまでに父親になりたくないのだ。
美月がピルを飲んでいるのは事実で、三ヶ月滞在しても充分な量を持ってきていた。
悠の子供は欲しい。だが、父親に“最悪”と呼ばれたことを知れば、どう思うだろう。美月の本当の父親が、娘の存在をどう思っていたのか……そもそも知っていたのかもわからない。名前も生死も尋ねたことはなかった。美月にとって父親は、藤原太一郎ただひとりだ。
(私は不幸ではなかったけど……)
十年以上、決して満たされない何かが彼女の中にある。
それを今夜、悠が埋めてくれた気がした。美月の存在に悠が価値を与えてくれる、と。そのすべてが幻と消えていく。
シャワーを思い切り回し、水圧を上げて美月は泣いた。声を押し殺し、外に聞こえないように……。
諦めてボストンに帰らない自分の愚かさに。自分を決して愛そうとはしない、悠の頑なな態度を恨みながら。泣いて……泣いて……やがて冷静になった心が美月に告げる。
(泣いてても、誰も助けてはくれないのよ。これまでもそうだったじゃないの。思い切り楽しんで、離婚が成立したらボストンに戻ればいいだけ……)
月が満ちるまでの恋――それは、美月自身が課したタイムリミットだった。