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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第2章 初恋
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(5)教えてください

 美月の背後からクスクス笑う声が聞こえる。

「やるね。これで一条は血相変えて飛んで帰ってくるよ」

 那智は長めの前髪をかき上げながら言った。


 そこは、マンションのエントランス横にあるコミュニティルームだ。十個ほどの円形テーブルがランダムに配置され、各テーブルにイスが四脚セットされている。ドリンクやアイスクリームの自動販売機が部屋の隅に置かれていて、住人同士で寛ぐことも、人目のあるところで接客することも可能な場所だった。

 そのひとつに那智と美月は向かい合って座っている。


 美月が外に出ようとしたとき、フロントに立つ管理人に呼び止められた。『一条様の奥様でございますね。お出かけでしたら、ハイヤーをお呼びいたしますが』その言葉に美月はピンときた。おそらく、そのハイヤーで目的地に到着したときには、悠が待ち構えているような気がする。

 美月の身を案じてのことだとはわかっている。だが……。


「さあ……どうでしょうか? 喜んで他の女性を連れて戻られるかもしれませんね」

 自動販売機で買ったコーヒーを美月は口に含む。

 紙コップのタイプなので砂糖は抜きだ。薄く、ほろ苦いコーヒーに美月は少しだけ顔をしかめた。

「でも、電話をもらったときは驚いたな」

「すみません。私、知り合いなんて誰もいなくて……。那智さんは悠さんと仲がよさそうだったから。それに……」

「それに?」

「お食事もコーヒーもとても美味しかったから」


 なんでもないことのように思えるが、とても大事なことだ。

 那智は人気の店ということに驕ることなく、手を抜いている様子はなかった。従業員の数は少なくても、きちんと教育されていたように思う。愛情を込められたものというのは食事に限らず、必ず相手に伝わる。そしてそれは、どんなに素晴らしい肩書きより信頼に値するものだと美月は思っている。


「料理を食べて私を信頼してくれたわけだ。どうもありがとう」


 那智は悠より少し年上というが、そうは見えない。細身なうえ、ハイヒールを履いた美月とほぼ同じ身長なので、威圧感がないせいかもしれない。昨日はコック帽に隠れて見えなかったが、比較的長めで柔らかそうなブラウンの髪も、那智を穏やかな気質に見せていた。


「でも、那智さんに聞いて少し安心しました。悠さんは女性のところに行くっておっしゃってましたから」

 ――経験のない美月では楽しめない、だから、経験豊かな女性を抱きに行く。

 あのときの悠の言葉は美月の耳にそんなふうに聞こえていた。

「感謝すべきなのはわかっているんです。たまたまボストンで私に出会って……仕方なく結婚してくれたんですから。でも……私はいつまでも保護者が必要な子供じゃないんです」


「私の目には、君は魅力的な女性にしか見えないんだけどね。どうやら一条は、妙な色眼鏡をつけてしまってるらしい。でもあの様子なら、じきに目が覚めるよ」


 昨日、レジでもらったレシートに書かれた番号に電話して……『大変、不躾なお願いですが、決まった相手の方がいらっしゃらないのなら、私と“そういった関係”になっていただけませんか?』と頼んだ。

 那智は驚きながらも事情を聞きにやって来てくれたのだった。


 そして彼から、悠が昨夜泊まったのは那智の家だったと聞き、美月は夫婦の関係を彼に相談する。

 桐生や藤原の名前は出さず、美月が遺産問題に巻き込まれて無理やり結婚させられそうになり、それを避けるために悠が入籍してくれた、と説明した。

 美月自身、結婚は一生しないつもりだった。

 でも、悠の存在は一番孤独だったときの美月を癒やしてくれた。

 離れていた間、いつ悠が会いに来てくれるのか、それだけが楽しみで……。母のことを思い、子供を産みたいと願ったとき、真っ先に浮かんだのは悠の顔だった。

 そして実際に悠と再会し、彼にキスされたとき、美月は今まで以上の関係を欲しがっている自分に気づいてしまう。

 洗面所で裸を見られたとき、美月の本心は抱きしめてくれることを願っていた。

 願いはその直後、別の形で叶えられたが……。


「本当に……悠さんは私のことを欲しがってくれるんでしょうか? 確かに、つまらないと言われたら……男性を喜ばせることなんて、できないですし」

「だからと言って、一度や二度会っただけの男に抱かれるなんて間違ってるよ。ああいうことは、経験の有無は関係なしに、好きな相手とするべきだ」

「でも、悠さんはそう思っていないみたいです。那智さんに、しっかり教えてもらえばいい、って言うかもしれないわ」

 本当に言われたらどうしようと思いつつ、美月は口にする。

「本気で思っているなら、携帯の向こうで絶叫なんかしてないよ」

 那智の言葉に曖昧に微笑む美月だった。



~*~*~*~*~



 悠は秘書に無理やり早退を告げ、オフィスを出た。

 だが自宅には戻らず、直行したのは那智の店である。美月は『那智さんの家に泊めていただきます』と言っていた。それならマンションに向かって入れ違いになるより、待ち構えていようと考えた。


(まったく! 何を考えているんだ! 子供が欲しいだけじゃなかったのか!? こんな……馬鹿な男漁りのような真似をするなんて。大切に守ってきたんだと思っていたから……。那智さんも那智さんだ。真面目な顔をして、仮にも友人の妻となんてことを――)


 自分の行為は棚上げにして、心の中でふたりを責める。気分は完全に、妻に浮気されそうな夫、だった。

 ほんの三十分ほどでビルの駐車場に見慣れた軽自動車が入ってきた。

 エンジンが止まるなり駆け寄り、助手席のドアを力任せに開ける。


「美月! 降りるんだ。君は自分、の……」

 

 そこには誰もいない。

 すると運転席から、

「一条、いい加減降参しろ。自分の行動がおかしいと、自覚してくれ」

 呆れたような那智の声が聞こえた。

「どういうことなんだ? 美月は」

「もし本当に一緒だったら、なんて言って連れて帰るつもりだったんだ?」

「それは……それは……」


 那智は何も知らないから、気楽に関わろうとする。

 もし美月の事情を知れば……そう思った悠の耳に信じられない言葉が飛び込んできた。


「遺産問題が絡んでるんだって? でも、彼女はすでに成人だ。彼女自身が弁護士だって言うし……」

「そんな簡単な問題じゃない!」


 美月が那智に夫婦の関係だけじゃなく、結婚の理由まで話していたことに悠はショックを受ける。


「その件は今、東京のほうに問い合わせて調査してもらっている。結果が出るまでにしばらく時間がかかるし、それに、妙な電話だって……。とにかく、美月は普通の女性とは違うんだ。那智さんが関わっても、面倒なことになるだけで……」


 悠の言葉を那智は黙って聞いていた。


 しだいに悠の声が小さくなり、やがて何も言えなくなると、

「美月さんから電話がかかってきたとき、“桜フェスティバルはまだやってますか?”と聞かれた。あそこで若い男に声をかけられた。彼らなら、きっと自分の経験など気にもしないだろうから。私に断られたらそこに行ってみる、ってね。――落ちついた声を作ってはいたが、今にも泣きそうに思えた。だから、マンションまで話を聞きに行くことにした」

 那智の説明に悠は言葉もない。

 美月を思いやったつもりだった。それがまさか、そんな突飛なことを考えるまで、彼女を追い詰めていたとは。

 

(美月の望みは僕と離婚して、子供を産むことだけじゃないのか?)


 美月の本当の望みはなんなのか、悠はますます混乱して……。 

 

 

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