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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第2章 初恋
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(4)彼女の選択

「夫婦ゲンカですか?」

 おはよう――とオフィスのドアを開けて挨拶の前に返ってきた言葉がそれだった。秘書室のメンバーは、悠と突然現れた妻の動向が気になって仕方がないらしい。

「君たちには関係ないよ。それより、挨拶ぐらいはしたまえ」

「し、失礼いたしました。おはようございます。本日は昨日早退されたときに行われた会議の報告書に目を通していただきますのと、決済の書類が……」

 

(鼻の下でも伸ばしてくると思ったんだろうな。ゴシップ好きの連中め)


 本部長付きの秘書はふたりいる。悠が本社から連れてきた人間はひとりもおらず、ふたりとも前任者から引継いで残ってもらった。

 女性の秘書が川口絢子といい、悠よりひと回り年上で今年大学生になる息子がいるという。接客やスケジュール管理を任せていた。お節介がたまにキズだが、気のいい女性だ。

 もうひとりは男性で戸田順平といった。悠より一歳上で、主に本社とのやり取りを任せている。機転が利いて役に立つので、取締役としての業務に同行することもあった。待機中は秘書室にいることが少なく、今もここにはいない。仕事さえこなしてくれれば、悠は別段気にする性格ではない。

 本部長専属の秘書室にはほかに事務の女性がふたりいて、秘書たちのサポートを務めている。

 悠は彼らに疎まれているとは思っていないが、それほど友好的な関係を築けている自信はない。元々、人と接するのは苦手だ。お世辞を口にしたり、下手に出るつもりも全くない。そのため、『何をやって本社から流されてきたんだ?』と噂されていることは自分でもよくわかっていた。


「あの……本部長、余計なことかもしれませんが。副本部長や支社長もおられるのですから、奥様とのお時間を大切になさったほうがよろしいのでは?」

 突然の秘書の助言に、悠は呆気に取られる。

 悠は家族サービスの必要はないから、とこれまで長期休暇は取ったことがない。逆に、他の幹部社員たちに率先して休ませ、代わりに働いてきたような人間だ。

「皆さんおっしゃってました。奥様に会えてよっぽど嬉しかったんだろうって。だったら、一週間くらい休みを取られても構わないのに、と」

 

(嬉しい? 美月に会えて? この私が?)


 悠は宇宙人の言葉を聞いたような心境だ。内容は理解できるのに、そこに自分の心が繋がらない。秘書の言葉に相応しい返答すら見つからなかった。



 今朝、那智の家で目を覚ました。

 いつ彼の家を訪ねたのか記憶になかったが、自分の中で思った以上に那智を信頼していることに気づき、驚いたというのが本音だ。

 何か余計なことは言わなかっただろうか、と不安になり尋ねたが……。

『さあ、どうだと思う?』

 例によって例のごとく笑いながら返され、どうでもいい、と思いかけた。

 だがそのとき、

『ああ、その傷の理由だけは奥さんに言わないほうがいい。――浮気しようとホテルに女を呼び出したんだけど、肝心なモノが勃たなくて引っ叩かれたんだ、と言ったら――傷が増えること間違いなしだ』

 那智はさも可笑しそうに話していた。


 

(なんで、あんな恥をさらすようなことを言ったんだ。あの分なら……おそらく、美月とのことも口走ったに決まってる……)


 昨日、家を飛び出してから、美月には連絡を取っていない。

 だがエントランスのフロントに電話をかけ、妻が外出したら携帯に連絡をくれるように頼んだ。


(我ながら、何をやってるんだか……)


「本部長?」

「気を遣わせて済まないね。コレは……はしゃぎ過ぎた結果だから、そんなに心配してくれなくてもいいよ」

 悠は思わせぶりに答える。

 すると、秘書の川口は途端にニコニコし始めた。

「まあ、そういうことですのね。じゃあ、これからずっと奥様はこちらに?」

「……え?」

「この際ですから言わせていただきますけど。何かご事情があってこんな地方都市に来られたんでしょうが、だからと言ってヤケクソのように女性遊びをされるのは感心しませんね」

 きっと女で失敗して飛ばされてきたのだろう。そんな夫に呆れ果て、妻はついて来なかった。あるいは、政略結婚で押し付けられた妻から逃げてきたか……。本部長の“謎に包まれた結婚指輪”の真相をめぐってそこまで噂されていたとは、悠も驚きだ。

「とにかく、あんなにお綺麗な奥様がいらして、ここまで来てくださったんですから……。もう、来る者は拒まずみたいな女性に手を出すのはやめてくださいね。別れ話のたびに、『本部長は会議中です』と言わされるのはごめんです」

 

 美月は悠と暮らすために来たわけではない。ふたりが離婚間近だとは、とても口にできない悠だった。



~*~*~*~*~



 午後二時、今日は珍しく社内の食堂で昼食を取った。

 遅い時間だったせいかとくに社員たちと顔を合わせることもなく……。

 

 悠の仕事は、やろうとすれば際限なくあり、手を抜こうとすればいくらでも抜ける。

 数年前まで、このO市に西日本統括本部は置かれていなかった。というより、一条グループ自体が東日本にしか統括本部を置いていなかったためである。西日本は各支社がその代わりを務め、担当者が直接本社とやり取りをしていた。

 西日本統括本部長の役は悠でふたり目だ。

 O市は地元の活性化を目論見、一条グループの資本投下を期待している。前任者はそんな地元企業に対して思わせぶりな態度に終始し、あらゆる決断を先送りにしてきた。悠と入れ替わるように本社に戻ったが、おそらく地方に流された、という意識が強かったのだろう。

 その後任である悠は、比較的早くに地元の優良企業と手を結んだ。現在は主に物流の拠点としてO市を利用し、不動産部門にも力を入れている。


(まあ……左遷じゃないが、出世とは言い難いよな)

 

 悠の場合は取締役に昇進したため、出世と思われいてる節はある。だが、それならなぜ、経験も少ないうちに本社から離れているのか、と誰もが疑問に思うだろう。

 これで美月がボストンに戻り、悠が結婚指輪を外せば……。


(またどんな噂が飛び交うやら……)


 悠が深くため息をついたとき、携帯が鳴った。



『私だ。二日酔いにはなってないかな?』

 那智だった。

 どうにも体裁が悪くて連絡を入れていなかったことを思い出す。

「なんとか……。昨夜は申し訳なかった。とにかく、礼も言いたいし、仕事が終わったらそっちに行くよ。その……色々、聞いて欲しいこともある。それで、悪いんだが、今夜も泊めてもらえるかな?」


 情けないという自覚は充分にある。

 それでも、今は美月に会いたくなかった。


『ああ、えっと、今夜はちょっと……』

「そうか……わかった。無理は言わない。どこかホテルにでも泊まるさ」

『いや、そうじゃなくて。一条、私が今、どこにいるかわかるか?』


 そんなこと、わかるはずがないだろう。そもそも、那智の行動に興味などない。


「店は……ああ、休憩時間か。いや、とくにどこにいても気にはならないが」

『じゃあ、誰といると思う?』

「だから、そんなこと……え?」


 少し時間が空き、電話口から別の声が流れた。


『お仕事お疲れさま。外に出たらあなたに報告されそうだったから、那智さんに来ていただいたの』

 それは美月だった。

 なぜ、美月が那智を呼び出したのか、なぜ彼の携帯から話しているのか……疑問ばかりが頭に浮かび、何も答えられない。


『それから……悠さんの代わりに、那智さんに色々教わることにしました。今夜は那智さんの家に泊めていただきます。あなたの家を使わせていただくのは申し訳ないもの』

「なっ! ちょっと待て!」

『那智さんは私の経験なんて気にされないんですって。それじゃ……安心して戻ってきてください。女性連れでも全然かまいませんよ』

「美月! どういう意味だ! 那智さんから何を聞いた? 彼に替わってくれ……美月? 美月ーっ!?」


 悠が叫んだとき、すでに携帯電話は切れたあとだった。 



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