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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第2章 初恋
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(3)いざよう月

 古いビルを改装した一階と二階がレストラン、三階と四階がオーナー那智の私室になっていた。

 繁華街からは少し離れており、個人ビルや個人事務所が集まった、小規模だがオフィス街と呼ぶのが相応しい一角。高いビルは悠の勤める一条物産支社ビルくらいか。あとはかろうじてエレベーターが一基付いているようなビルばかりが並んでいる。たまに、スナックの看板や居酒屋の赤提灯も見かけるが、『十六夜いざよい』の斜め前に交番があるため、深夜になると付近一帯は静寂そのものだ。

 三階には外階段からしか上がることができない。そこをわざわざ上がって来て、深夜の一時に玄関ドアをガンガン叩く人間はまずいない。

 

「一条……何時だと思ってるんだ?」

 閉店が十時。それから、後片付けや翌日の仕込みなどの作業がある。この時間に那智がベッドに入っていることはまずないが、かといって、来客を喜んで迎える時間帯でもないだろう。

「こんな時間にやって来て……彼女と一緒のところを邪魔したら悪い、くらい気を遣ってくれ」

 那智がそんなふうに言って睨むと、

「そういうセリフは、彼女のひとりくらい作ってから、聞かせてもらいたいもんだね」

 悠はご機嫌な様子で那智の肩を叩いた。

 一緒に飲んでいて酔いが回り、そのまま朝まで眠ってしまうことはある。だが、よそで飲んだあと、押しかけてくるなど初めてのことだ。最初はしたたかに酔っているだけか、と思ったが……どうやら、そうでもないらしい。

「酔ってる……だけじゃなさそうだな。結局、彼女とはろくに話せなかったらしいな」

 勝手に部屋に上がり、リビングのソファに座り込む悠に、那智はペットボトルの水を差し出した。

 小さく礼を言って受け取る悠の頬は、微かに血が滲んでいる。

「どうしたんだ? まさか、ケンカなんてしてないだろうな?」

 仮にも一部上場企業の取締役、統括本部長の役職にある男だ。酔ってケンカ沙汰となれば、新聞の三面記事にもなりかねない。

 はっきり言えば、那智には関係のないこと、だと思う。しかし、何もかもが投げやりに見える悠は、彼にとってどこか放っておけない弟のような存在だった。


 

 那智が『十六夜』をオープンしたのは、ちょうど悠がO市にやってきたのと同じ時期になる。

 彼はこの地方都市では結構名の売れたフランス料理のシェフで、美月の泊まった暁月城ホテルのフランス料理店に勤めていた。

 ホテルの所有者である幸福屋グループの重役令嬢と婚約し、都心のホテルに店を持つ計画が……相手方から婚約を解消され、すべてがご破算となる。ただ、もともとは好きな料理を提供したいだけだったので、都心の店に未練はない。

 だが、破談は彼の人生に思わぬところで影を落とし、彼は暁月城ホテルに勤め続けることができなくなった。

 直後、那智は預金をはたいて古いビルを借り、創作料理のレストランをゼロから作り上げた。悠と出会ったころは、那智にとって精神的にどん底だったと言ってもいい。

 最初に悠が店を訪れたとき、彼はお世辞にも那智に好意的とは思えなかった。


『タウン誌で拝見しましたよ。シェフは腕一本で独立されたばかりとか。でも、誰からも認められて、期待のレストランと書かれていました。羨ましい限りです』 


 たしかに、オープン前から期待され、タウン誌で特集まで組んでもらった。

 それにはシェフとしての腕前だけでなく……那智の容姿が女性受けのする、柔和で整った顔立ちということもあるだろう。あと、幸か不幸か独身という理由も。県北の旧家出身で、田舎には広大な土地を所有する地主の三男坊ということもあったかもしれない。

 加えて、後輩や従業員、取引先から慕われる控えめな性格も後押しされる理由のひとつ。そんな彼に、悠は挑むかのように続けた。


『そんなシェフに“十六夜”は似合わない気がしますね……むしろ“望月”でしょう?』


 “十六夜”満月から少し欠けた月。十五夜に比べて遅れて月が出るため、月がためらって……いざようように見えるからだという。ちなみに“望月”とは満月のことだ。

 このときの那智は、完全でない自分に大きなコンプレックスを持っていた


『私より、その若さで統括本部長という一条さんのほうが羨ましい。“望月”というなら、あなたのことだと思いますよ』

『さあ、どうかな? 僕はもうずっと長い間、朔の月にいるので……』

 

 朔の月とは新月のまったく見えない月。悠は今よりもっと冷めた瞳で――月の名前に惹かれて立ち寄った、これからも食べに来たいと思う――そんなこと口にした。

 今になって思えば、美月のことが胸にあったのかもしれない。

 だがそれ以上に、悲しげな悠の笑みはいつまでも那智の胸に残っている。乗り越えられない何かを抱えた者同士のような……。



「ケンカはしてない。ただ、殴られただけ」

 スーツの上着を放り投げ、悠は可笑しそうに話し始める。

「相手は女だから、大したことはないけどね。一発ヤりたくて、呼び出してホテルに行った。でも、どうしてもダメで……。謝ったんだけど、ぶつぶつ文句を言うもんだから」


 相手の女から『せっかく出てきてあげたのに』と言われ、売り言葉に買い言葉で『しかたがないだろう? 君じゃ勃たないんだ』と言い返した。

 直後、女から平手打ちを食らったという。


「指輪をはめた手で叩くのはやめて欲しいな。これじゃ、明日会社で夫婦ゲンカかと思われる」

「夫婦ゲンカより問題だろう? 一条、いい加減に逃げ回らず、ちゃんと向き合ったほうがいい」

 那智の抱える問題と違って、悠には相手がいる。

 悠が妻と紹介した美月は、彼にとってあきらかに特別な女性だ。

「向き合ってますよ。その結果、彼女は僕の部屋にいる。だから出てきたんだ……美月を抱く前に」

「……抱いたらまずいのか? 夫婦なんだろう?」

「彼女が大事にしているものを――奪うことになる」

「いいじゃないか。ムリヤリはまずいが、そうでないなら、いっそ奪ってみればいい」

 那智の大胆な言葉に、悠は酔いがさめた様子だ。

「今のお前は、自分から檻に入って逃げられないと言っているだけだ。鍵はかかってない。いつでも出られる。一条、勇気を出して外に踏み出すべきだ。お前はいずれ中央に戻り、日本経済界を動かしていくひとりになるんだろう?」


 悠の姿は、若い時期に女性問題でつまずき、それを何年も引きずっている自分と同じに思えた。

 いや、悠のほうが重症だ。那智は相手を見つける意思はあるし、前に進むつもりもある。だが悠は、自分に価値がないように思い込み、人との付き合いすら拒んでいる。


「僕が檻から出たら……それを嗅ぎつけて魔女が現れるんだ。いつまでもどこまでも付きまとう……知ってますか? 魔女の前に法律なんて無意味だってこと」

「だったら……魔女に相応しい武器でやっつければいい」

 突拍子のない悠の言葉に那智も応じた。

「もし、お姫様も魔女だったら? いや、助けに行く王子様が、本当は魔王の息子だったら? まあ、そのときは、お似合いと言えばお似合いなんだが……」

「一条?」

「でも……美月は違う……美月だけは、巻き込みたくない……」

 ソファのクッションに抱きつくようにして、悠は寝息を立て始めた。

 

(意味不明だな……人騒がせな奴め)


 だが後継者と噂される悠が、決して栄転とは思えないO市に出向してきた理由がそこにあるような気がして……。魔女の言葉に嫌なものを感じる那智だった。

 



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