(2)キスの先まで
逆に彼女の腕を取り、廊下の壁に身体ごと押し付けた。
「君が悪い。――さっきのキスを覚えてないのか? あんなキスを交わしたすぐあとで、ふたりきりなんだ。今、僕が考えていることは、君をベッドに連れ込むために、どうやって誘惑するかってことだけだ」
言葉の内容とは裏腹に、悠の表情は“誘惑”ではなく、明らかに喧嘩を売っていた。
そんな彼の勢いに押されたのか、美月は黙り込んでしまう。
「それとも、キスも事故にしてしまうかい? いっそのこと、これから起こることもみんな事故にしてしまおうか? この六年で随分変わったと言ったね。そのとおりだ。そして君も十代の女の子じゃなくなった。当然、ふたりの関係も変わるだろう」
悠は指先で美月の唇をなぞった。
押さえている彼女の腕は片方だけ、その気になれば残った手で悠を突き飛ばせるはずだ。強引に女性にねだるのは主義じゃない。第一、それほどまでに抱きたいと思った女性はいない。
いや、いないはずだった。
美月自身も潔癖そうな言葉とは違って、恐ろしいほど無防備だ。
しどけなく開いた胸元、今にもほどけそうな腰紐、濡れたままうなじに張り付いた後れ毛といい……悠を誘わんばかりである。なんの罠だろうか、と警戒したくなるほどだ。だが、美月はすでに悠の妻。第一、金なら悠と結婚して得るものより多い金額を、すでに寄付している。権力や社会的地位を望むなら、桐生の後継者と名乗れば済むことだった。
美月は悠の金も力も必要としていない。自由と安全を確保するための結婚。そのための夫だ。
このあからさまな誘惑に乗っても、悠に失うものは何もない。
彼はそう思いながら、美月のうなじに唇を寄せた。白い肌がピクリと震え、肌越しに伝わるほど鼓動が速くなった。
(これは……OKなのか? それとも……)
不自然なほど、身動きをしない美月が気になり、悠は彼女の肌から唇を離した。
顔を覗き込むと、美月は奥歯を噛み締め、泣きそうな瞳で彼を睨んでいる。
「そんな顔をしてどうしたんだ? 何も言わず、逆らわずにいたら、誰だってOKだと思うだろう?」
すると、ようやく美月が口を開いた。
「そう……思っておられるなら、好きにされたらいいわ……私、私はこんなこと……」
どうやらノーと言いたいらしい。
だが、美月の言葉はどうにもあやふやだ。身を捩る女らしい仕草とは逆で、その矛盾が悠を苛立たせる。
彼はそのまま、フッと意地悪く微笑み、
「ああ、思ってる。仰せのとおり、好きにしてみよう」
言うなり、美月を抱き上げリビングに戻った。そこに置かれた広いソファに彼女を下ろし、バスローブの胸元に手を入れると押し広げた。
「美月ちゃん、僕の何を試しているのか知らないが、そんな勝負は無意味だよ。お互いに欲しいものを手に入れよう……」
悠はその言葉が美月に誤解を与えているなど知るはずもない。
白くなだらかな肩をなぞりつつ、先ほど鏡越しに見た桜色の部分に口づけた。柔らかだった部分がしだいに硬くなり……。だが、すぐに悠は不安を感じ始める。
美月の仕草はどこからどう見ても悠を誘っている。身体を与えて懐柔すれば、簡単に離婚できると考えているのか。それとも、彼女の希望を叶えるといった悠に対するお礼か。
(本当にこんな場所で抱いてしまっていいのか?)
そのとき、悠は小刻みに震える美月の身体に気づいてしまう。
(ちょっと待て……彼女を待つ男は本当にいるのか? だとしても、彼女はまだ……)
悠は慌てて自分の衝動にブレーキをかけた。
美月のバスローブを元に戻すと、彼女から離れる。
「ゆ……うさん?」
「信じられないが……聞いておきたい。君はバージンのままで精子バンクを使い、妊娠するつもりだったのか?」
図星だったのか美月の顔色は目に見えて変わった。羞恥と動揺が浮かんでいる。
「なんてことを……無茶もいいところだ! 君はまだ二十代前半だろう? 聖母マリアじゃあるまいし。おまけに、僕にはヨセフになれと?」
「結婚したとき、私は未経験だったわ。そして夫はあなただけよ。他の誰かと気楽に経験できたなら、精子バンクなんて考えないわっ!」
「だから、僕なら経験しても構わないと思ったわけだ」
「ええ、そうよ。あなたが“ソレ”を望むなら、私は……別にどんなやり方でも文句は言わないわ」
たしかに今、彼女に対してセックスを求めたのは悠だ。
美月がバージンであるなら、自分の仕草が誘惑になるとは考えてもいなかったのだろう。悠にすれば迷惑な話だが、彼女はどんな形であれ、結婚を神聖なものと捉えている証拠だ。
(待つ男はいないのかもしれない。もし、決めた男がいるなら、その男のために自分を守ろうとしただろう……ならば)
悠は気持ちを切り替え、両手を上げた。
「わかった。すまない、悪かった。……僕らは七年も夫婦でいて、そのうち一年間は一緒に暮らした経験もあるが……どうやら、その経験は役に立たないようだ。お互いに、少し頭を冷やす必要があるな」
「それは……私が未経験だから?」
「そうだ」
美月がまだ自分を誰にも与えていないというなら、それを受け取るのに相応しい男でなければならない。自分が受け取るべきではない、というのが結婚したときに出した悠の結論だ。あのときは美月自身もそれを望んでいた。どんな男とも深い関わりを持ちたくない、と。
だが……悠に身体を投げ出すということは、その考えを変えたということだろうか? もしそうなら、自分がそれに応えたとしても……。
(ダメだ。どうも自分にとって都合のいい方向に答えを導こうとしている)
悠はスーツの上着を手に取ると、美月に背中を向けた。
「待って、悠さん! どこに行くの?」
「だから、頭を冷やしてくるよ。このままだと君を襲いそうだし、それは結果的に後悔することになりそうだ」
「それは……経験豊かな女性のもとに行くということ?」
美月の声に込められた嫉妬に悠は驚きつつ、
「そういうことも、あるかもしれない」
昨日まで付き合っていた植田千絵とは別れたが、ほかにも声をかける女性に心当たりはある。
「やめてください! そんな……私が日本にいる間はやめて!」
ふいに語気を強めた美月を悠は凝視した。
すると、彼女はバスローブの前をしっかりと掻き合わせ、ソファの横に立ち上がる。
「私がここにいることで問題が起きるというなら、出て行きます」
「何を馬鹿な。さっきのことを忘れたのか?」
「ほかのホテルに泊まりますから」
「また、無言電話がかかればどうする? 部屋に盗聴器が仕掛けられているかもしれないんだぞ。このマンションは僕が住むことになって、出入りのチェックは特別に厳しくなってる。ここなら、誰かが来ることはない。君はここにいるんだ!」
悠は強い口調で命令すると、美月の返事を聞かずに飛び出した。