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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第2章 初恋
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(1)恋のはじまり

 大きな鏡の中からひとりの女性がこちらを見ていた。そこに映っているのは、彼女自身が知らなかった彼女の顔。それは恋を知った女の顔だった。

 美月は今、悠のマンションにいた。

 それもシャワーを浴び、洗面台の前に立って濡れた髪を拭いている最中だ。あのあと、悠は問答無用で彼女を自分のマンションに連れ帰った。美月自身、あの部屋にひとりでいることが恐ろしく、ついつい、悠の言いなりになってしまい……。


 ――わかった。君の願いを叶えてやる。


 美月の中でその言葉がずっとリフレインしている。

 悠は彼女の話を聞いてくれる気になっただけだ。まだ、イエスと言われた訳ではない。だが悠なら、美月が望めば、きっと叶えてくれるはず。

 ひとつだけ問題があるとすれば……。

 もし悠が人工授精ではなく、別の形で美月の妊娠を望んだら? ということ。


(さっきのキスを考えたら……ありえないことではないわ)


 ただ唇を重ねただけのキスなら美月も知っている。でもあのキスは全く違った。悠は美月をひとりの女性として扱い、抱きしめてくれた。

 美月も悠にはなんの恐怖も嫌悪も感じず、むしろ、もっと強く抱いて欲しいと思ったくらいで……。


(いやだ、私ったら……それじゃまるで、本当の夫婦になりたいって言ってるみたいじゃない)


 鏡の中の彼女は、見る間に首筋まで赤く染めた。

 悠となら、そうなってもいいかもしれない。ふたりの関係を進歩させ、本当の夫婦になる。でも、それぞれの生活は今までと同じで……悠は日本、美月はボストン。子供が生まれたら尚のこと、危険な日本に戻って来る訳にいかない。

 そこまで考えたとき、美月はひとつのことが胸をよぎった。


(日本ではこれまでどおり、悠さんはたくさんの恋人を作って暮らすんだわ。でも、それは……)


 イヤ、と言う資格が美月にあるのだろうか?

 でもイヤだった。悠が他の女性に触れるのはイヤだ。さっきのようなキスは美月だけにして欲しい。恋の嵐は突如として彼女の中に巻き起こり、激しく胸を揺さぶる。

 

 少しだけバスローブの胸元をはだけてみた。

 すると、象牙色の美しい肌が露わになる。美月の肌は綺麗に日焼けせず、赤くなるタイプだ。肌が弱いと言われたこともある。そのせいか、日本人の中では白いほうだろう。病弱だった母の肌も白かった。母と一緒だ、と喜んだ子供のころが懐かしい。


(これって女として魅力的なのかしら? それとも、もっと健康的な肌の色が好まれるの? 悠さんが好きなのは……)


 柔らかな立体感のある曲線が白いバスローブの間から見え、さらにその頂が鏡に映ったとき――。


「美月ちゃん、いつまで入ってるんだ? ひょっとして寝てるんじゃ……」


 心配だったのか、それとも無意識か。ノックもなしに洗面所のドアが開き、悠が中に入ってきた。美月は声を上げるのも忘れ、鏡越しにふたりは見つめ合う。

 ほんの数秒……美月は呼吸が止まった。


「ごめん、まだ中だと思ってた。何もないならいいんだ」


 悠は慌てて目を逸らし、即座にドアを閉めた。

 彼の対応に好感を持ちながらも、本当は女性としての魅力に欠けるから、悠が衝動的になってくれないのではないか?

 そんな不安に駆られてしまう美月だった。



~*~*~*~*~



 一方の悠はそれどころではない。

 閉めたドアの外……壁に額を押し付けると数回、ガンガンと頭に衝撃を与える。それで可能かどうかはわからないが、今、見たことを忘れてしまいたかった。

 美月は貧弱云々と言っていたが、そうでないことは昔から知っている。小学生のころから中学生、下手すれば高校生並のスタイルをしていた。実際に高校生の年齢で出会ったときは、幾分、丸みを帯びて瑞々しく感じたのを覚えている。

 だが今、目にした彼女は……。欠点など見つけようがないほど、完璧に美しかった。あの胸の谷間に顔を埋めたらどんな気持ちがするのだろう。そして、桜色の先端を口に含んで……。


(ダメだ。ダメだ、ダメだ! 余計なことを考えるな! 彼女の願いどおり、離婚すると決めたんだろう。そもそも、彼女を守るための結婚じゃないか!? コレじゃまるで那智さんの言うとおり……)


 美月だけは駄目なのだ。絶対に手を出す訳にはいかない。だからこそ、この六年間、悠は一度も美月に会いに行かなかった。

 六年前のあのときですら限界だった。本当の自分は、美月の信頼に足る男ではない。



 第二次性徴期に入ったころから、悠は自分の感じ方に疑問を持っていた。

 中学のころはそうでもなかったが、高校に上がってそれは顕著になる。友人たちが異性との交際やセックスの話に夢中になる中、悠はひとり冷めていた。興味がない訳でも、身体に支障がある訳でもない。ただ、どうしても同じテンションになれないだけだ。

 彼と違って、弟の真は幼いころから感情表現が豊かで、幼なじみの“美月ちゃん”に夢中だった。


 悠が初めて女性と付き合ったのは大学に入学してからのこと。彼女は悠よりひとつ年上で、都内の女子大に通っていた。高校時代からの友人、小岩豊こいわゆたかから『彼女の友だちがお前と付き合いたいって』そう言って紹介されたのだ。

 もう十一年も前になる。今となっては顔もよく思い出せない。名前も『マホさん』と呼んでいたことだけ覚えていた。

 そして、悠が初めて女性を抱いたのも十九歳のとき――。

 だがその相手は『マホさん』ではなかった。



 カタン、と背後で音がした。

「あ……あの、ずっと占領していてごめんなさい。悠さんも入っていらして」

 美月は先ほど胸を見られたことなど、なんとも思っていない様子で話しかける。それが、悠には少し悔しかった。


(動揺してるのはこっちだけ、か)


「君は嘘つきだな」

 悠はバスローブ姿の美月を見るなり、余計なことだ、と思いつつ口にしてしまう。

「どういう意味かしら?」

「あのバストが貧弱なら、日本人女性の八割は貧弱になる。ヒップも……同じじゃないか?」

 思わず、チラッと美月の下半身に視線を走らせた。

 バスローブ越しにくっきりと浮かび上がる曲線。それは、ひたすら自分を抑えようと努力している男の目には毒となる。

 悠はうっかり見惚れそうになる自分を心の中で叱りつけ、口をギュッと閉じて浴室に向かう。

 

 ところが、すれ違いざま、美月が悠に声をかけた。

「さっきのことは事故だと思っています。そんなにしっかりご覧になっていたなんて……気づきませんでした」

 悠を責める口ぶりに、彼の足は止まった。

「僕も男だからね。……鍵くらい、かけたほうがいい」

「その前に、ノックするべきじゃないかしら?」


 この、美月の真横に立つのは拷問だ、と感じた。

 シャワーを浴びたばかりの身体からは、ほんのりと湯気が立ち昇っている。使い慣れたボディソープの香りが、これほどなまめかしいと知ったのは初めてだ。

 何も答えず、相手にしないでさっさと浴室に向かおう。

 悠はそう思いつつ、足が動かない。美月の気配に心を奪われる自分がいた。彼女は悠のよこしまな心を欲望の色に染め上げていく。しだいに呼吸が速まり、彼は下腹部に生じた熱を感じる。


「ねえ、悠さん。なんとか言ってくださらない? それでも私が悪いと……」


 美月が一歩近づき、悠の腕に触れた瞬間――。



 

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