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黒瀬紫苑

目の前に、一人の女が立っていた。


現実離れした、息が詰まるほど柔らかい光に包まれている。胸が押しつぶされそうなほど恐ろしいまでの美しさ。一目見ただけで肺の空気が奪われ、ひれ伏したくなるような絶対的な存在感があった。


烏羽色の髪が流れる黒髪の束となって華奢な肩を滑り落ち、整いすぎた顔立ちの輪郭を縁取っている。額には柔らかい前髪が揺れていた。吸い込まれそうな深いダークブラウンの瞳。それは液体状の琥珀を湛えた池のようで、静かで深い温もりを宿し、言葉のない約束で俺を引きずり込んでいく。


薄い唇が柔らかく弧を描いて微笑むと、周囲の空間そのものが敬意を払うかのように静まり返った。人間業とは思えない神聖な美。


次の瞬間、静寂は破られた。


瞳に宿っていた温もりが一瞬で蒸発し、白濁した死の色彩へと変貌する。


ぐちゃり、と肉が潰れる生々しい音が響き、下顎が途方もない角度で跳ね上がった。靭帯が引き千切れる破裂音とともに、顎が鎖骨のあたりまでぶら下がる。


陶器のような肌は、濡れた紙が壁から剥がれ落ちるように頭蓋骨から滑り落ち、その下から脈打つ赤黒い筋肉と凝固した血塊が露わになった。頬と額を突き破って飛び出す、尖った骨の破片。肉が裂ける不快な湿り気が胃を揺さぶる。


さっきまで漂っていた甘い香水は、一瞬にして屠殺場の臭気へと変わった。血の生臭さと腐肉の臭いが充満する。


華奢だった指先は歪に引き伸ばされ、節々の狂った爪へと変貌し、濃密な赤を滴らせていた。


天使の皮を被っていた化け物が、異形の大口を開けて俺の顔面へと躍りかかる。肉を押し潰したような絶叫が、直接歯ぐきを震わせた。


「はっ……!」


跳ね起きると同時に、乱れた呼吸が喉を突いた。まるで水底から引きずり上げられたかのように、埃っぽい空気を貪り吸う。肺が焼けるように熱い。


俺はデスクの上に突っ伏していた。使い込まれた銘木の天板には、冷や汗が薄く広がっている。


指関節が白くなるほど強くデスクを掴みしめる俺の視界を埋めていたのは、乱雑に積み上げられたマニラフォルダー、司法解剖の鑑定書、そして不鮮明な現場写真の山——死者たちの残骸だった。


「……クソが」


湿った髪をごわごわと掻きむしり、頭皮に鋭い痛みを込めて現実に意識を繋ぎ止める。荒い息を吐き出すと、残っていたアドレナリンがゆっくりと抜けていくのが分かった。


正直、正気を保つのも限界だった。


ここ数週間、絶え間なく続く連続殺人事件が俺の神経を削り削り、内側から食い荒らしている。


作業スペースを埋め尽くす書類の山に手を突っ込み、紙擦れの音を苛立ちまぎれに響かせながら、雑に束を揃えた。重いファイルを天板に何度も叩きつける。無秩序な山を強引に垂直な壁へと変える作業。それが、俺に残された唯一の統制のポーズだった。


背もたれに深く体重を預けると、使い古した革が低い悲鳴を上げた。


天井のヒビ割れた漆喰を見つめ、固く結んだ歯の隙間から声を漏らす。


「またあの女か……」


頭上で揺れる一本の白熱電球。その不機嫌な黄色の光は、背筋を這い上がる冷気を取り払ってはくれない。


俺の名は如月蓮(きさらぎ れん)。警視庁捜査一課の刑事だ。


……いや、単なる刑事だったと言うべきか。人間の泥濘を這い回る日々の中で、今の俺はまるで地獄の門前に立つ穴掘り人だった。


ここ最近、署には信じがたいペースで殺人事件の報が届いていた。


だが、それらは巷に転がる愚かな利権争いや突発的な痴情の縺れなどではない。どの事件も、純粋で無薄めな悪意の展示会だった。


被害者はことごとく女性。デスクの脚元を固める解剖所見の束によれば、この管内だけで極めて異様な暴力の感染症が爆発している。


手口は極めて一貫しており、かつ致命的なまでに破綻していた。


犯行者は女を標的にし、想像を絶する暴行を加えた末に、解体する。中には暴行のプロセスすら省き、工業用のノコギリや狩猟ナイフで生きた人間をただの肉塊へと変えたものもあった。


山となった凄惨な報告書を貫く唯一の共通点——それは、異常なほど短い期間内に繰り返された、女性被害者への徹底的な人体破壊だった。


最初は、世の中のタガが外れただけだと思おうとした。


長年現場にいれば、人間がどれほど残虐になれるかは嫌というほど知っている。欲望、怨恨、快楽。だが、今回のケース群は、地獄の悪魔ですら思いつかないような狂気を孕んでいた。


もし悪魔が存在するとしても、同族をここまで綿密に、楽しむように刻みはしないだろう。


これは人間が、同じ街の空気と水を共有していた同族の皮膚に刃を立て、骨を断ち、家畜のように処理した記録だ。


当初、俺は冷めた論理でこの現象を処理しようとした。


これほど異常な切断殺人が短期間で頻発するなど、異常事態以外の何物でもない。そしてさらに異常だったのは、警察がすでに何人かの犯人を確保している点だった。


逮捕された連中は、年齢も、職種も、生い立ちも、動機もバラバラだった。接点すら存在しない。


にもかかわらず、狙う標的の属性と、その肉体を徹底的に破壊する手法だけが完璧に一致していた。


統計上の偏り——ダークウェブの掲示板か何かに感化された、底辺の異常者どもによる連鎖的な集団催眠のようなものだと自分に言い聞かせようとした。だが、刑事としての勘が告げている。無数に重なる偶然は、まだ解明されていない法則に過ぎない。


流血の点が地図上で線を結び始めたとき、それは偶然ではなく「設計」になる。


そして、俺の足元を支えていた論理の壁は、上層部が持ち込んできた一枚の写真によって跡形もなく砕け散った。


始まりは、一枚のカラー写真だった。


現行犯逮捕された別の男の現場処理が終わり、遺体の生前の姿を捉えた一枚の写真が俺のデスクに置かれた。


ツヤのある印画紙を見つめた時のことを覚えている。


そこに写っていたのは、息を呑むほど美しい女だった。


流れるような黒髪、額にかかる柔らかい前髪。静止画でありながら、その深い褐色(ダークブラウン)の瞳には人を惹きつける物憂げな引力があった。完璧な鼻筋、顎のライン、薄い唇の輪郭。美しさというよりは、一種の完成された造形。


そして彼女は、俺の悪夢に出てきた女と寸分違わぬ姿をしていた。


だが、俺の血液を凍らせ、心臓の鼓動を跳ねさせたたのは、そんな一致ではなかった。


異常——現実に穿たれた不可能な亀裂。


この女は、過去二十件におよぶ連続切断殺人事件の、すべての被害者だった。


二十の現場。


取調室で「自分が彼女を切り刻んだ」と供述している二十人の男たち。


解剖室に並べられた、二十組の切断遺体。


思考が停止した。


耳の奥で、血液の流れる雑音だけが激しく鳴り響いていた。


あり得ない。同じ女が二十回殺され、二十回とも別の男にバラバラに解体されるなどということが、この世にあっていいはずがない。


論理的に導き出せる結論は、狂気のものただ一つ。


この女は、何度も死んでいる。


男の手によって惨殺され、肉塊に変えられるたびに、何事もなかったかのように再び現れ、次の捕食者の前に立っているのだ。


慢性的な睡眠不足で、目が重く熱かった。


俺は山から分けておいた一枚の書類に視線を落とした。この謎の核心に触れるため、天板の中央に残しておいたファイルだ。


俺はその顔を見つめた。現実のバグ。


署内は、静かなパニックに包まれていた。


監察医も、鑑識も、報告を受けた上層部も、全員が狂人病棟で目覚めたかのような顔をしていた。誰一人として信じたくはなかったのだ。物理法則も、生物学も、常識もすべて無視している。だが、DNAの照合結果も、歯型の記録も、黒いインクで印刷された科学的な答えは動かしようがなかった。


女の名は、黒瀬紫苑(くろせ しおん)。


その美しい顔立ちは、庁舎の暗い廊下で密かに囁かれていた。容姿のせいではない。彼女の存在にまとわりつく、恐ろしい事実のゆえにだ。


殺され、部位ごとに分けられ、袋に詰められ、タグを打たれた。そして数日後、彼女は再び死体となって発見される。


導き出される唯一の正気な結論——彼女は、殺されるたびに「蘇って」いる。


そして俺、警視庁捜査一課の如月蓮が、この呪われた事件の主任に任命された。


この深淵へと足を踏み入れるにあたり、一つの問いが俺の頭蓋骨の内側を激しく叩き続けていた。心臓の動悸よりも強く、うるさく。


もし……もしこの女が本当に死から蘇り、切り刻まれた肉と砕かれた骨から再び肉体を構成して街を歩いているのだとしたら。


一体、こいつは何者なんだ?


黒瀬紫苑は、本当に人間なのか?


それとも、完璧な皮を被った、人智の及ばない古の怪物なのか?


俺は重い体を乗り出し、デスクに肘をついた。


白熱電球の貧弱な光に照らされた写真を、射抜くような視線で見つめる。


部屋の影が伸び、写真の縁へとまとわりついていくようだった。


その深く静かな瞳の奥を見つめていると、背骨の芯を冷たい戦慄が駆け抜けた。


死に絶えた部屋の静寂の中で、その写真の女が、じっと俺を見り返しているような気がした。

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