ノクターン・バラッド
彼女に逢う日はよく雨が降った。
*
――――3年前。
「和樹~! 出来たよ、里芋の煮っころがし。夏の調理は暑い! アハハ」
華奢な白い肩をノースリーブから覗かせショートパンツを履いた美々は、ピンク色のエプロンを着け今、絶好調のシェフだ。
「わあ、すんごく良い匂い。煮物の香りは田舎を思い出して良いな。ありがと、美々」
こんな風に美々はオレの家に来ては料理を作る。本人曰く料理を苦手と言うが、その割にはせっせとこさえてくれるし何を作っても美味い。
オレが来月32だから4つ年下の美々はもうすぐ28だ。
オレは美々を愛している。交際して2年と8カ月が経った。プロポーズをしたい。
さっきは前髪から見え隠れするおでこに汗が滲んでいた美々。今、ポニーテールされた襟足を、じっとりとした素肌を黒い後れ毛が遊んでいる。
「ん?」
見つめすぎたか。流しから振り返った美々が不思議そうに声を漏らした。
「ううん。何でもないよ、美々」
「そう。ねー、和樹、今日も雨。和樹、止ませて」
「そんなの無理だよー」
笑みが零れる。
「あたしが雨女なのね、ウフフ」
そうだ。美々がオレの家にやって来る日は3分の1が雨降りじゃないか? かなりの確率だな。しかし外でデートをする日は晴天の日が多い。不思議なことだ。
「和樹? あたしは好きよ。お家にいる時に聴く雨の音。なんだか落ち着くよ」
「確かにそうだね」
雨粒が降りて来る音に、自分の場所から耳を傾けると柔らかな孤独と、大自然の細胞分裂がイメージされる。
雨が降り、山の頂きにある小川へと水が沁み、沁み入ったものは川となり、やがては入り江から海へ……。
その旅の間に様々な命が生き長らえ、誕生する。
そんな屁理屈は置いておくにしろ、単純に心地よい。
鍋の煮っころがしにはすぐ箸を付けず、アイスコーヒーと氷の入ったグラスと水滴を持ち、二人で窓の外を眺めている。
「本降りだね」
意味もなく黙っていたら美々が言う。
「ああ」
ザーザーと降り、道行く人々は傘に守られている。
雫の重みに耐えかねた葉が、おじぎするみたいに揺れているのが見て取れる。
「雨は良いね。ちっちゃな涙のくせして大海原へ漕ぎ出すのよ? ハ~、あたしは小劇場の舞台俳優の端役から、いつ大女優になれる……」
美々は役者をしながら喫茶店で毎日のようにアルバイトをして生活している。役者と言っても……美々自身が言った通りはっきり言って売れない役者だ。
オレは芸能の仕事はしていない。芸能とは無縁のお堅い公務員。役所勤めだ。
趣味の延長線上で美々と出逢った。オレは舞台を観るのが大好きである。
しかし美々が小さなステージで端役を演じたその演劇は、観に行く気もなかった。芝居があることを知る由もなかった。大学時代の中野という男友達から半ば強引に誘われたのだ。彼と美々は親しい、と言っても恋人ではなく友人関係にある。
「友達がステージに立つからチケットを1枚買ってくれ」と言われ彼に同行したのだ。
主役女性から彼氏を奪い殺される恋敵の妹、という地味な役どころだった、美々は。シナリオ上、毒にも薬にもならなさそうな役どころであり、誰がやっても良いような役だと思われた。
だがオレはそのステージで、彼女から発せられる真剣さ、妖艶なムード、絶妙な引き算の芝居から、雷に打たれたような衝撃を受けた。とても賢い女性、それでいて少女のような透明感を発している。
オレは中野に頼み込み、彼女と引き合わせてもらい、結果意気投合し今に至る。
美々の第一印象は裏切られなかった。
*
ある夜、喫茶店の仕事を終えた美々から電話が掛かって来た。
「美々、お疲れ。どうかしたの」
「うん、ごめん和樹。明日行けないや。急に稽古が入っちゃった」
「あ、そうなんだ。美々のカレーはじゃあ来週までのお楽しみだね」
美々は先週の休み「次はカレーライスだよ」と嬉しそうに言っていた。
「うん。楽しみにしていてね」
――――だがその次の週もオレは美々の料理にありつけなかった。
今の舞台のことをまだ詳しくは聴けていないが、もしかしたら良い役につけたのかも知れない。それならば美々を祝ってやりたい。
*
美々はみるみる忙しくなって行く。
ついにはメールの返信も来ない、電話にも出なくなってしまった煮っころがしからの1か月後である今日、オレはたまらず約束をしないまま突然美々のマンションを訪れた。合鍵は持っている。
ピンポーン。
うんともすんとも言わない。
(仕事か……)
でもオレはなにかを感じている。
ガチャリ。
合鍵を未来へ差し込み疑惑の扉を開けた。
「美々ー! 帰ってるの。どこ」
ハッ。
ベッドの上に美々の父親ほどの年齢の男が裸で寝そべっている。隣の美々は胸までシーツで隠し脅えた表情。
「てっめえ誰だよ! 人の女を盗みやがって!」
「やめて!」
シーツからパッと抜け出した美々。
キャミソール姿の美々は、オレが殴ろうとした初老の男をかばった。
男は俯き黙っている。
「彼はプロデューサーなの。だからこうして寝ているのではないわ! 愛してるの! 愛してしまったの! ああ――――ッ」
その瞬間、オレは本当に美々を愛していると思い知った。硝子の靴を履いたスターの卵は割れやすい。
オレは夢を見た。男なんてどっちでも良いから美々に笑って欲しいと祈った。
*
――――3年の月日が流れ、もう美々への想いはすっかりオレにない。恋人もいない。あの男とその後美々がどうなったかなんて知らない。
美々は掌にポトリと落ち、顔をしかめられ振り払われてしまう雨粒ではなく、彼女が夢見た大海原を目指す択ばれし雫となり航海へ出た。
今や化粧品のCMに出るほどの売れっ子女優なのだ。
料理が旨い女だった。オレの想いは泥水に流れたが、引っ掛かった草木にろ過された。
そして今。
雨だがタバコがないから買いに行く。




