プロローグ
俺の名前はシンジ。38歳。
元会社員だ。
ついさっきまで、普通に働いていた。
いや、“普通”じゃないな。
終わりのない残業。意味のない会議。責任の押し付け合い。
そんな泥濘のような日々に潰されて、気づいたら——終わっていた。
で、次に目を覚ましたら。
土の上にいた。
「……は?」
思わず声が出る。
体が軽い。いや、違う。
軽いのに、芯がやけに重い。鉛を流し込まれたような、変な感覚だ。
腕を見る。細い。若い。
泥と傷にまみれているが、明らかに38歳の俺の体じゃない。
足首には、錆びた鉄の枷が食い込んでいた。
「おい、起きたぞこいつ! 生きてやがった!」
声が飛んできた。
振り向くと、そこには四人の男女がいた。
全員十代後半くらいか。
「……どこだよここ」
「分かんねぇよ。気づいたら鎖に繋がれて、この真っ黒な荒野だ」
「ねえ、ゲームみたいじゃない? ほら、ステータスとか出るし……」
隣で、茶髪の若者が震える手で空を仰いでいた。
カズキ、と名乗ったその男は、さっきまで「転生だ、無双だ」とはしゃいでいた。病弱な妹への土産に、異世界の宝石でも持ち帰ってやると息巻いていたはずだ。
状況は同じらしい。理不尽な転移。そして、最底辺の奴隷。
「……異世界転移、か」
「え、おっさん詳しいの?」
「……いや、知識としてな」
そのとき。
脳の奥、鼓膜の裏側で、直接響くような声がした。
『……ふむ。案外、肝の据わった若造じゃな』
低い声。
土を何十年も踏みしめてきたような、重みのある老人の声だ。
「……誰だ?」
『誰でもよかろう。今は……そうじゃな、お前さんの中におる。儂もついさっき、畑の真ん中で往生したばかりでの。土への未練が、お前さんの魂と混ざったらしい』
驚きは、後回しにした。
「……で? 何かアドバイスでもあるのか、嘉平さん」
『ほう、察しが良いな。なら、まずは儀式じゃ』
「儀式?」
『土を舐めろ』
「は?」
『ええから舐めろ。土を識らん者に、明日は来ん』
意味が分からない。だが、直感が告げている。
これは“重要なやつ”だ。
俺はゆっくりと膝をついた。
指で土をすくう。黒い。夜の底を固めたような、異様なほど深い黒だ。
そのまま、躊躇なく口に入れた。
——瞬間。
視界が爆ぜた。
「……っ!?」
濃い。とにかく、濃い。
栄養とか、魔力とか、そういう生ぬるい次元じゃない。
何万年分もの「生」と「死」が圧縮されたような、暴力的な情報量が流れ込んでくる。
内臓が焼けるような拒絶感と、脳を突き抜けるような快感が、同時に背骨を駆け上がった。
喉の奥で、鉄の味がした。
何かが、俺の内側にあったはずの「何か」を、強引に押し流していく感覚。
『どうじゃ』
嘉平の声が、愉しげに響く。
俺は、こみ上げる吐き気を無理やり飲み込み、歪んだ笑みを浮かべた。
「……資源、だな」
『ほう』
「未管理の……制御可能な形に加工すべき、資源だ」
視界の端に、ノイズ混じりのシステムメッセージが浮かび上がる。
【環境:魔土】
魔力濃度:412%
栄養価:規格外
適応成功率:14.2%
適応失敗時のリスク:人格崩壊/機能特化(畑への転換)
「……なるほどな。当たりだ、これは」
会社員時代の俺なら、このリスクを見た瞬間に逃げ出していただろう。
だが、今の俺には「次」がない。
「これ、使える」
『……シンジよ』
嘉平のトーンが、わずかに冷たくなった。
『これは、人を変えるぞ。土の真理は残酷じゃ。適応すれば強くなるが、戻れんくなるが、ええな?』
「問題ない。戻る場所なんて、最初からない」
そのときだった。
「あ、ああああああああああっ!」
悲鳴。
さっきの茶髪の若者、カズキが、地面に膝をつき、自分の顔を掻きむしっていた。
血管が浮き上がり、目から光が消えていく。
「呪いだ……! 魔王の呪いが土地に満ちてるんだ!」
パニックが広がる。
だが、俺の目には別の光景が見えていた。
【対象:個体名・カズキ(農奴)】
状態:魔力過負荷
精神:崩壊進行中(82%)
変化:人格を抹消し、筋力・持久力へ全リソースを再分配中
カズキは突然、笑い声を上げながら、素手で地面を掘り始めた。爪が剥がれ、血が出ても止まらない。
彼はもう、妹のことも、元の世界も、恐怖すら感じていない。
ただ、土を耕すための「肉塊」へと、最適化を始めていた。
「……なるほど。“呪い”か」
俺は立ち上がり、泥を払った。
いい言葉だ。恐怖がある。忌避される。独占できる。
つまり——計り知れない価値がある。
「嘉平さん。これ、売れますよ」
『ほう、この地獄をか?』
「ええ。……“呪い”という名の、ブランドとして」
そのとき。
「——違う」
声がした。静かな声。だが、はっきりとした否定。
振り向くと、そこに少女が立っていた。
裸足で、その黒い魔土の上に立っている。
その瞳は、深い悲しみを湛えて、俺を見ていた。
「それは、食べ物じゃない」
断言された。俺は一拍置いて、ビジネスマンとしての笑みを浮かべた。
「お嬢さん。それを決めるのは、私じゃない」
「……」
「消費者ですよ」
少女は、ゆっくりと首を振る。その視線が、人格を失い黙々と土を撥ねるカズキへ向けられた。
「違う。……それを食べた者は、“自分が何だったか”を忘れる。最後に残るのは、耕すことだけ」
沈黙。風が吹き、黒い土が波のように揺れる。
俺は足元の土を見下ろした。
濃い。最高に、ドロドロに、煮詰まっている。
「……いいじゃないですか」
小さく呟く。
「終わるかどうかは——彼らに、選ばせればいい」
俺は顔を上げ、少女を真っ直ぐに見つめた。
「私はただ、選択肢として提示するだけです。それを望む者がいる限り、供給は止まらない。……それが、自由というものでしょう?」
売るんじゃない。向こうから「欲しい」と言わせる。
その結果、彼らが人間であることを辞めるとしても——
責任は、選んだ者にある。
それが、自由競争という名の地獄だ。
『……土は選ばん。毒も恵みも、平等に与えるだけじゃ』
嘉平が、諦念にも似た声で呟く。
『選ぶのは、いつだって人間じゃよ』
「ええ。だから、私が管理できる範囲に収めるんです」
遠くで、また一人、男が倒れた。
誰かが泣き、誰かが狂い、誰かが「効率的な肉体」へと生まれ変わっていく。
俺は、懐で鈍く光るカブの種を握りしめた。
魔王の呪いは——最高の、商品になった。
……そう、思った。
そのとき、何かを一つ、思い出せなかった気がした。
だが、思い出せないのなら、それはきっと「無駄」なものだったのだろう。そうでなくては困る。




