第2章 旅立ち(2)
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真っ赤に染まる空を見上げ、彼の人は朱の向こうを伺った。
朝からてんてこ舞いな一日だった。昼間は窃盗騒ぎに、夜は闇オークション、そして繰り広げられる銃撃戦……。ゲームの世界では信じられないほどの非日常が繰り広げられる。
傍観して創るのと、創りながら体験するのとでは、こんなに感じ方が違うとは。
今宵の地震はチュートリアルの終わりを告げる鐘のようなものだ。だから、完璧に遂行させなければならぬのだ。主人公は今晩パーティーを組み、クルダマオ族の蛮行を止めるための旅に出る。彼の人は彼のパーティに首尾よく加わらなければいけない。
彼の人は大きくため息を吐く。
わかっている。よく、わかっている。
【神】である彼の人がパーティに潜り込むことなど、造作もない。しかし、面倒くさいと思わずにはいられなかった。
でも、既に登場人物の一人に【私】の一部を組み込んでしまったし……。
彼の人は唇を噛み締めた。
【私】が離脱しても、あのキャラの中には【私】が残る。あのキャラはあのキャラでいる限り、【私】であることを捨てられない。あのキャラは【私】として行動し続けるだろう。それを神の視点から見届けるなんて恥ずかしいし、なにより、そんな惜しいことはしたくない。加えて、辞めたいとかめんどくさいだとか言っている余裕は、もうないのだ。
それに……と、彼の人はさらに唇を噛む。
それに、私が今していることが上にバレたら、またエラーを出され、本物の暗闇に連れ戻されることになる。そして、また新たなシステムと物語を作り上げなきゃいけなくなる。
ふっと、上司の無機質な声が聞こえた気がした。
またお前か……、という呆れ声とともに、また彼の人を休む間もなく仕事に駆り出すのだろう。
思わず、自分の両手で自分自身を抱きしめた。寒くはないのに、背筋が凍えるような気がした。そっちの方が何倍も、何百倍も嫌だ。
今、彼の人が立っている大地は、みな、彼の人が作り上げたのだ。大地だけではない、この空も、自然も、生き物も、全て彼の人が手がけた代物だ。それを【エラー】の一言で全て無に帰されるのは癪に障る。
RPGは好きではない。光も闇も、敵も味方も、善も悪も、もう考えたくはなかった。
それでも、仕事を放棄するわけにはいかない。
考えなければならないのだ。創造主が満足する世界を作らなければ……、【私】が消えないために、仕事をし続けなければならないのだ。
やりたくもないことをさせて、本物の【悪】は誰なんだ、と毒づきたくなる思いをグッと飲み込み、彼の人は朱を吸い込んだ。
*
唾を飲み込む。
気息を整える。
隣に立つ警備の者に支えている手を退けるように言ったキヒュームは背筋を伸ばし、真っ赤な空と向き合った。
病院から出た先にあったのは、目を見張るほどの赤だった。
「恐ろしい……」
隣に立つ人間族の男が空を見上げて呟いた。キヒュームも心の中で同意する。
夕暮れ時よりも黒っぽい赤だった。それなのに、空自体は真っ昼間のように明るく、辺りを照らしている。太陽は出ていない。星も見えない。まん丸な月だけが、西寄りの空に煌々と輝いている。
「終末みたいだな……」
「えっ?」
隣の男が空を見たまま、キヒュームの声に応えた。
「終末だよ。よく物語でタイトルになったり、『この世の終末』だとかいうだろう。つまり、この世の終わりってことだ。まぁ、ワタシは終末なんてもの見たことはないんだがな」
そう言うと男は黙った。これ以上何もすることはないというように、空に背を向ける。キヒュームはすかさず男に声をかける。
「あの、どこに……」
「終末ならば、どこにいたって同じだろう。どちらにせよ、ワタシは余命一ヶ月なのだ。空を見て慌てて一生を終えるよりも、この病院のふかふかのベッドの上で眠るように一生を終えたい。ワタシは、静かに生を終えたいんだよ」
こんな日常を逸脱した状況で眠れるのか、とか、院内の慌しさの中で静かに生を終えることができるのか、とか、頭に疑問は浮かんだけれど、キヒュームはそれ以上、男に話しかけることはしなかった。
外にいる多くの者たちが呆然と空を見上げる。これほどまでに多くの者が、同じ方向を見、同じ反応をしているのは、どこか滑稽であった。そして、キヒュームもまた多くの者の一人だ。空を見上げ、呆然としている。これから何が起こるのか、何もわからない。ただ嫌な予感だけがする。それでも、キヒュームたちは空を見上げることしかできないのだ。
彼らは皆、しばらく空を見ていた。
けれど、何も起こらない。空も月も変わらない。風にたゆたう雲が、空を隠したり、月を隠したりするだけだ。
至る所で踵を返す音がする。皆、何も起こらないと踏んだのだろうか。空が赤く染まったのは皆既日食のような宇宙の現象の一つだと思ったのだろうか。一人、また一人と院内へと戻っていく。風が人々の合間を縫い吹き抜けていく。生暖かい。
キヒュームも自室に戻ろうと、空に背を向けようとしたとき、音がした。
「聞け」
振り向く。
空は相変わらず赤い。そして雲もただそこでたゆたうだけだ。
気のせいか。
風が大きく吹き抜ける。かなりの強風だ。
雲がうねり、形を変える。まるで意思を持った生き物のように雲の形が変わる。
「聞くのだ、愚民ども」
空から低く唸るような男の声が降ってきた。
背中がすうっと冷えていく。
「今宵、我々は動き出す」
声ははっきりと、明瞭に耳に届く。
気息を整え、体を回す。周りの人々にもこの声は聞こえているようだ。外にいる者は皆、目を見張り再び空に注目する。
雲の動きが止まった。雲の形はキヒュームが闇オークションで見たクルダマオ族そのものの姿だった。
「我の名は、シェイコン。クルダマオ族の皇帝だ」
辺りがざわつく。キヒュームははやる胸元を押さえた。
「時は満ちた。愚民である四種族に報いを受けさせるため、我々クルダマオ族は密かに力を蓄えていた。我々は、今宵、動き出す。我々は、我々を迫害してきたお主たちを決して許さない。お主たちを皆殺しにし、そして、我々がこの国の主権を得るのだ」
ひどい寒気がした。まだ冬ではないのに、ブルブルと体が震えてしまう。シェイコンの声が、言葉が、切っ先となって体を刺してくるようだ。
「これより、シァオイリの地は大災害に見舞われるであろう。地震、大雪、津波、山火事、腐敗……。これらはお主たち如きの魔力では決して止めることはできぬ。お主たちは我々の魔力にかかり、そして、死ぬのだ。……死して、お主たちが我々にしてきた悪虐非道の数々を思い出し、苦しみ、そして、——死を持って償え」
雲でできた黒目が、ゆっくりと動く。キヒュームと目が合った。
まさか。
「我は知っている。貴様らが我の計画の一部を邪魔したことを知っている。貴様らのせいで我の大事な同胞を多く失った。貴様らのせいで。我は貴様らを許すことはできぬ。決して、許されざることを貴様らはしたのだ。貴様らがこの戦争の火蓋を切ったのだ。貴様らが始めてしまったのだ。我々同志は決して貴様らを許さない。貴様らだけは、我が直接始末してやろう。貴様らだけは……」
息を呑む。
それから、雲でできたシェイコンの目を逸らすことなく見据えた。
ここにいる誰もが何の話をしているかわからなくても、キヒュームにはわかってしまった。シェイコンは闇オークションを潰したキヒュームたちを激しく恨んでいるのだ。
「さぁ、楽しい宴を、始めよう!」
聞くに堪えない濁った声が不気味に笑う。
その瞬間、またしても大地が揺れた。先ほどよりも大きな揺れだ。人々は、混乱で荒れ狂う。泣き声、罵声、怒号、そして、蛮声が轟く。肉体同士がぶつかり合い、押し合い、この空間はまるで、地獄のようだった。




