第2章 旅立ち(1)
「キヒュームくんが無事で良かった。本当に良かった」
ラクビースは病院のびっくりするほどふかふかで柔らかそうな1人がけソファーに深く腰掛け、人懐っこい笑みを浮かべて言う。
「ほんと、死ななかったのは不幸中の幸いだよ。まったく、アンタが無鉄砲なのは知ってたが、ここまで命知らずだとは思わなかったね」
キヒュームが横たわるベッドの淵に腰掛けていたドリュウルは、キヒュームのお腹の辺りを叩いた。
「イテッ。あのさ、俺は入院が必要な病人なんだぞ。ちょっとは気遣うとか、そういう配慮はできないもんなの?」
「できないね。アンタがラクビースの手を離さず、一緒に逃げてたらこんな怪我はしなかったんだ。自業自得だろう?」
「とはいえ、キヒュームくんのおかげで罪なき命……アイレーンさんの命が救われたと考えたら、僕はキヒュームくんを責めることはできないよ。とはいえ、無鉄砲すぎるっていうのは同意だけどね」
キヒュームもアイレーンも救助隊に助けられ、ブランダミグマの国立病院に連れて来られていた。爆音でキヒュームは三半規管がやられたが、ここは各地域の名医の集まる国立病院だ。まだベッドの上で安静にしていないといけないとはいえ、ハッコオイ族の治癒力と、人間族の科学力によってキヒュームの損傷はほとんど回復に向かっていた。
それはアイレーンも同じだった。魔力の枯渇は寝るか、薬を飲むかで回復する。彼女は今、ハッコオイ族病棟でゆっくり休んでいることだろう。
「俺も無茶だったって思ってるよ。助けに行ったのに、結局最後は彼女に助けられてしまったわけだし……」
どうして爆破から免れたのか、キヒュームはまだ知らない。けれど、アイレーンが言いかけた言葉、『実はわたくしたちハッコオイ族には……』という言葉で、ほとんど確信していた。彼女が何かしらの力を使ってキヒュームを助けてくれた……。それは紛れもなく事実であろう。
「ま、何はともあれ、何度も言うけど、無事で本当に良かったよ。僕の濡れ衣も晴れたわけだしね」
「ほんと、良かったよ。アタシらの努力が報われたってもんだい。それに、クルダマオ族が復活計画を立てていると言うことが日の目に晒されたのも、最高に気分がいいね」
ドリュウルがニッとイタズラっぽく笑った。ラクビースとドリュウルは先ほど、キヒュームが眠っている時に起こったことを端的に説明してくれたのだ。
ドリュウルとラクビースの二人が走って廃墟を出た後、しばらく爆発は起こらなかった。キヒュームがゲニーンドルとやり取りをすることで、爆発するまでの猶予ができたのだろう。そして、爆発が起こった後の街の対応は早かった。
彼ら二人は当事者として、特にドリュウルは警備隊員に通報した者として、ブランダミグマ警視庁に赴き、事情聴取を受けたそうだ。最初は二人の話を信じていなかった刑事たちも、警備隊員の証言、闇オークションに参加し、爆破寸前で逃げ切ることのできた者の証言、廃墟から出てきたいくつものクルダマオ族の死骸を根拠に、二人の言い分を信じてくれたらしい。
「いやぁ、でも、本当にギリギリだったんだよ? 闇オークション参加の奴らは、非合法売買の罪が暴かれてしまうってんで、全然証言してくれなかったんだ。結局、人間族が作った自白剤を使って、自供させたらしい。アイツら、高みの見物なんてしてないで、騒ぎが起こったときにさっさと逃げちまえば良かったって後悔してたよ。まったく、そんなこと後悔してないで、闇オークションに参加したことに後悔しろって話だよねぇ」
ドリュウルは豪快にため息を吐きながら、憤慨していた。
「だけど、おかしくないか? あの場所で起きたことについては話せないように魔術がかかってるんじゃなかったっけ」
「あれ、キヒュームくんは知らないの?」
「何を?」
キヒュームの体が前のめりになる。ほとんど食い気味に尋ねていた。
「魔術が解ける方法が三つあること」
「そんな方はあったか?」
「あるんだ。一つは、魔術をかけた者が、その魔術を解くこと。二つ目は、魔術を解くための反魔術をかけるか、反作用のある薬を飲むこと。最後に、魔術をかけた者が、死ぬことだ」
「ちょいちょい、キヒュームくん、なんで知らないんでちゅか? これ、前学期に授業でやりまちたよね?」
ドリュウルがバカにしたように笑い、キヒュームは睨み返した。
「うるさいな。座学は苦手なんだよ。それに、今、ラクビースに言われて、思い出したし……」
「と、に、か、く」
ラクビースはベッドを両手で軽く叩き、二人の視線を集めた。
「あの爆発で大半のクルダマオ族は死に、計画の資料は燃やされてしまった。だけど、彼らが亡き今、オークション参加者にかけられた術は解け、人身売買されそうだったアイレーンさんは解放され、僕にかけられていた窃盗容疑も晴れ、僕が着々と集めていたクルダマオ族復活計画の資料を元に、国が反逆の意思のあるクルダマオ族の残党を一網打尽にする計画を立て始めた……。つまり、僕たちの小さな冒険はこれで一件落着、ハッピーエンドだ」
ラクビースの表情はびっくりするほど晴れやかだった。彼はクシャッと笑うことができる少年なのだ。それに、彼は笑うと真剣な時よりも幾分も幼く見えた。リスのケモタリア族なだけあって、小動物のように(まさに小動物なのだが)愛らしい。
「そういうわけでさ、キヒュームくんはなにも心配せずにゆっくり休みなよ」
ラクビースの視線が横に移る。視線の先には警察と看護師がいた。ドア越しにコチラを覗いている。
「そうだね。どうせ明日になったらキヒュームも重要参考人として警備隊に取り調べられることになるんだから、今日くらいはゆっくり休んだらいいさ。監視付きとはいえ、国がこぉーんなに大層な個室をアンタのために用意してくれたんだ。この環境を満喫しなきゃ損だよ」
ドリュウルも屈託のない笑顔になった。
キヒュームは頷く。今は、彼らの好意に甘えよう。爆発が起きてからそう時間は経っていない。おそらく二、三時間といったところだろうか。今はほとんど深夜だ。二人の様子が知りたいというキヒュームの無理な要望を国は聞いてくれたのだ。現場にいた多くの者の証言から、キヒュームとラクビースとドリュウルはクルダマオ族の悪行を暴いた英雄、となっているらしい。
だからこそ、キヒュームのいる病院は国立病院であったし、その中の一番上等な個室にキヒュームはいた。まるでホテルの一室にあるような重厚な茶色の絨毯に、これまたホテルにあるようなエレガントな猫脚が特徴的なデスクとチェア、ラクビースが腰掛けている焦茶色のソファーもまたクラシカルで落ち着いたお高そうなものだった。
二人と会えてよかった。二人の安否がわかってよかった。
キヒュームは胸を撫で下ろす。
警備隊員たちの急かすような視線をまじまじと感じる。しかし、嫌な気持ちはしなかった。彼らは無理を聞いてくれたのだ。欲を言えば、両親にも会いたかったが、そこまで望むのは高望みというやつだろう。ちらりとドリュウルとラクビースを見る。二人とも笑ってはいるが、目の下に大きな隈が見える。ドリュウルもラクビースも大きな戦いに巻き込まれていたのだ。疲れていないはずがない。彼らも眠いはずなのに、わざわざキヒュームに会いにきてくれた。ここにいるみんなに感謝だ。感謝しかない。
「二人とも、ありがとな。また、明日」
キヒュームはベッドの上から、笑顔で二人を見送る。ドリュウルとラクビースが警備隊員に付き添われ、病室を出た。入れ替わるように入ってきたハッコオイ族の看護師が、キヒュームにニコリと声をかけてから、胸元に優しく手を置く。そこからじんわりと心地の良い温かさが広がってきた。
意識がどんどんと遠くなっていく。
キヒュームはそれに抗わなかった。心の臓が小さく鼓動を打っている。音が聞こえる。目を閉じ、その音に集中する。それはゲニーンドルの声だった。
——このオークションは、広大な海からコップ一杯分を取り除いた程度の資金調達に過ぎない。ここでの出来事が失敗しようが、痛くも痒くもないんですよ。
先ほど、本当に先ほど、聞いたゲニーンドルの声だ。死を覚悟したゲニーンドルが発したハッタリだ。
……本当にハッタリか?
それにしてはヤケに堂々としていなかったか。彼の話がハッタリだという根拠はどこにある。クルダマオ族が大々的に復活計画を企ているなど、俄かに信じがたい、奇妙で不気味な話だ。しかし、現に闇オークションは存在していたじゃないか。現にクルダマオ族が復活するための資金を集めているとラクビースに聞いたじゃないか。
もし仮に、ゲニーンドルの言うとおり、闇オークションが広大な海の一杯のコップの水だったとして、それが意味することとは一体なんだ。
目を瞑ったまま、唾を飲み下す。喉の奥が鈍く疼いた。
そんなわけない。そんなことできるわけがない。国の発展のために利用しているクルダマオ族には厳しい監視体制が敷かれている。彼らに反旗を翻すことなど、できるわけがないのだ。
考えすぎだ。いくらなんでも……。
——私たちの信念は死にません。私たちの志は復活したクルダマオ族の心に残り続けるのです。
ゲニーンドルはそう言った。
信念ってなんだ。
私たちの志とは一体なんだ。
誰も知らないだけで、本当は水面下で何かが動いてるんじゃないのか……。
その時、地面が動いた。気のせいではなく、本当に動いた。
地震だ。それもかなり大きな地震だ。わかっているのに目が開かない。体が動かない。
キリュームは体を起こすために、腹に力を込めた。けれど、やはり無駄だった。微塵も体は動いてくれないのだ。次第に辺りが騒がしくなってくる。誰かが誰かに指示を出す強い声と、言葉にならない叫び声が、キヒュームの中にこだまする。
早く目覚めなければ、とわかっているのに、体が言うことを聞いてくれない。焦りだけが募っていく。
「……もし、……もし?」
デジャヴが起こった。山の麓の湧水のように清らかな声がキヒュームに語りかけてくる。
「あぁ、いけない。深い睡眠魔術がかけられている……。誰か、誰かおりま……せ……、んか……。ここに、人が……いる。……おい、そこの看護師、何をしているんだ! 反魔術をかけるか、眠気覚ましの薬を持って来い!」
声が徐々に美しい高音からドスの効いた恐ろしい低音に変わる。
不意に、腕にちくりとした痛みを感じた。揺れ動く混沌とした意識が統合されていくのを感じる。
キヒュームは目を開け、数上瞬きをした。
「こ、これは……、一体」
「説明は後だ。今はこの病院から出るんだ」
目の前には、いると信じていたハッコオイ族の美少女アイレーンではなく、赤色の鱗を持つ屈強なドラガンシア族の男がいた。彼はほとんど抱っこする形でキヒュームを抱え込む。肩越しに大きな鱗付きの尻尾をゆったりと揺れているのが見えた。
「すまんな、坊主。本当はもう少し寝かせてやりたかったんだが、事情が変わった。……各地にいるクルダマオ族の連中が、武装蜂起してきたんだ」
視界がぐらりと揺れる。
病院の廊下をさまざまな者たちが駆けていく。叱る者は誰もいない。病院独特の薬の匂いがそこに交じる。
警備の者から聞いた話も、ラクビースが言っていた話も、ゲニーンドルが声高に宣言した話も、これから血に塗られた何かが起こると予感させられる。今までの安らかで穏やかな暮らしとは程遠い禍々しい何かがこれから起こる。
何事もなく享受していた平和が崩れ落ちていく。
キヒュームは警備の者の胸の中でうっすらと汗をかいていた。




