第2章 闇オークション(7)
キヒュームは走った。
彼女はどこにいるのだろう。この建物はいつ爆破されてしまうのだろう。俺の運命はあんな姑息なクルダマオ族に握られている。悔しい。憎い。今すぐにでも殺してやりたい。心に燻っていたクルダマオ族に対する澱みが押し流される。
キヒュームは首を振った。
「そんなことを考えている場合ではない」
「そこに、誰か? 誰かいるのですか? 誰かいるのなら、答えてください。お願いします。どうか、どうか……」
「います! ここに、います!」
キヒュームは出せるだけの声を出して叫んだ。
「あぁ……、いらっしゃるのですね。これも、神の思し召し……。そこの貴方様、どうか、教えてください。今、どうなっているのですか。わたくし、何も知らずにここに連れてこられましたの。海の中で揺蕩っていたら、突然、袋を被せられまして……それで」
「ごめん。今は話している暇がないんだ。僕たちは今すぐここを出なくてはいけない」
「貴方様がわたくしを、ここから出してくださるのですか……?」
キヒュームの歩みが止まる。舞台の一番奥、ほとんど出入り口の側に探し物はあった。その女性は第一印象に違わず、儚く美しい。
「わたくしを、出してくださるのですか?」
「あ……、あぁ。もちろん」
彼女を前にしてキヒュームは一瞬、思考が止まってしまった。彼女の澄んだ青い目が、キヒュームを捉え、思考を促す。
そうだ。彼女の美しさに目を奪われている場合ではない。彼女を救い出さなければ。でも、どうやって? きっと、この檻はクルダマオ族の魔術が幾重にもかかっていることは想像に難くない。檻の鍵は持っていない。では、どうしたらいいのだろう。
キヒュームが檻の扉に掛かっている錠に拳銃を向けた時、緞帳が揺れる音を聞いた。キヒュームは振り返る。そこには灰白い面があった。
「錠の鍵を渡すのを忘れていましてね。私は、親切ですので、届けに参りましたよ。さっ、どうぞ、お受け取りください。……そんなに睨みつけて、警戒しているのです? まったく、人間族というものは用心深いですね。ほら、なんの細工もしてませんよ。受け取りなさい」
ゲニーンドルの手から離れた鍵が、弧を描き、キヒュームの手のひらに着地する。
キヒュームは迷った。この鍵を使っていいものだろうか。だが、クルダマオ族の魔術がかかっているであろう錠を銃で撃ったところで、開くことはないだろう。そう、実際のところ、キヒュームにはこの鍵を使う他、選択肢がないのだ。
キヒュームは警戒しながら、キーヘッドか歯車の形をした古びた鍵を錠に差し込む。キーウェイもまた、小さな歯車がいくつも重なり合った形になっており、複雑な形状であった。ゆっくりと、鍵を回す。歯車がカタカタと音を立て、呻いた。そして、瞬く間に錠が、ぼとり、と床に落下する。
女性は涙でいっぱいの青色の目を見開き、口元を手で覆い隠している。
「ささ、彼女の鎖も解いてやりなさい。同じ鍵で解けますから」
キヒュームはゲニーンドルの指示に従うのは不服だったが、この鍵が彼女自由にできる唯一のモノであることは確かだ。
彼女を助ける前にこの男を仕留めてやろうか。
心にそんな想いがよぎる。しかし、先ほど戦っても互角……いや、ラクビースの援護がない今、ゲニーンドルの力はキヒュームよりも数段上だろう。
仕方がない。彼女を助けることを優先しよう。
キヒュームは檻に入り、彼女の手足に付いている枷を外す。その瞬間、ガシャンッという大きな音が鳴った。枷が落ちた音ではない。ゲニーンドルが檻の鉄格子の扉を閉めたのだ。
「おい、何してるんだ!」
「いえ、不用意に扉が開いていたので、閉めさせていただいただけですよ。……そうです。その顔が見たかったのです、私は、その顔が!」
ゲニーンドルの言葉に、キヒュームは苛立ちを隠せなかった。ただでさえ、いやらしさ口調と出立ちなのに、ゲニーンドルの恍惚とした表情と、いつもよりやや高い声が、いやらしさを助長していた。
「私は誰よりも人間族が憎い。私は死ぬ。けれども、人間族の貴方も道連れにすることができる。貴方の絶望と死に顔を拝んで死ぬことができる。あぁ。こんなに素晴らしいことはこの世に存在しない」
「まぁ、まぁ……! 一体このお方は何を言っているの?」
震える声で女性が尋ねた。キヒュームは何も答えない。一瞬の沈黙を破ったのは、ゲニーンドルの低い声だった。
「さぁ、共に死のう。案外、死は苦しくないかもしれないぞ」
束の間、眩い光が辺りを覆った。光は驚くほど温かい。視界は辺り一面まっ白になり、この世界から一切の闇が消えた。
まるで時が止まったようだった。けれども、時は止まらない。止まるわけがないのだ。
衝撃が身体中に走る。痛いと感じる間もなかった。キヒュームは光から闇へと転じる。世界が暗闇に閉ざされた。
「もし……? もし……? 聞こえて、おりますか? もし?」
声がする。心地よく晴れた風もなく穏やかな月の明かりのような声だ。綺麗に透き通る声だった。ふと、おでこに冷たい何かが当たっている。心地がいい。このままもう一眠りしてしまいたい。
「起きてください。わたくし、まだ助けていただいたお礼も言えていません。どうか、目を覚ましてくださいまし」
懇願するような言葉に、キヒュームはゆっくりと思い瞼を持ち上げる。切なげに揺れる声を無視してまで寝ようとは、思えなかったのだ。
「あぁ! 貴方様……! よかった……お目覚めになられたのですね。本当に……よかった」
キヒュームが目を開けるなり、涙を携えた美しい顔が破顔した。ポタポタとキヒュームの顔に、大粒の涙が落ちる。
「き、きみは……?」
「わたくし、アイレーンと申します。貴方様が助けてくださったハッコオイ族の女です。覚えておいでですか……?」
アイレーンの美しい瞳が、キヒュームの顔を覗き込む。ドクッ、ドクッ、と心臓が脈を打つのが聞こえた。
「覚えてるよ。覚えてるさ。……つまり、俺たちは助かったんだね?」
「ええ、そうです。わたくしたち、助かったのです」
舞台で絶望し切った顔をしていた女性だとはとても思えないほど、柔らかな笑みだった。また心臓の脈が大きく打つ。そのとき、キヒュームはアイレーンの膝の上に頭を乗せ、横たわっていたことに気がついた。
「うわっ……! ごめんなさい! 俺、君の上に……! その!」
キヒュームは蜂に頭を刺されたかのように、彼女の膝から飛び退いた。
「いってぇ……。なんか、頭がグラグラする……」
「あぁ……。そんな突然体を起こしてはダメですよ。わたくしの治癒の術で貴方様の傷を治したとはいえ、貴方様は爆音を間近で聞いて平衡感覚を失っているのですから。ハッコオイ族の治癒力は確かに強靭ですが、全て完璧に治癒させるわけではないのです」
心配そうに口を尖らせるアイレーンは、女性というよりも、少女のようだった。その姿に頬が紅潮するのがわかる。ハッコオイ族は人を魅了し、惑わす力も持っているんじゃないか? むろん、ハッコオイ族にそんな力がないことは、学園でハッコオイ族と共に勉強しているキヒュームはよく知っていた。
「君が俺を助けてくれたんだね。どうもありがとう」
キヒュームは頭を下げる。頭を上げたとき、目にした世界にキヒュームは激しい目眩を覚えた。このとき初めて、辺りに何も障害がないことに、キヒュームは気がついたのだ。
真っ暗な夜空に瞬く星々、ブランダミグマまで続く穏やかな丘陵、足元に広がる崩れ落ちた建物の無数の瓦礫たち……。キヒュームたちはその瓦礫の山の上にいた。
爆破の衝撃で壊れたのだろうか。すでに檻も廃墟も跡形もなく消え去っていたのである。
キヒュームは座ったまま、後退る。小さな瓦礫がパラパラと崩れ落ちた。
「こ、これは……」
「クルダマオ族の方達は、建物内に爆発物を仕込んでいたみたいです。……いえ、誤魔化すのはよくありませんね。最後に貴方の前にいた男性が自分自身を起爆剤にして、破裂魔法をかけたのです。彼が自爆、したのですよ……。他者を殺すことも重罪ですが、自分で自分を殺すことも殺人です。重罪です。なのに……。あぁ、クルダマオ族はなんて野蛮なのかしら……」
アイレーンは目を伏せて、低い声で言った。キヒュームは顎を引く。
「彼は俺たちの前で爆発したってこと……か?」
キヒュームに向かって、アイレーンがうなずく。
「ええ……。実のところ、わたくしはその瞬間を見てはいません。けれど、魔力の流れは感じられます。あの爆発は間違いなく、彼が、彼自身が引き起こした物です」
「そんなに近くで爆発したのに、どうして俺と君は、助かったんだ? ハッコオイ族の治癒力は人間族の医術なんぞ足元にも及ばないほどすごいことは知っている。でも、目の前で爆発されては、俺も、君も、バラバラになってもおかしくなかったんじゃないか?」
「その通りです。その通りなんですが……。実はわたくしたちハッコオイ族には……」
「おーーーい! 誰かいるかぁー? 救援に来たぞぉ! 生きている者がいたら、返事をしてくれぇ!」
アイレーンの凛と澄んだ声が、男の叫び声で途切れる。
話の続きを聞きたかった。けれど、まずはアイレーンの救護が先だ。
キヒュームは、着物の袂から覗く彼女の腕の模様が、血が脈打つように赤々と揺らぎ、震えていることに気がついてしまったのだ。
水の流れる様子を線で描いた流水文様と呼ばれるその模様は、ハッコオイ族特有のものだ。彼女の場合、流水文様と一緒に梅の花と筏が刻まれている。一見、人間族が好んで彫る刺青に見えるそれは、魔力を持つものだけに刻まれる神聖な印であった。印は体内に巡る魔力の指数を表しているのだ。
魔力がなみなみと体に充満しているとき、模様は美しい色彩を持つ。その色も模様も個によって違うため、何色に煌めくとか、なんの模様が刻まれているとか、一概には言えない。しかし、一つだけ、この模様に共通していることがある。魔力が体内から抜け落ち、不足している時は、模様が血の色に染まるのだ。美しい赤ではなく、黒々とした不吉な黒紅色に変わってしまう。
魔力の枯渇は魔力を持つ者にとって重要な問題だった。魔力が枯渇し切った時、その者は死に絶えてしまうという。故に彼らは普段、模様の見える部分を隠して生活している。アイリーンは着物の袖で自身の腕を隠していたように、だ。
今、アイリーンの腕の模様は血生臭さを感じるほど生々しい紅に染まっている。平然としているが、彼女ははほとんど瀕死状態なのだ。
「ここでーーーす! ここにいまぁーーーす! ハッコオイ族の女性と、一緒にいまぁーす!」
キヒュームは体全部を使って、思いっきり叫んだ。アイレーンがびくりと肩を震わせている。さすがに大きい声を出しすぎたと気づき、身を竦めた。頬がボワっと熱を持つ。
「いま、助けに行くぞー! 魔法を使えたら、何か印をあげてくれー!」
男が叫ぶ。
困った。キヒュームは魔法が使えない。そういえばと思い、手元を見るも、最新型拳銃は跡形もなかった。
アイレーンがゆるりと、足を震わせて立ち上がる。
「ここは、わたくしが……」
ダメだ、と言う間もなく、アイリーンは指先を夜空に向けて、水鉄砲のような細い線を放った。月に照らされ、肌が煌々と艶めき、青白い肌が蜃気楼のように揺れる。キヒュームの頬はさらに熱くなった。
彼女に魔力を使わせたらダメだと心の中ではわかっている。わかっているのに、目が離せない。このまま彼女が消えてしまう瞬間を見てみたい。か細い彼女の全てを目に焼き付け、このまま一緒に消えてしまいたい……。
そう思ってしまった。なんて利己的な考え方なのだろう。こんなことを考えるなんて、アイレーンを売買しようとしていた奴らと同じだ。恥ずかしさが込み上げてくる。
自分のどうしようもなく残虐な思想に気がついてしまい、キヒュームはアイレーンから目を逸らす。キヒュームは救助隊に救援を呼ぶ声を張り上げる他できなかった。




