第0章 プロローグ
月は見えない。星も見えない。
音はないし、雲もなければ風もない。
五感で感じることができるすべてのものがここには存在しない。
真っ暗な暗闇だけがそこにある。
程なくして、また失敗したことに気がついた。それもかなりでかい失敗だ。私は息を吐き出し、前髪を掻き上げた。
死んだ彼らは決してため息をつかない人たちだった。敵に敗れようとも、正義が捻じ曲げられようとも、不条理に犯されよとも、決して嘆息はこぼさない。歯を食いしばるのだ。俯くことを知らない顔をギュッと引き締めて。
なんて薄っぺらいのだろうと思った。
闇を知ることがない彼らが、薄っぺらく見えてたまらなかった。
彼らはネガティブな感情に苛まれることの苦しみを知らないんだろうか。
私の心に彼らへの軽蔑と憤怒の色が浮かんだものだ。
なのに、今になって思えば、彼らへの感情も無意味だったことに気付かされる。憎んでいた彼らはもういない。
彼らに倣って、私も前を向いてみる。眼前に広がるのは、無そのものだった。わずかな光もない、黒い世界だ。
「また、お前か」
天から声が注がれる。無機質で男か女か判別できない声だった。
「いい加減、悪側に肩入れするのをやめろと言っているだろう」
何度も失敗している私を、無機質な声は責め立てているのだ。だって耐えられなかったんですと、私は答え、続けた。
「注意するくらいならこんな無能な部下、さっさと解雇したらいいのに」
声の主は私の直属の上司だった。何度も何度も話しかけられているが、直接会ったことはない。名前も知らなければ、男か女かも知らない。もっとも、知る必要も感じなければ、知りたいとも思ってないのだが。
「そういうわけにもいかないのだ。解雇するにもそれ相応の正当な理由がいる。【無能】というだけでは、解雇できないのだよ。それに」
「それに?」
大きなため息をわざとらしく吐くと、上司は先ほどよりも強めの物言いをした。
「今はどこも人手不足だ。お前のような【無能】ですら惜しい」
「なら、もうちょっとマシな部署に配属してくれればいいのに。希望の光である勇者様がいて、闇の支配者である魔王がいて……。私が構築しなければいけない世界がそんな世界ばっかりだから、私が暴走しちゃうんですよ」
「わがままを言うな。部署を変えることが不可能なことぐらい、お前にもわかってるだろう」
上司の口調の鋭利さが増す。
「私たちの担当は【RPG部】なのだ。私たちのような粗末な存在が、簡単に担当部署を変更することはできぬ」
上司の素性はよく知らない。だけど、この上司もまた私と同じように、RPG部門をよく思っていないのは明らかだった。ゲーム担当、というところまではいい。なんせゲームという存在は数多くの人たちを魅了し、夢中にさせてきた。その作品の【神】として、ゲーム世界を構築できるなんて願ってもない幸福だ。
だけど、どうしてRPG部なんだ。
RPGなんて、ソーシャルゲームでもコンシューマーゲームでもVRでも、シリーズものでなければ、今どき流行らない。流行らない割に、RPGは飽和状態な上、制作コストも時間もかかる。かなりコスパが悪い。今後お先真っ暗なRPG部門を担当するくらいなら、パズル部門を担当したほうが何億倍もマシだ。
日々衰退していくRPG業界に焦り、苛立つ上司の気持ちはよくわかる。
お互い苦労してますね。こんな部署、さっさと異動したいですよね。
言いたかったけれど、やめた。上司相手に嫌味を言っても私には一ミリも得にならない。暴れても、泣いても、叫んでも現状は何も変わらないのだ。【創造神】のように娯楽を享受できるわけでも、働かなくてよくなるわけでもない。むしろ、不満を一度口にしてしまったら気分はさらに悪化し、【創造神】に憎しみの心を向けてしまう。
ともかく、今日のところは休みたい。さっきまで働き詰めだったのだ。
私が眠りにつこうと意識を落としかけたとき、一筋の光が見えた。濃く、はっきりと、闇をも飲み込む存在感溢れる力強い明かりだ。天から地まで一直線に伸びている。
あの光を私はよく知っていた。あの光の中には扉がある。次のRPG世界をプログラムし、世界を構築するための扉だ。あの扉を潜り抜けたら、私はたった一人で新たなRPGの世界を作り上げなければいけない。
私も上司を口をつぐんでいた。この虚空間に【肉体】を持って存在しているのは私だけだった。となれば、扉は私を誘っているものなのだろう。
たった今、仕事を終え、帰ってきたというのに、また仕事、というわけか。ゲーム業界は噂に違わずブラック過ぎる。
光が強くなる。閉まっていた扉が開く音がした。
「さぁ、仕事だ」
上司の冷め切った声が降ってきた。
「今度は失敗するんじゃないぞ」
「また失敗したら、どうしますか。今度こそ、解雇ですか」
「解雇はしない。人手不足だ。ただ、そろそろそれ相応の罰を受けてもらおうと思う。たとえば、今日のように一瞬の暇も許さない……とかな」
上司の脅すような口調に、思わず舌打ちをした。今のこの状況はこのクソ上司が作ったものなのか。
「……わかりました。失敗しないよう善処します」
「話が早くて助かるよ。今度こそ、勇者が魔王を倒し、【真】のエンディングがある世界を創造してくれ」
上司の気配が消えた。闇の中を音もなく消えていく上司はまるで魔王のようだな、などというバカげた思考が巡る。
「やるしかないか」
誰もいない空間に私の声がこだまする。
「私は【神】であり、RPGの世界を構築するための【道具】。私の仕事は【善の者】に幾つかの困難を与え、そして、【悪の者】を倒させること。……ただそれだけ。それ以外は何も要らない。ちょっとした意外性を入れて、予定調和に作るだけ。簡単な仕事。簡単な……」
私の口語が悩ましげに揺れた。それができたら苦労はしない。どうにも私は【神】にしては自我が強すぎる。ついつい【悪の者】に肩入れしすぎてしまう。
扉の光がひときわ、強くなった。このままじゃ眩しくて目が開けられなくなってしまう。
私は空を仰いだ。
黒い闇が延々と続いている。
これから先、ずっとこうなのだろうか。
頭の奥が疼いて騒ぐ。
こうやって、新しい世界を構築しては、また新たな世界を構築する。【善】を作り、【悪】を蔓延らせ、陳腐な物語を紡ぐ。こんな人生がいつまで続くのか。いつまで続けるのか。
身体中が熱を持った。早く仕事に取り掛かれ、と私が私自身に命令している。
前々回の世界は割と理想的な世界だった。勇者が何度も何度も世界をやり直し、世界が滅びる運命を救うループモノのRPGだ。勇者は腕のいい剣士で、誰も彼もが憧れる頼もしい男だった。前回の世界のせいで、彼の面体は朧になってしまったのに、理不尽な憎しみや苦しみに立ち向かう姿、絶望の中で彼が見出す陽だまりのように暖かな希望、過酷な人生を生き抜いてきた彼の信念の強さはむしろ、鮮やかになっていく。
彼の強さを思い出すたびに、黒幕である魔王の苦難も、目の前がチカチカ光るほど鮮明に浮かんできた。そう、勇者が魔王を倒すために切磋琢磨している頃、私は魔王の闇深さに惹かれていったのだ。愚かな戦争を繰り返す人類に絶望をし、格差や差別に心を痛め、このような世界が蔓延するくらいならと、自分の手でこの無慈悲な世界を終わらせようとしていた誇り高き魔王。そう、そうだった。いつだって私は、光よりも闇に惹かれてしまうのだ。挫折しても直向きに頑張れる強さを、絶望に打ち勝つことができる信念の強度を、私は信じていなかった。
眩く、熱い、白い光が私の前に座っている。
光の扉はこれほどまでに美しいのに、私を傷つけ、痛めつける。早く、早く新たな物語を紡がなければ、と私の本能がうるさく騒ぐ。
そうだ、前々回の主人公は私に似ていたのだ。理不尽で変えられない過去、何度も何度も同じことを繰り返し続けなければならない今、もがいてもがいても変えられない未来、そして、それに立ち向か和なければいけない使命を背負っている……。
私は我知らず胸元を押さえていた。同じなのに全然違うと呟いていた。彼は運命に抗い続け、私は早々に戦うのをやめた。私を含めた大抵の者は諦めない強靭な心など持ち合わせていない。だから、諦めるのも仕方がない。
肩甲骨のあたりから光が弾け、私の体を前へと押し進める。
行かなくちゃ。歯車でしかない私には選択肢なんて存在しないんだから。
深い闇の中を自分の意思で歩く。虚空間での束の間の休息、善のことも悪のことも、プログラミングのこともシナリオのことも、何も考えずに寝たかった。けれど、闇は私を追い出し、光が私を誘う。本当に光というのはタチが悪く、厄介だ。闇は休息をもたらすが、光は行動を駆り立て生物を疲れさせる。闇に生きる者にとって、光は劇物にしかならないのだ。そうわかっているのに、私は創造主の意向をくんで光の物語を紡ぐ弱虫だ。私は上司にも創造主にも逆らえない。
だって、消えたくないから。
私は、足を止めた。
眼前には扉がある。
何か、いい考えが浮かんだ気がする。
何かとても……とても……私の未来を変えることのできる何か……。
扉から発せられる光を凝視する。
目に痛みが走る。
忘れてしまった? とてもいいアイデアだと思ったのに。
空気が揺れた。半開きの光の扉がひとりでに全開に開く。そして、扉から漏れ出た光が私を包み込んだ。
あぁ、そうか。そうだったんだ。
最初から、そうすればよかったんだ。どうして思いつかなかったんだろう。
あぁ。これまでいくつもの世界を創ったのに、そのすべてを無駄にしてしまっていた。
浮かんできた妙案に私は笑っていた。実験的で、新しい試みに、【創造神】はびっくりされるだろうか。しかし、その意外性もまたゲームの醍醐味だ。上手くやれば、その仕事ぶりを評価され、大嫌いなRPG部から異動になるかもしれない。二度と陳腐な物語を生成しなくてよくなるかもしれない。砂漠の中で一粒のダイヤを探すよりも虚しい妄想ではあっても、これまでと同じようにやるよりは幾分もマシなはずだ。
私は大きく両手を広げ、新たな世界を祝福しながら扉の中へ入った。
無数の光が降り注ぐ。
暖かな光に私は融け、世界に染み込んでいく。
私の体は勇者のパーティーに加入する一人のキャラクターへと変容したのである。
*
世界は見事に晴れ上がっていた。
太陽の光が降り注ぎ、草木や土を光り輝かせ、小さな城下町はこれから始まる希望の物語に胸を躍らせているかのような、艶やかな朝を迎えた。
彼の人が朝日に晒され、横たわっている。
彼の人が目を開けると眼に光が差し込む。目の前に小さな虫が土を踏み締めて歩きている。彼の人が動くと同時に虫は逃げるように走り去った。
彼の人は起き上がる。
目をぱちくりし、辺りの状況と自身の姿をしきりに確認している。己の姿に喫驚し、そして、嘲笑を浮かべているかのような表情だった。
一通り確認し終えた彼の人は胸に手を当てると、大きく深呼吸をした。
彼の人の暗みのある目つきが、城下町を捕える。
道を歩く住民は誰も彼の人を気にしていない。無表情で、淡々と自身の仕事をこなしている。
「これで勇者に肩入れできるようになるだろうか」
清涼な空気に似つかわしくない虚な声が、物語の始まりの合図を告げた。




