第8話
車の中。社長と二人きり。密室。気まずい。
助手席に座らされたときから、ずっと心臓の音がうるさい。
後部座席に座るつもりだった。
でも、彼は当然のように助手席のドアを開けた。
まるで、私がそこに座るのが当然だと言わんばかりに。
そして、心の準備もないまま、彼の隣に座ることになった。
ベルトをつけようとしたら、彼が手を伸ばしてきて、カチリと留めてくれた。
その一瞬、彼の指先が私の肩に触れた。
近すぎる。けれど、嫌じゃなかった。
むしろ、心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
彼に気づかれないように、必死で平静を装った。
彼との距離が近すぎて、息をするのも気を使ってしまう。
それなのに、彼は何も気にしていないように、穏やかな顔で運転している。
その余裕が、少しだけ悔しかった。
私だけが勝手に緊張して、勝手に意識して、勝手に揺れている。
そんな自分が、嫌だった。
車内は静かだった。
お互い無言で、ただ時間だけが流れていた。
高級車だけあって、座り心地は良かった。
けれど、心は落ち着かなかった。
肩には彼がかけてくれたジャケット。
洗って返すべきかと考えたが、そんなことをしたらまた会う口実を作ってしまう。
社長とはもう会わないと、さっき誓ったばかりなのに。
誰かに期待することは、全部無意味で。
そもそも、私は幸せになっていい人間じゃない。
そう思っていたのに─────
そのとき、車が急ブレーキで止まった。
信号無視した自転車が突然飛び出してきて、車が急停止した。
驚いて前のめりになった私を、彼の腕が庇うように伸びてきた。
たくましい腕が、私の胸の前でしっかりと支えてくれた。
その瞬間、守られていると感じた。
誰かに守られるなんて、あの日から一度も…。
「ごめんね。びっくりしたよね。どこか怪我したところはない?」
悪いのは自転車なのに、彼は私を気遣ってくれる。
その優しさが、また胸を締めつける。
「…大丈夫」
声が少しだけ震えた。
彼の腕の温もりが、まだ残っていた。
その温もりが、私の中に静かに染み込んでいく。
拒絶する理由を、必死に探した。
「良かった」
彼は、ほっとしたように笑った。
その笑顔が、眩しくて、目を逸らした。
「ところで、どうしてさっきからタメ口なわけ?」
本当は、ただ聞きたかっただけじゃない。
この気持ちを、少しでも誤魔化したかった。
彼との距離が近づいていくことに、ブレーキをかけたかった。
でも、声に出した瞬間、後悔した。
まるで、彼の優しさを拒絶するような言い方になってしまったから。
本当は、そうすることが正解なのに。
「バレたか」
彼は笑いながらそう言った。
その笑顔が、あまりにも無防備で、私の心の中に、またひとつ波紋を広げた。
「隠す気なんてさらさらなかったくせに」
思わずそう返してしまった。
彼の態度が、あまりにも堂々としていて、私の警戒心を簡単に崩してくるから。
「だって、俺の方が年上でしょ?それなのに敬語使うのはおかしくない?」
彼の言葉には、壁を壊す力がある。
私が築いてきた“誰にも踏み込ませない”という壁を、彼は簡単に越えてくる。
「どうして年齢を、」
戸惑いが声に出た。
彼が私の年齢を知っていることに驚いた。
私は、お見合い相手が社長ということすら知らなかったのに。
「それぐらいは知ってるよ」
彼はさらりと言った。
…それもそうか。
普通はお見合い相手の容姿や名前、年齢ぐらいは知っているはずだ。
知らなかった私の方がおかしい。
「俺のこと名前で呼んでくれない?」
その言葉が、あまりにも距離を縮めるもので、思わず息を呑んだ。
名前で呼ぶなんて、近すぎる。
それを許してしまったら、もう戻れなくなる気がした。
彼との距離が、どんどん近づいていく。
それが怖かった。
名前を呼ぶことで、彼との関係が“特別”になってしまう気がして。
私は、彼にとって特別な存在になってはいけない。
「…嫌よ」
拒絶するしかなかった。
これ以上、彼に踏み込まれたら、私はきっと壊れてしまう。
だから、突き放すしかなかった。
「そっか、」
彼の横顔が、少しだけ悲しそうだった。
その表情に、胸が痛んだ。
それなのに、何も言えなかった。
謝ることも、言い直すこともできなかった。
名前なんて、私たちの関係には必要ない。
今日でもう終わる関係なのだから。
そう言い聞かせながら、ジャケットの裾を握りしめた。
車が静かに止まった。
私の家の前だった。
エンジンの音が消え、車内に静寂が戻る。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
この静けさが、終わりを告げているようで怖かった。
まるで、夢から覚める直前のような感覚。
現実が、すぐそこまで迫っている。
いつの間に、こんなにも時間が経っていたのだろう。
窓の外には、見慣れた街灯と、見慣れた玄関。
でも、今はどこか違って見えた。
彼と過ごしたこの時間が、私の世界を少しだけ変えてしまったから。
ほんの少しだけ、色がついてしまったから。
このまま別れを告げたら、もう────
「俺のことが嫌いじゃないのなら、また会ってくれませんか?」




