第7話
電話を切ったあと、社長は軽く頭をかきあげた。
その仕草があまりにも自然で、まるで映画のワンシーンみたいだった。
けれど、彼の表情にはわずかな緊張が走っていて、事態が深刻なのだとすぐに分かった。
穏やかな彼が、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
何があったのか、聞いてはいけない気もしたけれど、黙っていることもできなかった。
「何かあったみたいね」
そう声をかけると、彼はふっと表情を緩めて、またさっきの優しい彼に戻った。
その変化に、少しだけ安心した。
「心配してくれてるの?」
彼が少しだけ嬉しそうに笑って、私の顔を覗き込む。
その笑顔に胸がきゅっと締めつけられた。
ああ、まただ。
彼はいつも、私の心の隙間にするりと入り込んでくる。
その笑顔が、私の強がりを簡単に崩してしまう。
心配なんてしてない。そう言いたいのに。
彼の目を見ていると、嘘がつけなくなりそうで怖かった。
「別に、そんなんじゃないわよ」
強く言い返したけれど、心の中では否定できなかった。
もちろん心配している。
ずっと気にはなっていた。
夜遅くまで残業して帰る途中、会社の玄関を出てすぐの場所で、私はいつも立ち止まってしまう。
見上げる先は、ビルの最上階。
社長室の窓に灯る明かりだった。
その明かりはいつも点いていた。
誰もいないはずの時間に、そこだけがぽつんと光っている。
まるで、誰かがまだこの場所を守っているようで。
今日もまだ、いるんだ。
そう思うと、なぜか少しだけ安心した。
でも同時に、心配にもなった。
こんな時間まで働いていて、ちゃんと休めているのだろうか。
食事は取っているのか。
誰かに頼ることはできているのか。
よく知りもしない誰かを、こんなにも気にしている自分が、少しだけ不思議だった。
その場所で、ほんの数秒だけ空を見上げる。
誰にも言えない、ささやかな習慣だった。
「冗談だよ。ただ、会社でちょっとトラブルがあったみたい」
彼は軽く言ったけど、その目はどこか遠くを見ていた。
責任ある立場の人間の顔。
さっきまでの柔らかさとは違う、“社長”の顔だった。
やっぱり、彼は私とは違う世界の人なんだと、改めて思い知らされた。
近づきすぎてはいけない。
そう思ったのに、心は彼に惹かれていくばかりだった。
「ふーん。じゃあ私はここで」
彼の邪魔をしたくなかった。
きっとこれから会社に戻って、問題の対応をするのだろう。
私なんかに構っている場合じゃない。
そう思って、距離を取ろうとした。
それよりも、これ以上彼のそばにいると…。
だから、逃げるように言葉を発した。
彼の世界に、私はいらない。
そう言い聞かせながら。
「何言ってるの。家まで送らせてよ」
まるで私が当然のように大切にされているみたいで、胸が少しだけ痛んだ。
「え、でも会社…」
戸惑いが声に出た。
彼にはやるべきことがある。
そう思っていたのに、彼は迷いなく私を送ると言った。
こんな私に、どうしてそこまでしてくれるの。
理由が分からなくて、怖かった。
「女性を一人で返すぐらい、余裕が無いわけじゃないよ」
彼の言葉には、さりげない優しさが込められていた。
そんなふうに言われると、もう何も言い返せなかった。
拒絶する理由が、もう見つからなかった。
「あっそ。好きにすれば」
強がりの言葉で距離を取ろうとしたのに、心の奥では彼の隣にいることを望んでしまっている。
本当は、理由をつけて、傷つけてでも拒絶しないといけないのに。
もう少しだけ夢を見ていたいと思ってしまった。
彼の隣にいると、現実が少しだけ遠くなる。
父の命令も、会社のしがらみも、全部忘れられる気がする。
彼の優しさに包まれていると、自分が誰かに大切にされてもいい存在なんじゃないかって、錯覚してしまう。
それが怖くて、心地よかった。
だから、ほんの少しだけ、もう少しだけ、夢の中にいたい。
現実に戻る前に、せめてこの瞬間だけは。
これで終わりにするから。
ちゃんと最後にするから。
彼の優しさに甘えるのは、今日だけ。
明日からは、またいつも通りの日常。
冷たくて、孤独で、誰にも期待しない日々。
それが私の“現実”だから。
だから、今だけは。
まだ少しだけ夢を見ていたい。
それだけでいい。
それだけで、今は救われるから。




