第6話
「ちょ、ちょっと待って。どこに行くつもり?」
思わず声が出た。
どこへ向かっているのかも分からない。
彼の沈黙が怖くて、足元がふらつく。
まるで、現実から引き離されていくような感覚。
自分が何を言ったのか、何をしてしまったのか、今さらながら怖くなってきた。
「ワンナイトならいいんでしょ?」
彼の言葉が、まるで鏡のように私の嘘を映し返してきた。
自分で言ったはずなのに、彼の口から聞くと胸が痛む。
「っ、まさか」
声が震えた。
彼が本当にそのつもりだったらどうしよう。
そんなこと望んでいないのに。
私の強がりで、そして社長を傷つけるためについた嘘なのに。
心臓が早鐘のように鳴る。
彼の表情が見えないのが怖い。
何を考えているのか、何を感じているのか、知りたいのに聞けない。
社長が突然立ち止まった。
その動きに、私は思わず足を止めた。
「俺のことを軽く見ないで」
その言葉が、まるで雷のように落ちてきた。
静かで、でも確かな怒りが込められていた。
私の言葉が、彼の誠実さを踏みにじったのだ。
「怒ってる…?」
震える声で問いかけるしかなかった。
「怒ってるよ。俺のことを軽く見るのも、自分のことを軽く見せるのもやめて」
…そうか。
彼が本当に怒っていたのは、私が彼を軽く見たことよりも、私自身を軽んじていることに気づいていたから。
そんなふうに自分を粗末に扱っていたら、誰かに本当に大切にされることも、自分自身を愛することも、きっとできなくなる。
彼はそれを分かっていた。
だから、私に分からせようとした。
自分が悪者になってでも。
そんなことまで言われて、私のために思うなんて。
「…余計なお世話よ」
それでも、私は強がるしかなかった。
そう言うと社長は少し呆れたように笑った。
その笑みが、あまりにも優しくて、胸が痛んだ。
そして、スーツのジャケットを私の肩にかけた。
彼の体温が、ジャケット越しに伝わってくる。
まるで、私の心の冷えを温めてくれるようだった。
こんなにも優しくされる資格なんて、私にはないのに。
「いらない」
肩にかけられたジャケットが、まるで彼の気持ちそのもののようで、重たく感じた。
優しさを受け取るのが怖かった。
それを受け入れてしまえば、もう強がれなくなる気がして。
だから、思わず手を伸ばしてジャケットを外そうとした。
拒絶することで、自分を守ろうとした。
でも本当は、その温もりが少しだけ嬉しかった。
「いいから。夜は冷えるよ」
私がジャケットを取ろうとしたその瞬間、彼の手が私の手を優しく制した。
「…ありがとう」
絞り出すように呟いた。
「さっきは強く引っ張ってごめん。痛かった?」
その言葉に、思わず顔を上げた。彼の目が、優しく揺れていた。
痛かったのは、手じゃない。
けれど、それを言う勇気はなかった。
「謝るぐらいなら最初からしないでもらえる?」
こんな生意気な女、早く嫌いになってよ。
心の中でそう願った。
あなたを傷つけるたびに、それ以上に私が傷ついてる。
父には逆らえない。それが現実。
どれだけ抵抗しようと、結果はいつも同じ。
私の人生は、ずっと誰かの意志に縛られてきた。
それなのに、あなたの言葉が真っ直ぐで、あなたの目が優しくて、
私は、嘘をつくのが苦しくなった。
でも、真実を言う勇気もない。
だから、傷つけるしかなかった。
冷たくして、突き放して、わざと嫌われようとして。
父に逆らえず、あなたのことを傷つけることしか出来ない私が、心底嫌いだ。
「そうだね。ごめんね」
社長はみんなにこうなんだろうか。
会社で何度か社長を見かけたことはあるけど、堂々としていて、落ち着いていて、周囲に安心感を与える存在だった。
そんな彼が、今は私のために怒ってくれて、優しくしてくれている。
そのギャップに、心が揺れる。
会社で見た彼と、今目の前にいる彼が、同じ人だとは思えないほど、温度が違う。
その時、電話がなった。
その音が、まるで現実に引き戻す合図のようだった。
夢のような時間が、終わりを告げる音。
彼の表情が、すっと変わった。
「…それで、要件は」
声のトーンが変わった。
私の知っているその声は、さっきまでの柔らかさとはまるで別人だった。
低く、鋭く、無駄のない口調。
目の色も、雰囲気も、すべてが切り替わった。
私の知ってる社長の顔だ。
冷静で、的確で、隙のない表情。
これが、さっきまでの優しさが嘘みたいで、胸がざわついた。
それと同時に思った。
これが本来の彼なのだと。
様子を見る限り、会社で何かあったみたい。
もう、夢の時間は終わりか。
さっきまでのやり取りが、まるで幻だったかのように感じる。
彼の手の温もりも、ジャケットの重みも、すべてが遠ざかっていく。
現実が戻ってきた。
彼には責任がある。立場がある。
私なんかに構っている場合じゃない。
そう思うと、胸が少し痛んだ。
でも、それが当然だとも思った。
私はただの代役。
妹の代わりに来ただけの、嘘つきの女。
夢のような時間は、最初から私には似合わなかったのかもしれない。




