第5話
その言葉は、まるで魔法のようだった。
静かで、力強くて、優しくて。
心の奥に響いて、何かがほどけていくのが分かった。
「えっと、」
何か言わないといけないのに、何も思いつかない。
彼の言葉が強すぎて、心が追いつかない。
何か言わなきゃ。何か、もっと強い言葉を。
「他にも何か?」
彼の声が優しく促してくる。
その優しさが、今は何よりも痛かった。
優しくされればされるほど、罪悪感が膨らんでいく。
だから、思わず叫んでしまった。
「あ、貴方とだけは結婚しないから!」
自分でも驚くほど強い口調だった。
本当は、そこまで言うつもりじゃなかった。
彼の表情が、ふっと曇った。
彼は何も言わない。
ただ、少しだけ目を伏せて、口元の笑みが消えただけ。
彼の顔が、まるで捨てられた子犬みたいで、胸が締め付けられる。
こんな顔、させたくなかった。
こんな優しい人を、傷つけるためにここに来たなんて。
「私が、気に入りませんか、」
その問いかけは、静かで、でもどこか切実だった。
彼の声が、まるで傷つくことを恐れているように聞こえて、胸が痛んだ。
そんなわけないのに。
こんな出会いじゃなければ、絶対、100%付き合ってた。
ハイスペックで、誠実で、優しくて、しかもイケメンで。
社内でも噂になるような存在。
誰もが憧れるような人。
そんな彼が、今、私に向き合っている。
こんな人に好かれてしまったら、もう戻れなくなる。
だから、必死に距離を取ろうとしている。
でも、彼のまっすぐな目が、それを許してくれない。
「べつに…、」
言葉が喉に引っかかる。
本音は違う。
でも、それを言ってしまえば、すべてが崩れてしまう。
だから、無理やり言葉を選んだ。
「では、他に心に決めた人が?」
いない。いるはずない。
誰かを本気で好きになったことなんて、あっただろうか。
好きになったら傷つくのは必ず私だと、最初から諦めてた。
そもそも誰かを想っていたら、こんな茶番に加担させられることもなかった。
妹の代わりに席に座って、振られるために演技して、こんなにも必死に彼を遠ざけようとすることも。
「いや…」
答えが漏れた瞬間、彼の目が少しだけ柔らかくなった気がした。
嘘はつけなかった。
今の私は、誰にも心を預けていない。
なのに、彼の存在が、心の中に静かに入り込んでくる。
「ではどうして」
理由なんて、いくらでもある。
お父様の言いなりになるのが気に食わないので、どうしてもこのお見合いをぶち壊したいから。
なんて、そんなこと言えるわけがない。
彼の誠実さに触れてしまった今、そんな理由を口にするのは、あまりにも酷すぎる。
だから、別の言葉を探す。
もっと彼が引いてくれるような、もっと酷いことを。
「…そうよ。私は、男をとっかえひっかえしながら生きてきたの。それなのに急に1人に絞れなんて言われても、」
テーブルの上のグラスやナプキンに視線を落とし、彼の顔を見ないようにした。
彼に嫌われるためには、自分を貶めるしかなかった。
わざと汚い言葉を選んで、自分を安っぽく見せた。
彼の目に映る私は、軽蔑されるべき存在であってほしかった。
そうすれば、彼は私を選ばない。
そうすれば、私はこの茶番から抜け出せる。
「一度だけでいいので、俺だけを見てもらえませんか?」
こんな言葉、誰かに言われたことなんて一度もない。
夢の中の出来事みたいで現実味がなかった。
嬉しかった。
本当は、すごく嬉しかった。
誰かに必要とされたい、誰かに選ばれたい、そんな思いをずっと抱えていた。
それなのに、私はそれを笑い飛ばすしかなかった。
「…ま、まぁ、ワンナイトならいいけど?正直、あなたも女遊びしてるんじゃない?」
言った瞬間、後悔が押し寄せた。
でも、彼を遠ざけるためには、それしかなかった。
彼の誠実さを疑うような言葉を投げつけることで、彼が諦めてくれることを願った。
けれど、声は震えていた。
心臓の鼓動が早くなって、息が苦しくなる。
彼が何か言うのを待つ時間が、永遠のように感じられた。
社長が静かに立ち上がった。
怒ってしまったのだろうか。
…いや、ついに、彼も諦めてくれたのかもしれない。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
こんな終わり方を望んでいたはずなのに。
どうしてこんなにも苦しいのか、自分でも分からなかった。
そのまま立ち去ると思っていたのに、彼は静かにこちらへ歩み寄ってきた。
私の心臓が、ひとつ跳ねた。
それは鼓動というより、警鐘だった。
あれだけ言いたい放題言った後だ、一発ぐらい打たれても我慢しよう。
もちろん、彼はそんなことをする人じゃない。
そんな乱暴な人じゃないことくらい、話していて分かっている。
だけど、心のどこかで、罰を受ける覚悟をしていた。
あれだけ酷いことを言ったのだから、何かしらの反応があって当然だ。
だから、彼が近づいてくるだけで、身体がこわばる。
冷たい言葉を浴びせられるかもしれない。そう思って、身構えた。
社長は何も言わずに私の手を引いた。
その手は、驚くほど温かかった。
強引で、でも優しくて。
拒絶する余地もないほど、確かな温もりだった。
私は、ただその手に引かれるまま立ち上がった。




