第2話
嫌われるには、まず30分何も言わずに遅刻すること。
時計を見ながら、わざとゆっくり歩いた。
時間通りに行くなんて、そんな律儀なことをするつもりはない。
むしろ、遅れて行って相手に「非常識な女だ」と思わせるのが狙いだ。
遅刻しても、謝るつもりなんて毛頭ない。
むしろ、開き直って堂々と席に着いてやる。そう決めていた。
レストランの入り口に立った瞬間、少しだけ緊張が走った。
高級感のある内装、静かな空気、丁寧な接客。
場違いな気がして、足がすくみそうになる。
でも、ここで怯んだら負けだ。
堂々と振る舞わないと。
そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと店内に足を踏み入れる。
視線を巡らせると、すぐに目に入った。
スーツ姿の男の人が、静かに席に座っている。
背筋が伸びていて、姿勢が良くて、どこか品のある雰囲気を纏っている。
きっとあの人だ。そう直感した。
父は私にお見合い相手の写真すら見せてくれなかった。
それに名前も、年齢も、職業も、何も教えてくれなかった。
ただ「行け」と言われただけ。まるで荷物のように扱われて、送り出された。
だから、目の前の彼が本当に相手かどうかも分からない。
でも、あの雰囲気からして、間違いないだろう。
待ち合わせの相手を待っている空気が、彼の周囲に漂っていた。
心臓が少しだけ跳ねた。
思っていたよりもずっと落ち着いた雰囲気の人だった。
こんな人に、わざと失礼な態度を取るのかと思うと、少しだけ罪悪感が芽生えそうになる。
でも、ダメ。
私はこの見合いを壊すために来た。
だから、心を鬼にして、計画通りに進める。
彼は私の姿に気づいた瞬間、すっと立ち上がった。
まるで、遅刻などなかったかのように、静かに、自然に。
30分も待たされたというのに、顔色ひとつ変えず、怒りも苛立ちも見せない。
むしろ、礼儀正しく迎え入れるようなその所作に、私は一瞬、言葉を失った。
私だったら、こんな失礼な相手には眉ひとつ動かさずに帰ってしまうかもしれない。
「初めまして」
彼と目が合った瞬間、まるで雷に打たれたような衝撃が走る。
心臓が跳ねるように脈打ち、鼓動が耳の奥で鳴り響いた。
手のひらにはじんわりと汗が滲み、指先が少し震える。
「…えっ、」
思わず漏れた声は、驚きと戸惑いが混ざったものだった。
頭の中で警報が鳴り響いた。
どうして藤原社長がここに?
もしかして、この人が見合い相手なの?
見慣れているはずなのに、今はまるで別人に見えた。
社内で遠くから見かけることはあっても、こんなに近くで対面するのは初めてだった。
しかも、見合い相手として。
頭が混乱して、思考がまとまらない。
父は何も教えてくれなかった。
…あいつ、わざとか。
父の顔が脳裏に浮かんで、怒りがこみ上げる。
無理すぎる。
バレたら終わり。一瞬にして首が飛ぶ。
そう思うと、背筋が冷たくなった。
「どうかしましたか?」
優しい声が耳に届く。
けれど、その優しさが逆に怖い。
何かを見透かされているような気がして、心がざわつく。
私は慌てて首を振る。平静を装わなきゃ。
ここで動揺を見せたら、すぐに疑われる。
顔を上げて、無理やり笑みを浮かべる。
演じるしかない。
この場を乗り切るためには、完璧な妹を演じるしかない。
「別に何も?」
声が少し上ずった。
自分でも分かるくらい、緊張している。
喉が乾いて、言葉がうまく出てこない。
でも、なんとか取り繕う。
この場でバレるわけにはいかない。
別に父のためではない。
あいつの会社がどうなろうと私には関係ない。
ただ、私の人生が危ういだけ。
「今日はお時間を作ってくれてありがとうございます」
そう言って差し出された花束。
その瞬間、目の前がぱっと華やいだ。
色とりどりの花が美しくて、思わず見惚れてしまう。
こんな綺麗なものを渡されるなんて、予想外だった。胸が少しだけ締め付けられる。
こんな風に丁寧に扱われることなんて、滅多にない。
震える手で花束を受け取った。
「…どうも」
わざと冷たくあしらった。
声のトーンを落とし、目も合わせずに花束を受け取る。
まるで、こんなものには何の価値もないと言わんばかりに。
けれど、胸の奥では違っていた。
本当は、嬉しかった。
こんなに綺麗な花束をもらったのは、初めてだったから。
色とりどりの花が丁寧に束ねられていて、香りも優しくて、思わず抱きしめたくなるほどだった。
でも、そんな気持ちは絶対に見せてはいけない。私は嫌われるためにここに来た。
だから、嬉しさなんて表に出してはいけない。
花束を受け取った手をすぐに離し、近くにいた店員に声をかける。
「これ、邪魔だから預かってもらえる?」
わざと雑に言った。まるで、荷物のように。
本当は、ずっと手元に置いておきたいくらいなのに。
内心で自分を責めた。
こんな言い方、しなくてもよかったと。
でも、そうしないと、彼に「この女は無神経だ」と思わせられない。
花束が店員の手に渡ると、少しだけ寂しさが残った。
あの香りも、色も、もう手元にはない。
でも、それでいい。
これは見合いを壊すための演技。
そう自分に言い聞かせながら、席に着いた。
彼の視線が静かにこちらを見ているのを感じながら、心の奥では、花束の温もりをまだ手に残していた。
「写真より、ずっと素敵ですね」
その言葉に、心臓がドクンと鳴る。
写真よりというか、別人です。
でも良かった。バレていないみたい。
数万人の内の一人だし、大した業績もないから名前すら知られていないんだ。
そう思えば、少しだけ安心できる。
でも、油断はできない。
だから、私は笑う。
自信があるふりをして、堂々と振る舞う。
「あ、あら、そう?まぁ確かに、実物の方が綺麗だってよく言われるわ」
なーんて。そんなこと、言われたことなんて一度もない。
幼い頃からずっと、璦と比べられてきた。
誰もが「妹の方が可愛い」と言った。
親戚も、学校の先生も、近所の人も。
私はいつも「しっかり者」「真面目」と言われて、見た目で褒められることなんてなかった。
だからこそ、このセリフは自分でも違和感があった。
化粧で多少は誤魔化せているかもしれないけど、心の中ではずっと「私なんか」と思っている。
そんな自分が、少しだけ惨めだった。
「そうみたいですね」
嘘だって分かってる。社交辞令だって分かってる。
でも、否定されなかったことが、少しだけ嬉しかった。
喜ぶ資格なんて、私には無いのに。
「ところで、あなたの年収はいくらかしら?最低でも7千万円は超えてないと話にならないわよ?」
こんなことを初対面で言う女なんて、普通は嫌われるはず。
お金の話をいきなり持ち出すなんて、品がないと思われるだろう。
言葉を口にした瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
こんな自分を演じるのは、思ったよりも辛い。
自分を貶めるような言動は、心に小さな傷を残していく。
「それなら心配しなくても大丈夫です」
あっさりと返されたその言葉に、拍子抜けした。
もっと嫌な顔をされると思っていたのに、まるで当然のように受け止められてしまった。
本当に年収七千万以上あるの?
私の挑発が効いていない。
そう思うと、少し焦りが生まれた。
「あ、あらそう。ならいいわ。ところで、歳はお幾つ?」
わざと、少し鼻にかかった声で言った。
興味があるふりをしながら、実際には値踏みするような口調で。
「28です」
その答えに、思わず目を見開いた。
若い。思っていたよりもずっと若い。
私と3歳差。…いや、璦とは5歳差。
「ワインはお好きですか」
その問いかけに、少しだけ身構えた。
ワインなんて、普段はほとんど飲まない。
でも、ここは強気に出るべきだ。
嫌われるために来たのだから、場違いな豪酒で空気を乱すくらいがちょうどいい。
上品なレストランで、ワインをがぶ飲みする女。
そして、彼の眉がひそめば成功だ。
口元に微笑みを浮かべた。
「えぇ。もちろん」




