第12話
店を出ようとした時、あの人の姿が見えた。
足を一歩踏み出した瞬間、視界の端に映ったその後ろ姿に、心臓が強く跳ねた。
空気が急に重くなる。
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
あの人…間違いない。
記憶が、音もなく蘇る。
あの日の空気、あの日の沈黙、あの日の視線。
すべてが、今の私を引きずり戻す。
幸福の余韻に包まれていたはずの夜が、一瞬で過去の罪に染まった。
足元がぐらつく。
彼が隣にいる。
この場で崩れるわけにはいかない。
「…私、ちょっと御手洗に」
声が震えていないことを祈りながら、彼にそう告げる。
唇が乾いていて、言葉がうまく出ない。
一時的でもいい。逃げ出したかった。
この場から、記憶から、そして自分自身から。
「分かった。ここで待ってるね」
彼は何も疑うことなく、優しく微笑んだ。
彼は何も知らない。
私が何を背負っているかも、何を隠しているかも。
震える手を隠すように、私はトイレへと向かう。
扉を閉め、鏡の前に立つ。
鏡の前に立つと、そこに映る自分がまるで他人のようだった。
さっきまで笑っていた顔は消え、目元には怯えが滲んでいる。
唇はわずかに震え、頬は青ざめていた。
あの日の記憶が、容赦なく押し寄せる。
忘れたいのに、忘れられない。
忘れてはいけない。
全部、私のせいだから。
水を思い切り流す。
蛇口をひねる手が震えていた。
水の音が、空間を満たす。
その音に、意識を集中させる。
過去を思い出しそうになる度に、水を流した。
それは、私の中で“儀式”のようなものだった。
水の音に身を委ねることで、記憶の波が押し寄せるのを、少しだけ遅らせることができた。
現実から、罪から、記憶から。
水の音は、私にとって唯一の“遮断”だった。
余計なことを考えないように。
ただ、音に耳を傾ける。
それだけが、私を保ってくれる。
でも、心の奥では分かっていた。
それは一時的な逃避でしかない。
水が止まれば記憶はまた、容赦なく押し寄せてくる。
水の音では、罪は流せない。
記憶は消えない。
それでも、私は逃げ続けるしかなかった。
「…ふぅ、」
しゃがみ込んだ瞬間、膝が床につく音がやけに大きく響いた。
身体が重い。
心が重い。
息を吐いても、胸の奥の圧迫感は消えない。
涙が出そうになるのを、必死で堪える。
泣いてはいけない。
ここで崩れてしまったら、彼の前に戻れなくなる。
でも、限界だった。
過去が、私を押し潰そうとしていた。
突然、水の音が止まった。
その瞬間、空気が変わった。
誰かがいる。
背筋が凍る。
ゆっくりと顔を上げる。
鏡越しに映ったその顔に、心臓が止まりそうになった。
その視線が、今も変わらず冷たくて、私の存在を否定していた。
「こんなに流したら勿体ないじゃない」
その声が、空間を切り裂いた。
水の音に逃げていた私を、現実に引き戻す。
その言葉には、皮肉と怒りが混ざっていた。
私は、何も言えなかった。
ただ、震える唇を噛みしめるだけ。
叔母の声は、私の罪を思い出させる。
水では流せないものが、今、目の前に立っていた。
「…叔母様」
声が震えた。
言葉にならない感情が、喉の奥で渦巻く。
逃げたい。
でも、逃げられない。
彼女の視線が、私を縫い止めていた。
あの日の記憶が、彼女の顔と重なる。
私は、何も変わっていない。
「やっぱり、由莉だったのね」
私がここにいることが、彼女にとっては不快でしかない。
その視線には、憎しみが滲んでいた。
「どうして、いつから、」
声が震える。
問いかけながらも、答えを聞きたくない自分がいた。
でも、もう遅い。
彼女は、すべてを見ていた。
「貴方が店に来た時から。綺麗に着飾っちゃって。デート?」
その言葉に、胸が締めつけられる。
“デート”という言葉が、まるで罪のように響く。
それを、彼女は許さなかった。
私は、彼の隣にいてはいけない。
それを、彼女の言葉が突きつけてくる。
「彼はそういうのでは…」
言い訳のように口にした言葉が、自分でも空々しく聞こえた。
彼を守りたい。
この関係を守りたい。
でも、彼女の前では、何を言っても無意味だった。
彼女の視線が、私の全てを否定していた。
「…幸せそうね」




