第1話
「結婚しましょう」
その言葉が耳に届いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
まるで誰かに後頭部を殴られたような衝撃。
心臓が跳ね、次の瞬間には冷たい汗が背中をつたう。
何かの冗談かと思った。
でも、目の前の彼は真剣な顔をしている。
私のミッションはこの人とお見合いをして、こっぴどく振られること。
それなのに、一体何がどうなってるの!?
遡ること2週間前。突然お父様に呼び出された。
「今なんと…」
父の口から出た言葉に、耳を疑った。
聞き間違いだと思いたかった。
でも、嫌な予感がじわじわと胸の奥に広がっていく。
「見合いをしろと言ったんだ」
父の言葉が現実味を帯びていくにつれて、心臓の鼓動が早くなる。
「見合い!?どうして私が…!」
声が自然と大きくなった。
怒りと困惑が混ざって、胸がざわつく。
「元々は璦の縁談だったんだがな」
璦の名前が出た途端、胸がぎゅっと締め付けられる。
「だったら、」
言葉を遮るように声を上げる。
怒りが込み上げてきて、冷静ではいられなかった。
「璦には恋人がいるじゃないか。それなのにお見合いなんて、させる訳にはいかないだろう」
そんなの理由になってない。
だったら最初から断ればいいじゃない。
どうしてその責任を私に押し付けるの?
「分かっているなら、初めから受けなければ良いのに」
独り言のように、でも父に聞こえるようにそっと呟いた。
「縁談が決まって一週間後に付き合い始めたんだ。どうすることも出来ないだろ」
自分の都合で始めた話なのに、問題が起きたら娘に押しつけるなんて。
あまりにも身勝手すぎる。
私はずっと、家族の都合に振り回されてきた。
璦が困れば私が代わりに動き、父が怒れば私が黙って耐える。
その構図は、ずっと昔から変わらない。
私はただの代用品。
そんな気持ちが、じわじわと胸を蝕んでいく。
「だからってどうして私に」
声が震えた。
怒りと悲しみが混ざり合って、喉の奥が熱くなる。
「お前にはいないじゃないか」
その言葉が、鋭く胸に突き刺さった。
まるで“お前には価値がない”と言われたような気がした。
そんな理屈、どこに通用するのよ。
父の目には、私の気持ちなんて映っていない。
ただ、会社の都合と体裁だけ。
「そういう問題じゃないでしょ」
怒りで唇がわずかに震え、拳を握りしめる。
「もしも見合いを取り消すことになれば、私の会社が大ダメージを受けることになる」
会社。結局、父が守りたいのはそれだけ。
それでも正直に言うしかないでしょ。
それかそんなに見合いをさせたいなら、璦に彼氏がいないふりをさせる方がよっぽど合理的よ。
「そもそも、璦との見合いなのに私が行ってもいいんですか?それこそ約束を破ったことになるのでは?」
言いながら、自分でも虚しさを感じた。
正論を言っているはずなのに、まるで空に向かって叫んでいるような感覚。
約束を破ってまで進める話に、どうして私が加担しなきゃいけないのか。
そんな疑問が頭の中をぐるぐると回る。
でも、父は動じない。
私の言葉なんて、ただの雑音。そう思っているのだろう。
「そこでだ。お前には璦のフリをして見合いに行ってもらうことにする」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
そんなの、詐欺じゃない。
人を騙すことになる。
なのに、父はそれを当然のように言う。
まるで、朝食のメニューを決めるくらいの軽さで。
「…は、い?」
言葉にならない。
驚きと怒りと悲しみが混ざり合って、喉が詰まる。
声が震えて、うまく出せない。
まるで悪い冗談。
けれど、父は本気だ。
「化粧は専門のものに頼んである」
その言葉に、思わず笑いそうになった。
そんなことで誤魔化せると思ってるの?
人を騙すというのに、そこまで準備してるなんて。
父の冷静さが、逆に恐ろしい。
見た目さえ似せれば、それでいいと思っている。
私の気持ちなんて、最初から考えていない。
誰かの人生を演じるために生まれてきたわけじゃないのに。
「そういう問題じゃ…」
目の奥が熱くなる。
化粧の話じゃない。
もっと根本的な問題。人としての尊厳。
私は璦じゃない。
誰かの代役として生きるのは、もう嫌だった。
私には私の人生がある。
なのに、家族の都合でそれを踏みにじられるなんて、耐えられない。
心の奥底で、ずっと押し殺してきた感情が、今にも爆発しそうだった。
「くれぐれもバレないようにな。会社の未来はお前にかかっている。その事を忘れないように」
その言葉を聞いた瞬間、背筋がぞくりとした。
会社の未来が私にかかっている?
そんな重たい責任を、こんな形で押し付けられるなんて思ってもみなかった。
全責任を私に擦り付けるつもり?
それが人に物を頼む態度か。
「一方的に話して終わり?私に拒否権はないって?ふざけないでよ!どうして私が巻き込まれないと」
怒りが爆発した。もう我慢できなかった。
ずっと押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、父を睨みつける。
「うるさい!これはもう決まった事なんだ!」
拒否する余地すら与えられない。
決定事項として突きつけられたその言葉は、私の存在を否定するような響きを持っていた。
私の感情も、意見も、すべて無視されている。
もういい。
こっ酷い別れ方をして、二度とこいつと会いたくない!そう思わせてやろう。
心の中で、強く誓った。
この見合いを、最悪の思い出にして、父の計画を台無しにしてやる。
それが、私にできる唯一の抵抗。
どうせ、私の気持ちなんて誰も考えていない。だったら、せめて自分の意思で終わらせたい。
この理不尽な状況を、私の手で壊してやる。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
怒りと悲しみの中に、わずかな決意が芽生えていた。




