その世界に“社会”のルールはなかった
「おっは〜」
店の前に着いた瞬間、やけに陽気な声が響いた。
振り向くと、そこにはグラサンを頭にかけたままの男が立っていた。
夜だというのにサングラス。
しかもその格好は、どこか田舎のヤンキーを思わせる。
だが不思議と、その抜け感のある風貌に私は少しだけホッとした。
「ユウト〜、友達つれてきたよ〜」
明らかに声のトーンが上がり、テンションの高ぶりを隠しきれない様子のゆりが、隣でそう言った。
これがホスト……。
もっと鋭利で、無機質な美形を想像していた私は、
その肩の力の抜けたユウトの登場に、なんとなく「まだ私でもいけるかもしれない」と思ってしまった。
安堵とともに、小さく息を吐き、私はそっと扉に手をかけた。
扉の向こうには階段があった。
どうやら店は地下にあるらしい。
足を踏み入れた瞬間、温度と空気が変わった。
薄暗く、仄かな香水とアルコールの混ざった香りが漂う。
まるで別世界。夜の“裏側”に入り込んだような、そんなムードがそこにはあった。
階段を下りるたびに、胸の奥がざわついた。
緊張がじわじわと肌に這い上がってくる。
店内に入ると、私たちは中央のテーブル席に案内された。
周囲を見渡すと、照明は控えめで、テーブルごとに小さなスポットライトが当たっている。
それぞれの席が、まるで舞台のように切り取られていた。
落ち着かずにそわそわと周囲を見回していると、ふと不安が押し寄せてきた。
「ゆりちゃん……私あんまりお酒飲めないけど、大丈夫かな?
あと……今日って、本当に千円だけだよね?」
思わずすがるようにして、ゆりに耳打ちする。
声が震えていたかもしれない。
すると彼女は、慣れた様子で笑った。
「そうだよ〜! すーちゃん大丈夫、はじめてだもんね。私がついてるから安心して!」
それを聞いていたユウトが、横から気さくに口を挟んできた。
「ソフトドリンクとかノンアルもあるから、心配しなくて大丈夫だよ〜」
「あ、ありがとう……」
気遣ってもらえたことへの安堵と同時に、
やはり自分がこの空間に馴染めていないことをひしひしと感じる。
私は思わず背筋をぴんと伸ばして、ゆりにぴったりと寄り添った。
──どうしよう。
まだ何も始まっていないのに、もうすでに帰りたいかもしれない。
そんな思いが胸をかすめた、そのときだった。
「すーちゃん、どんな人がタイプ?」
ユウトが突然、紙とボールペンを取り出しながら訊いてきた。
まるで、何気ない世間話のようなトーンで。
「え、えっと……?」
戸惑って言葉に詰まる私を見て、ゆりが隣で急にテンションを上げる。
「お! すーちゃんの好きなタイプ、気になる〜!」
そのはしゃぎぶりに押されるように、私はとりあえず過去に好きになった人の特徴を思い返しながら答えた。
「んー……優しい人、かな? 落ち着いてて……年上がいいかも」
ユウトは「おっけーん」と軽い調子で返事をしながら、紙に何やら書き込んでいた。
その文字をちらりと覗くと、驚いた。
ほとんどがひらがな。
漢字はどこかへ消え、筆跡は小学生のようにぐにゃぐにゃだった。
こんな大人、見たことない。
いや、大人なのだろうか。
私の知る“社会”とはまるで違う種類の人間に出会ったような気がして、胸がざわついた。
だがそれでも、自分に言い聞かせる。
──これは、人生経験。
そう、自分の世界を広げる一夜。
だから大丈夫、大丈夫――。
そのとき、また別のホストがやってきて、声を弾ませながら言った。
「ほーい! 気に入った子、四人まで選んでいいよーん!」
そう言って、小冊子のようなアルバムを私の前に差し出してきた。
横から、ゆりが嬉しそうに身を乗り出してくる。
肩を寄せ合いながらページをめくると、そこには派手な髪色をした男性たちの写真が並んでいた。
いかにもチャラチャラしていて、どこか現実味のない“絵の中の人”のようだった。