夜の街へ、初めての一歩
午後六時。
いつもより少し濃いめにチークを入れ、普段は選ばない華やかな色のリップを唇にのせた。
鏡に映る自分に、どこか落ち着かない視線を向ける。バッグも、持っている中で一番“高そう”なものを選んだ。
──こんなんで大丈夫かな。
心細さを隠すように深呼吸をひとつして、私は、いつもなら家でゆっくり過ごしている時間に外に出た。
冷たい空気が肌に触れると、急に不安が波のように押し寄せてくる。
私は夜に遊びに出かける習慣がない。在宅での仕事を選んだのも、なるべく人間関係のストレスから距離を置きたかったからだ。
朝は十一時ごろにゆっくり起き、コーヒーを飲みながら仕事を始める。
小さな休憩を挟みながら夜七時にはパソコンを閉じ、夕飯を食べて、お風呂に入って眠る。
そんな静かで淡々とした暮らしが、今の私にとっての“幸せ”だった。
数年前、接客業をしていた頃は違った。
気疲れと人間関係のストレスで心身を崩し、診断されたのは“適応障害”。
だからこそ私は決めていた。できるだけ心をすり減らさず、平穏な日々を丁寧に生きる。
刺激のない日常でも、心が壊れなければ、それで十分だと。
それなのに──今、私はこの足で“夜の街”に向かっている。
歓楽街のあるその場所に降り立つと、そこはまるで別世界だった。
目の前に広がるのは、キャッチの声、ギラついた看板、香水とタバコの混ざった空気。
道を行き交うのはほとんどが外国人で、日本語が飛び交っているのに、どこか異国に迷い込んだような感覚に陥る。
胸の奥が、締めつけられるようにざわついた。
やっぱり来るべきじゃなかったかもしれない。
そう思い始めた、その瞬間だった。
「やほやほ〜!」
背後から聞き慣れない明るい声が飛んできた。
振り返ると、そこには金髪にバッチリメイクを施した、派手な見た目の女性が立っていた。
「えっ……ゆりちゃん?」
「そう! わたしー! 全然違うからわかんないよね?」
彼女はそう言ってにこにこ笑う。
私の知っている“ゆりちゃん”は、黒髪で、どちらかといえば物静かな性格だった。
その面影は、目の前の彼女のどこにも見当たらない。
まるで別人。眩しすぎて、視線を合わせるのにさえ戸惑った。
「話したいこといっぱいあるけど、時間ヤバいから歩きながら話そっか!」
そう言って、彼女は躊躇なく夜の街へと足を踏み出す。
キャッチたちが次々と声をかけてくるが、彼女は慣れた手つきでそれをスルーしていく。
この街を歩き慣れているんだな──そんな思いが胸をかすめた。
私の知っている“ゆりちゃん”と、今目の前にいる彼女のあまりのギャップに、ついていく足が少しだけ重くなる。
「今から行く店ね、そんな大きいとこじゃないから安心して!
担当にも連絡してるから、たぶん店前で出迎えてくれると思うよ!」
──担当。
その響きに、少しだけ現実味が増す。
本当に私、今から“ホストクラブ”に行くんだ。
「まじ、うちの担当パワフルだから、すーちゃん驚いちゃうかもね〜!」
キャハハと笑う彼女の手が視界に入る。
ネイルはゴテゴテに飾られ、ダイヤのようにキラキラと光を反射するパーツや、ミニチュアのリボンがついている。
あれでどうやって日常生活を送ってるんだろう──と、一瞬思ったが、それよりも、今の彼女のまぶしさにただ圧倒されていた。
私は夜の街の光に目を細めながら、その背中を追って歩き続けた。
胸の奥では、不安と好奇心が入り混じって、静かに波打っていた。