夢を見せておいて、平気で現実に引き戻す人
深夜1時半。
部屋の中は静まり返り、
唯一、スマホの着信音だけが小さな空間に鳴り響いた。
ディスプレイに浮かぶ名前――蝶の絵文字。
心愛くんだ。
まぶたが重たいのに、心だけが急に冴えていく。
戸惑いながら、私は通話ボタンを押した。
「もしもしぃ〜」
間延びした声。
それだけで、彼が酔っているのがすぐにわかった。
「テキーラ、たくさん飲んだ〜」
甘えるような、くぐもった声が耳元に落ちてくる。
眠気と警戒心が入り混じる中、それでも私は息をひそめて彼の言葉を待った。
「俺さぁ……ほんま好きやねん」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
心臓が、一度、大きく跳ねる。
「酔ったときしか言えへんけどさ……
ほんまに、店来させようとしてない。
すーちゃんのこと、マジで好きやねん……結婚したい」
笑い声も冗談めいた調子もなかった。
ただ、静かに、真っ直ぐに、彼はその言葉を投げてきた。
夜の静寂の中で、まるでその言葉だけが現実だった。
甘くて、熱くて、どこまでも優しい響き。
それが本心なのか、確かめる術はなかった。
でもその瞬間だけは、心がふわりと解けてしまった。
「好き」という音が、胸の奥で灯をともした。
夜という魔法と、酔いという幻想。
そのどちらにも抗いきれずに、私はただ、黙って彼の声に耳を澄ませていた。
***
朝。
カーテンを開けた窓の外は、昨日とは違う世界のように明るく、蝉の鳴き声が遠くから聞こえていた。
目覚めたとき、私は微笑んでいた。
両思い。
そんな甘い言葉が、心の中で花開いていた。
「おはよ」
彼からのそんな一言を想像して、スマホの通知を待つ自分がいた。
昨日の彼の言葉を思い出すだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
けれど、届いたのはまるで冷水をかけられるようなラインだった。
「ちょっとすごい申し訳ないお願いしてもいい?」
その一文に、胸の奥にかすかな警鐘が鳴る。
嫌な予感。
そしてそれは、見事に的中した。
「今ヘアメしてもらってるんやけどさ
財布無くしてしまって
1000円paypayで恵んでくれん?
2、3日後に返すから」
画面を見つめたまま、指先が冷たくなっていくのを感じた。
昨夜の「結婚したい」という言葉が、にわかに色褪せていく。
まるで、美しく見えた花が、毒を含んでいると知ったような感覚だった。
一瞬、ゆりちゃんの言葉が頭をよぎる。
「携帯代も姫に払ってもらってるんだって」
――あの警告が、今になって鋭く突き刺さる。
……この人は、本当に、お金にだらしないんだ。
「恵んで」なんて言葉を口にする男に出会ったのは、これが初めてだった。
この一度を許したら、次はもっと簡単に求めてくる。
電車賃、飲み代、家賃……
気づけば、全部が「頼みごと」になっていくのだろう。
頭がカッと熱を持った。
昨夜のあたたかな余韻は、すべてを裏切られたような怒りにすり替わっていた。
――なんで、信じたいのに。
なんで、またこんな気持ちにさせるの。
涙が勝手に頬を伝った。
好きだった。今でもきっと、好きなのかもしれない。
けれど、その感情すらも、もてあそばれている気がして、悔しくて、哀しくて、たまらなかった。
スマホの画面に残る彼のメッセージ。
その文字を見つめながら、私はただ、唇を噛んで、泣いた。