生きる理由
教室の隅に、いつもぽつんと座っている子がいる。
肩より少し伸びた髪は絡まり、朝の支度が間に合わなかったのか、制服の襟元はよれている。まるで空気のように目立たない存在。いや、彼女が自分からそうしているのかもしれない。
誰とも目を合わせず、話しかけられても首を小さく横に振って終わり。名前は確か、愛麗だったと思う。
春の終わり、気温が心地よくなり始めた頃だった。
放課後、ふらりと立ち寄った近所の公園で、偶然その愛麗を見かけた。
制服のまま、地面に膝をついて、にゃあと甘える猫にそっと指先を伸ばしていた。
その姿は、教室で見る彼女とはまるで違っていた。
頬をなでる風に髪がふわりと揺れて、目元にはかすかな笑み。
猫の柔らかい背を撫でる手つきが、まるで何かを確かめるように優しい。
——ああ、この子、ちゃんと笑えるんだ。
見てはいけないものを見てしまった気がして、俺はそっとその場を離れた。
でも胸の奥に残った、温かくて切ないような気持ちは、しばらく消えなかった。
次の日の放課後、愛麗の姿はなかった。
その次の日も。そのまた次の日も。
三日目、担任の先生がぽつりと呟いた。「少し体調を崩したみたいだ」と。
でも、そんな言葉じゃ拭えない予感が胸を刺していた。
僕は放課後、あの公園へ向かった。
猫は、いた。ベンチの下にちょこんと座って、誰かを待っているように。
「……愛麗、来ないんだな」
思わず口に出した言葉に、猫がこちらを見上げて「にゃあ」と鳴いた。
そして数日後、愛麗は教室に戻ってきた。
でも、その目は空っぽだった。まるで心がどこかに置き去りになったように。
僕は、勇気を出して声をかけた。
「……愛麗、あの公園の猫、元気だったよ」
彼女の肩が、ぴくりと揺れた。
けれど何も言わず、顔を背ける。
それでも、僕は話を続けた。
「この前、君が撫でてた猫さ。……ずっとベンチの下にいた。君が来るの、待ってるんじゃないかなって思って」
しばらくの沈黙。
教室の空気は、授業終わりのざわめきで満たされていたけれど、僕と愛麗の間だけ、静かな空洞があるようだった。
やがて、かすれた声が返ってきた。
「……もう、会えないと思ってた」
「どうして?」
「死のうと思ったの。……昨日、首に紐をかけた。……でも、怖くてやめた」
僕の胸に、冷たい何かが流れ込む。息が詰まった。
「……親が、いつも怒鳴ってる。叩かれる。酒飲んで、わたしを人形みたいに扱う。……外に出るのも、制服を着るのも、すごく頑張ってるの。……でも、誰も気づかない」
愛麗の声は、淡々としていた。でも、言葉の端々から滲む絶望が、僕の胸を締めつけた。
「でも、あの猫……あの子だけは、撫でると、ちゃんと生きてるって思えた」
僕は、たまらなくなって言った。
「……連れて帰ろうよ、あの子」
「え……?」
「家じゃなくてもいい。ふたりで、どこかに“居場所”作ろう。
この猫と、君と、俺で、小さな家族になれたら、ちょっと生きやすくなるかもしれない」
彼女は何も言わなかった。
あれから僕と愛麗は、放課後に公園へ通った。
猫には「ミルク」という名前をつけた。白い毛並みと、あったかい体温。
最初はおっかなびっくりだった愛麗も、少しずつ表情を柔らかくしていった。
ある日には笑って、ある日には泣いて、それでも猫の頭を撫でながら「今日も生きた」と呟く。
ある日、愛麗がぽつりと呟いた。
「わたしね、今でも家に帰るのが怖い。でも、猫の写真をスマホに入れて、たまにそれ見てると、耐えられる」
俺はうなずいた。
「きっと、猫も君に会えるのを楽しみにしてる」
「うん……だから、生きる」
それは、決意というにはあまりにか細い声だったけれど。
それでも、確かに前を向こうとする一歩だった。
生きることは、きっと簡単じゃない。
苦しいことは容赦なく来るし、逃げられないものもある。
でもさ。ほんの小さなことでも、生きていたい理由になっていいんだよ。
猫の存在だっていい。
放課後の誰かの声だって、知らない誰かの優しさだって。
それで生きのびられるなら、もうそれだけで十分なんだ。
人は、完璧な理由が無ければ生きられないわけじゃない。ちゃんと笑えなくても、前向きになれなくても、それでもいい。
ただ、“今日も生きてる”って、それだけで、君はすごいと思う。
たった一匹の猫が、誰かの命を繋ぐことだってある。
「大したことない」なんて、誰にも言わせない。
生きる理由なんて、なんでもいい。
“明日もミルクに会いたい”——それだけで、今日を乗り越えてもいい。
それが誰かを救うなら。
僕は、何度だって言うよ。
「君は、生きてていい」
俺と愛麗ミルクは、いまだに公園で会う。
彼女はときどき、まだ俯いて歩いてるけど。
でも、ミルクを撫でるときだけは、顔を上げて、ちゃんと笑ってる。確かに、彼女は笑ってる。
その笑顔を見た瞬間、俺は決めた。
この子を、できるだけ守ろうって。
大きな理由じゃなくていい。ちっぽけでも、猫でも好きな人でも、それが人を生かす理由になる。
俺たちはまだ、全然未完成で、脆くて、不安定で。
だけどそれでも、ちゃんと生きてる。
それだけで、十分だと思う。