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苦手な方はご注意ください。

駄作シンデレラ

作者: 修行屋さん


もしもすべての人間が人生でたった一度だけ、地獄に叩き落されるような苦しみを味わうとするならば。

自分にとってのそれは、この世に生まれたことであるとレティシアは考えていた。



 

「ねぇ、レティ。おまえが無能なことなんて、あたくし生まれた時から知っているの」


ガシャン、と陶器の割れる音が切るようにアイボリー邸宅の空気を凍らせた。次いで聞こえる「ぁ、」と震えたか細い声は、静まり返った大広間によく響く。


レティシアは足元で粉々に砕け散ったティーカップとその持ち主である異母姉の顔を交互に見てから、震える身体で紅茶に侵された床に跪いた。砂糖をたっぷりと含んだそれは、頭が痛くなるほど甘い香りがする。


レティシアは前髪が濡れるのも気にせず、鈍く光る大理石の床に額を擦り付けた。


「も。申し訳ございません」

「いいのよ、謝らないで頂戴。お気に入りのティーカップだったのだけれど……仕方がないわ。かわいい妹の不注意で割れてしまったんですもの。あたくしちっとも気にしませんわ」


震えてうずくまるレティシアの背中にアリアナの冷たい視線が突き刺さる。甘く可憐だと評される異母姉の垂れた目尻は、なぜだかレティシアには鋭いナイフのように見えた。

  

「っ、申し訳ございません」

「だから謝らないでくださる? まるであたくしが悪いみたいじゃない。それともおまえは、そこまでしてあたくしを悪者にしたいのかしら」


パッと開かれた扇子で口元を覆い隠し立ち上がった異母姉は、紅茶で汚れたレティシアの顔を赤いミュールの先で掬い上げた。華やかな扇子の内側では、きっと虫けらを嘲笑うかのように口の端を歪めているのだろう。


美しく揺れる姉の髪を、レティシアは見上げることが出来なかった。


「ほーんと、無様ですこと。人間こうはなりたくないものねぇ」


異母姉の言葉に、もうとっくに忘れたはずの自尊心がツキりと痛んだ。……無様だなんて、そんなこと。言われなくても分かっている。

 

服と形容していいのかもわからない粗末なネズミ色の布と水仕事でアカギレた指先。小さく変形した爪、乾燥でガサガサになった下品な金髪、寝不足と栄養失調で青白く変色した血色の悪い肌、背中に広がる無数の“教育”跡……。

 

異母姉に言われなくたって、レティシアは分かっていた。自分が如何に醜く愚かしい人間であるかを、レティシアは誰よりも知っていた。


うつむいたレティシアの姿を吐息だけで笑うと、異母姉は「それ、片しておいてくださる?」とドレスの端を翻して大広間を去っていく。

……あとに残ったのは頭が痛くなるほど甘い姉の香水の匂いだけだった。


「っ、」

 

割れたティーカップの破片がレティシアの指先を鋭く突き刺す。皮膚が破れて、丸くダマになった赤い血が溢れた。けれどもそれを痛いと感じることさえ、レティシアには億劫だった。


レティシアの心はもう、疲れ切ってしまっていた。


◆◆◆

 

レティシア・ミルヴァ・アイボリーはクルミナル王国の由緒正しき貴族公爵家の令嬢である。


クルミナル王国と言えば、世界に轟く魔法大国の名前だ。

第二次魔法大戦時代に領土を大幅に広げ、栄光ある歴史と魔法技術の発展により繫栄してきたこの国は、大陸の中で最も力を持った王国であった。

そして魔法大国クルミナルには四つの巨大な公爵家が存在する。それぞれ東西南北に拠点を置き、莫大な財産と強大な権力を誇るこの四家は「四大生家」と呼ばれ、クルミナル王国の中枢機能を担っていた。

  

その四大生家の一つ、西の陣営を司るアイボリー家の次女としてレティシアは生まれた。

ミドルネームには「ミルヴァ」という水の女神の名前を与えられ、母親譲りの美しい容姿と透き通るシアンブルーの瞳を持って生まれた彼女は……しかし残念なことに「望まれない子供」だった。


レティシアの母、ファーラン・エスピノーザ。

彼女は戦士だった。

千を超える魔法と万を超える兵を操り、剣を片手に駆ける姿はまさしく戦場に咲いた一輪の華であったと言う。黄金の髪を揺らし鬼のような美貌を持った彼女のことを、人々はこう呼んだ。――戦場乙女「金剛百鬼」と。

 

気高い王国騎士団の団長であった母は、とある任務のさなかに当時アイボリー家の公爵令息であった父の命を救った。

 

 ――そしてそれが、のちに起こるすべて悲劇の始まりだった。

 

母の美しさに惚れ込んだ父は公爵家の金と権力を使い、嫌がる母を無理やり妾として娶ってしまったのだ。

その際に出来た子供がレティシアである。

 

好色であった父に女は腐るほどいたが、父はなぜか母にだけ異様な執着を寄せていた。 

女に狂い頭がイカれた男の醜悪さたるや。

あれほど無様で怖気の走る生き物をレティシアは他に知らない。

 

父は――あの男は、母が身につけるものから口にするもの、目に入れるもの、発する言葉の一端に至るまで……朝目覚めてから夜眠りにつくまで、文字通り母の「すべて」を縛り付け、管理しようとしたのだ。

そして生まれたばかりのレティシアを足枷に、母を屋敷の奥に閉じ込めて、外に出ることを一切許さなかった。

 

『レティ、おまえは強く生きなさい』


 ――強く生きろ。それが母の口癖だった。

 

その言葉通りに、母はレティシアに最低限の知識をつけさせた。

「女は無能な方が飼いやすい」と幼いレティシアの頭を殴りつける父の目を盗んで、母はレティシアに読み書きを教え、家事を教えてくれたのだ。なんでも一人で出来るように、一人になった時に困らないように、と。

だからレティシアがこの地獄のような家で今日までを生きてこられたのは、紛れもなく母のおかげである。

 

きっと路肩に佇む孤児みなしごであった方が、まともな暮らしをできたかもしれない。

……それでも固い地べたに母と身を寄せ合って眠る夜は、暖かかった。眠りにつく前、母が決まって話してくれるベッドサイドストーリーをレティシアは愛していた。

レティシアの世界の住人は母とレティシアの二人だけで、それ以外は何も望んでいなかった。


母と一緒にいられたら、レティシアはそれだけで幸福だった。


しかし母は違ったのだろう。


母はレティシアが大きくなるに連れてだんだんと弱っていった。

レティシアを産んだ時に肺を病んだらしく、母はいつもケンケンと苦しそうに咳をしながらも、レティシアに生きる術を必死に教え込んだ。皮肉なことに、レティシアに出来ることが増えると、母の容態は悪くなった。

まるで死ぬ準備をしているみたいだったし、実際にそうであったのだろう。

 

そしてレティシアが五つを迎える頃には、母は床に臥せっていることがほとんどになってしまったのだった。

かつて「金剛百鬼」ともてはやされた美貌は落ちくぼんで見る影もなくなり、あでやかだった金髪は色素が抜け落ちて灰のような白髪に。

かつて戦場乙女と評されたしなやかな四肢はやせ細り、日の当たらない小枝のようだった。


それでも父は、母の心を蝕んで離さなかった。

 

翼を折られた鳥は、もう長くは生きられない。

母が時折見せた、感情すべてを置き去りにしたような空っぽの表情――黒く濁ったシアンブルーの瞳で、物憂げに空を見つめる母の横顔がレティシアは嫌いだった。


 

そしてレティシアが七つの誕生日を迎えた次の日の晩、母は首を吊ってあっけなく逝った。


 


湿った泥の匂いのする夜のことだった。

風が横向きに吹いていて、遠くの空で雷が鳴っていた。


 

 

天井からぶら下がった母の足首の白さを、レティシアは今でも思い出す。

 

 



 

母はきっとレティシアのことを憎んでいたに違いなかった。

だってレティシアさえいなければ。レティシアさえ生まれなければ――母は今でもその金髪を揺らして青空の下を駆けていただろう。


母の心を殺したのは父だったが、母の身体を呪ったのはレティシアだった。

 

生まれる前に死んでしまえば良かった。生まれる前に殺してくれれば良かった。


レティシアは、望まれない子供だった。

 


母が死んでから半月もしないうちに、レティシアはアイボリーの家で使用人として働くことになった。

使用人と言ってもほとんど奴隷のようなもので、レティシアは朝の太陽が昇る前に起きて日付が変わる夜遅くまで、お屋敷を掃除したり、食事を作る下処理をさせられたり……重くて辛い仕事ばかりをやらされていた。

落胤といえど、直系の血を引く人間ならば本来は有り得ない処遇である。そして「アイボリー家の娘」という肩書を抜きにしても、齢七つの少女に課すには「公爵家の使用人」というのはあまりに酷な仕打ちだった。

 

しかしレティシアにはそれを仕方ないと受け入れるほかない理由があった。

 

レティシアには腹違いの姉がいる。

父の正妻の子だ。

名前をアリアナ・ソフィ・アイボリー。

母親譲りの金髪碧眼を持つレティシアとは違ってアイボリーの血を濃く受け継いだアリアナは、その淡い桃色の瞳でいつもレティシアを睨み付けていた。

アリアナにとってレティシアはかわいい異母妹などではなく、自分の母を辱しめた忌々しい女の娘で、憎悪の対象でしかったのだ。

 

アリアナの母・アイボリー公爵夫人は、貴族の生まれで気位が高く、常に人を小馬鹿にしたような高飛車な性格の女であったらしい。

そして顔の造りだけが取り柄だった父のことを、心の底から愛していた。

実際、アリアナが生まれてから数年のうちは父の女癖の悪さも鳴りを潜め、アイボリー公爵家は絵に描いたような幸せ家族であったという。


美しく聡明な妻と、愛らしい娘に囲まれて、父の物語は終わりを迎えるべきだった。

 

 ――「運命」だなんて排他的な概念は悲劇しか生まないことを人間はよく知っているはずだろうに。


残念なことに、神とやらの采配は酷く無情であった。


アリアナが三才を迎える少し前の夏の日、父はファーラン・エスピノーザと出会ってしまったのである。

日の光を反射して波打つブロンドの髪と、寒椿のように幽玄な「金剛百鬼」の美貌に、父は大脳辺縁系を壊された。


……公爵夫人の受けた屈辱はどれほどのものだっただろう。


生涯をかけて愛を誓った男は自分と娘を簡単に捨てて、ファーラン・エスピノーザ(薄汚い女騎士)なんぞを選んだのである。


夫人は金剛百鬼を心の底から憎んだ。

憎んで恨んで、毎晩あの女を殺すことを夢に見て……結局、精神を病んだ夫人はファーランが亡くなったのと同年に季節風邪を拗らせて死んでしまった。


しかし彼女の燃えるような憎しみと怨みの念は彼女の娘に――アリアナに受け継がれたのだった。

 

アリアナは父を狂わせた女と瓜二つのレティシアを「魔女の血が流れる忌み子」として蔑んだ。


望まれて生まれたはずのアリアナも、やはりレティシアの存在を望んではくれなかった。



  

そしてアイボリー家は、保身のためにレティシアを地獄の釜に突き落とすことにしたのだ。


 ――公爵の寵妃と夫人が立て続けに亡くなった、ということは、何もアイボリーだけの悲劇ではないのである。

これはクルミナル王国の長い歴史の中で見ても大変不吉なことで、力ある魔法使いが亡くなると必ずよくないことが起こるという伝承があるのだ。

金剛百鬼も公爵夫人も王国に認められた立派な魔法使いで、間違いなく「力ある者」だった。


そんな優秀な魔法使いが同じ場所で一度に亡くなったのだ。

これは何か大きな災いの前兆に違いない。

アイボリー家の使用人たちは屋敷の隅に集まり口々に言った。

 

「金剛百鬼の亡骸は納棺される前に呪詛を吐いたらしい」

「奥様が死んだのはきっと呪いのせいよ」

「でも金剛百鬼を殺したのは旦那様って話だぜ?」

「あぁなんてこと、それってつまり」

「ウチの旦那様は『妻殺し』だ!」


 ――と。

そんな話が世に出れば、アイボリー家は品位を疑われ、公爵家としての立場が危うくなる。

そこでアイボリー家の先代当主――つまりレティシアの父方の祖父はアイボリーを守るため、とある噂を流した。

 

曰く、ファーラン・エスピノーザは名門貴族の公爵である父をたぶらかした【魔女】であると。

曰く、そんな女の娘であるレティシアも薄汚い売女であると。


ありもしない中傷やレッテルを貼り付けて、アイボリー家はレティシアを「一族の恥じ」として暗くて狭い屋根裏部屋に閉じ込めた。

 

与えられた部屋は暗くてほこり臭い屋根裏。

食事は一日一回で、粗末なパンと廃棄寸前の牛乳のみ。

服は捨てられたカーテンを縫い合わせて作ったものか、アリアナのお下がりばかり。


助けてくれる人なんて一人もいなかった。だってレティシアに手を差し伸べてしまえば、明日は我が身だ。

よって暗くて寒い屋根裏部屋の隅で、レティシアはいつも独りぼっちで泣いていた。

彼女の心を慰めてくれるのは雨宿りにきたハツカネズミと、母の形見の装飾ナイフだけ。

しかしそんなレティシアの姿をみてアイボリー家の人間は可笑しそうに笑うと、彼女のことをこう呼んだ。

 

「屋根裏部屋の灰かぶり」と。




 ◆




もしもすべての人間にたった一度だけ、魔法使いが願いを叶えてくれるような幸福が訪れるとするならば。

レティシアはきっとこう願うだろう。


『消えてしまいたい』

 

レティシアは別に復讐も逃避行も望んではいなかった。

ただ、消えてしまいたい。

きれいサッパリこの世から消えて、誰の記憶にも残りたくない。

もう何も考えたくなかった。


誰も知らない静かな海辺で、波の音を聞いていたかった。




◆◆◆




蝉の声がずっと眼球の裏側で聞こえていた。

夏の思い出だった。あ、いや冬だったか?

とにかく蝉が鳴いていた。

自分は……あぁ、そうだ。流行り病にかかって死にたかった。

だから病院に行ったんだ。

頭が痛かったなぁ。頭が痛かった。

少しでも気を抜けば、臓物をすべて吐き出してしまいそうだった。

 

女は語る。

 

死んでいいって言われたんだ。

酷い話だよなぁ。

死ぬにも他人様の許可がいるなんて知らなかった。

 ――まぁでも、天使にキスされた気分だったよ。

 

 

女の享年は26歳で、死因は脳震盪だった。

 

女は北陸の山奥で生まれた。

そこは一年中雪が降っているような雪国のくせに、真夏は蝉の声が酷くうるさい場所だった。

あまりにうるさいので、母は女に夏の名前を付けた。

だから女が生きている間は頭の中でずっと蝉が鳴いていた。

 

女は故郷でありきたりな青春を過ごし、高校を卒業して東京に出た。

高卒で雇ってくれる企業はもう令和の時代には少なく、女は安定した仕事を探すのに多少苦労して、見つかるまでの間は夜の街のキャストとして職を繋いだ。


そこで女は一人の男に出会った。男は都内でそれなりに大きな会社を経営しているらしく、女が昼職を探しているという話を聞くとすぐに雇いたいと言ってきた。

男は店での羽振りもよかったし、着ているものもいいものばかりだったので、女はその話をあっさりと信じた。

それに男は若いころに嫁と娘に逃げられたらしく「娘も今頃キミくらいの年なんだ」と言って、女を実の娘みたいに可愛がってくれる上客だったのだ。

だから女は胸元の空いたドレスをぬいで、ベーシックなスーツで男の経営する会社に転職を決めた。


そしてそこは、彼女の棺桶になった。


「なんで出来ないんだ!!俺は分かりやすく教えてやったんだぞ!!」


上司は子供がそのまま大人になったような、親の力で就職をした加齢臭のする太った男だった。

無能なくせに毎日年老いたママのご飯を貪っているせいで力が強く、図体がデカいので、めちゃくちゃに腕を振り回されるだけでひとたまりもなかった。


女は騙されたのだった。

しかし騙されたと気が付いた時には、もうすべてが遅かった。


男の会社はその筋ではかなり有名な……いわゆるブラック企業というものだったらしい。

何年か後に会ったキャバクラの元同僚が「娘に会いにあんなとこ行く男なんているわけないじゃない」と教えてくれた。

社会って優しくないな、と入社してすぐにぶたれた右頬っぺたを抑えながら女は思った。

 

それから女は文字通り馬車馬のように働いた。

昼も夜も始業時間も就業時間もないオフィスの中で、一日中デスクトップに張り付いてキーボードを叩いた。

入社面接の時に、面接官の男は「ノルマとかはないから安心してね」と微笑んでいた。

全くその通りで、女の仕事にノルマは存在しなかった。だから、終わりも存在しなかった。


シャワーにすら入る時間がなくて、濡れタオルで身体を拭い、台所のシンクで頭を洗った。

服は洗濯する暇がないから、三日着たらマンションのゴミ捨て場に捨てて、新しいものを買った。

金はあった。雀の涙ほどの給料でも使わず放っておけば、彼女の通帳にはすぐに0が6つ並んだ。

ボランティアに寄付でもしようかなと思った。そしたら来世は少しくらいマシなものになるかもしれない。


全てが曖昧にぼやけた世界の中で、吐き出した煙草の煙だけが鮮やかだった。

 

「あ、煙草行く?一本奢ってよぉ」

「やだ。アンタ甘いのしか吸わないじゃん」


女が喫煙所に行く時、決まって後を付いてくる同僚がいた。

ワンテンポ遅れるような間延びした喋り方をする彼女は、抜きっぱなしブロンドの髪をチャームの付いたピンクのシュシュでまとめていて、寝不足で凸凹になった顔に赤いリップだけを塗った、女と同じこの会社の被害者だった。

そしてものすごく甘い香りのする煙草を吸うのだ。

女はその甘ったるい匂いが嫌いだったが、同僚のことは嫌いじゃなかった。

 

同僚は煙草を吸うときいつもボカロを爆音で流している。

かがみね?だったかよくわからないが、初音ミクではないやつが好きだと言っていた。


けれどその日は違った。


「なに?ゲーム?」

「そぉ。今流行ってるやつ」


同僚はバキバキに割れたスマホの画面を横向きにして、なにやら一生懸命にセリフを選択していた。

RPGゲームかしらと女が画面を横から覗くと、ちょうど銀髪の美少年が「好きだ」と栗色の髪のヒロイン?に告白をする場面が見えた。

 

「こんな世界の終わりみたいなとこで働いてンだからさぁ、ゲームの中でくらいイケメンと結婚したいのよぉ」


同僚は女の方に画面を傾けると、銀髪の子を指して「これ推し」と言った。

長い銀髪をポニーテールにして、赤い目の色をしたそのキャラクターに女はどこか引っかかりを覚えたが、「いいキャラデザしてんね」という感想以外出てこなかった。

 

「つかゲームする元気あんの?」

「や、逆。もう寝る元気もないんだよねぇ」


同僚は女が入社する三年ほど前からこの会社に勤めているそうだ。

つまり、女より三年分寿命が短い。

眠りにつくのにも体力がいる。老化が進むにつれて睡眠時間が短くなるのはそういう理屈である。

……同僚の身体はもう限界だった。


「でもさぁ、死にたくないから未練作ってんの。あのゲームのエンディング知りたかったなぁ、ワン○ースの在処知りたかったなぁって」

「ワ○ピースの在処は私も知りたい」


軽口を叩いてフィルターに口を付ける。

ブワと膨らんだ煙が目に染みて、眦に涙が浮かんだ。


「楽に死にてぇ~~」

「まァどっちかっつーと『消えたい』の方が正しいかもな」

「あは、言えてるぅ」


この会社では、過労死と過労自殺は事故として処理される。

なんでも社長の男が黒い繋がりを持っていて、人間の生き死にを操作してるらしいのだ。

自分たちの命は下水道を蔓延るハツカネズミと大差ない。


だから死は救済じゃく、絶望だった。

 

「アタシが死んだらさぁ。アタシの未練、アンタにあげるよ」

「えーいらなぁい」

「ね、アンタは死んじゃダメだよぉ。アンタもアタシの未練の一部なんだから」

 

同僚は未練と呼んだが、それはまさしく祈りで、希望だった。

後にも先にもないただ唯一の光だった。

 

彼女の吸っていた煙草は頭が痛くなるほど甘い香りがした。


その残り香を、女は今でも懐かしく思う。

 

 

次の日の朝、同僚は会社の物置で天井からぶら下がった状態で発見された。

薬で錯乱したまま首を吊ったのだろう。顔中がひっかき傷で原型がわからなくなり、半裸で宙に浮いた同僚を見て、上司はギャアギャア声を上げて怯えていたが、女はてるてる坊主みたいだなぁと思った。

それから同僚の足元に転がっているパンプスが上を向いているのを見て、明日は晴れるなぁ、とも。

冷たい物置小屋の床には丸ごと切り取られたみたいにブロンドの髪をまとめたままのピンクのシュシュが落ちていた。

 

頭の裏側で、蝉の声が聞こえた。




◆◆◆




「――っ!!」


ガツンッ!と頭を思いッ切り殴られた心地がして、女の意識は一気に浮上した。


「ッ、はぁー……」


腹の底に溜まった重苦しい空気を吐き出す。じっとりしたと嫌な汗が背骨を流れて、心臓はがくがくと震えていた。

 

 ――あぁまったく、なんて夢を見せやがるんだ。

 

久しく忘れていた彼女の……頭が痛くなるほど甘い煙草の匂いが鼻腔に思い出される。


あれからもう何年経っただろう。彼女が死んでも、女の生活は何ひとつ変わらなかった。ただ、喫煙所での話し相手が減った。それだけだった。

上司に殴られ、奴隷のように働き続ける。朝も夜もないブルーライトが照らす穴ぐらの中で、くゆらせる煙草の煙が一本、減っただけだった。


「なんで今になって思い出す……」


まだ仄暗い視界を腕で覆い隠し、瞼の向こうに彼女の幻影を追いかける。

 

本当に、どうして今さら。死んでから会いに来たことなんか一度もなかったくせに。

それとも自分を迎えに来たとでも言うのだろうか……。


柄にもなくロマンチックなことを考えながら、女は乾いた咳を三つした。ずっと眠っていたせいで喉の奥は剣山みたいに乾燥していた。

 

……そう言えば、自分はいつの間に眠ってしまっていたんだろう。今日中に仕上げなきゃいけない資料がまだ山ほどあるはずなのに。それに変な夢を見たせいで無性に煙草が吸いたい。

 

女は固いベッドから起き上がり、額に張り付いた髪をどかそうとして――はた、と異変に気が付いた。


「――は?」


肩口から垂れ下がった女の髪は日本人のそれではなく、あのピンクのシュシュでまとめられていた髪と同じ色をしていたのだ。

あの物置小屋に捨てられた、抜きっぱなしブロンドの長い髪。なぜそれが自分の頭皮から生えている――?

 

強烈な違和感が頭の中を満たしていく。


「っ――!!」


女は身体の上にかかっていたシーツとも言えない粗末な布切れをひったくるように剝がして、起きてからずっと視界の端に入っていた――しかし今初めて認識した壁掛けの鏡に飛びついた。

そして――

 

「……」


月明かりの下、まっすぐに見据えた鏡の裏側で、見知らぬ少女のシアンブルーの瞳と目が合った。

彩度の低い、冬の空の色である。大きく開いた瞳孔はキラキラと輝いていて、ともすれば海底に眠る宝石のようであった。


日本人の遺伝子ではまず有り得ない人体の配色だ。


女は緩く波打つ金色の髪を手のひらで掴んだまま、銃口を向けられたみたいに動けなくなってしまった。

 

 ――なんだ、コレは。なんの冗談だ。


女は不自然に固まったまま、鏡に映る少女の顔をまじまじと眺めた。

 

……歳は15、6といったところだろうか。スラリとした体格と大人びた顔つきから正確な年齢を判断するのは難しいが、女より一回りは年下に見える。

長く垂れた前髪の隙間から覗く顔の造形は恐ろしく整っていて、小ぶりで高く尖った鼻の横にはアンバランスなほどに大きな瞳が埋め込まれている。肌は死人のように白くて薄っすらと血管が透けて見えた。乾いた唇の端からは血が出ていて……その色はどんな上等なルージュよりもこの娘によく似合っている。


腕の立つ彫刻師が生涯の最高傑作として創り上げた女神像のようでもあったし、男の魂を喰って生きるフランス人形のようでもあった。


そういうどこか不気味で不健全な美しさを持った少女が、鏡の向こう側でじっとこちらを見つめていたのである。


「はは、……」

 

震える指先で頬の輪郭をなぞる。カサついた指の腹の皮が引っかかってチクリと痛んだ。

 

子供の拳ほどしかないこの顔は、よく見れば元の身体と同じような面をしていた。顔の造りの話ではない。色々なことを諦めてしまった“そういう”人間特有の、身体の内側から滲み出る絶望の色が、この見知らぬ少女の瞳には浮かんでいたのだ。

 

女はふらつく足で一歩、また一歩と後ずさる。

ドンッと背中が反対側の壁にぶつかって、そのままズルズルと座り込んだ。

 

「なに、これ…ナイフ……?」


そうして凭れ掛かった壁の、ちょうど目線のすぐ隣。むき出しになった木目を切り裂くようにして、刃渡り10センチほどの小さなナイフが突き立てられているのを、女は見つけた。

素人目にもわかる上等な銀細工が施された装飾ナイフ。けれど少し古くて、使い込まれた形跡のあるそれに、女は何故だか見覚えがある気がした。

 

 ――なんだろう。なにか……なにかとても重要なことを忘れている気がする。


わからない。なにも思い出せないが、女はとにかくこのナイフを引き抜かなければならないと思った。

その理由も、女にはわからないが。

 

女の手がゆっくりと壁に突き立てられたそれに吸い込まれていく。

 

そして繊細に加工されたナイフの銀刃を壁から引き抜いたとき、バチンッ!と何かが弾ける音がして――次の瞬間、脳ミソに直接コンセントを差し込まれたかのような衝撃が頭の中を駆け抜けた。

 

「ッあぁああぁああ!!!」


脳幹から背骨にかけて、張り巡らされた神経のすべてに焼けるような痛みが走る。

脳が膿んだみたいに熱くて、女は右手にナイフを持ったままその場にうずくまった。


『――強く生きなさい』


頭の裏側で声が聞こえる。

少し低い、凛とした女性の声だ。


その言葉が、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、頭の中をリフレインする。

 

『レティ、おまえは強く生きなさい』

『強く生きなさい』

『強く』

『強く』

『強く』

『強く生きなさい』

『レティ、レティ、レティシア』

『レティ、おまえは――』


『――思い出せ!!!』

 

視界が真っ赤に染まった。どこかの血管がイカれてしまったのだろう。

口の中に苦い鉄の味が広がって――女の狭苦しい海馬に“レティシア”の記憶が濁流のように流れ込んだ。


「カハッ――!」

 

 ――悔恨、嫉妬、憎悪、嫌悪、激情、怨怒、孤独、恐怖、不安、羞恥、殺意、不平、怨恨、不満、狂気…。


この世に存在するすべての負の感情がごちゃ混ぜになって女の脳ミソを激しく揺さぶる。

腹の底から湧き上がる強烈な後悔が胃を突き上げて、中身が食道を逆に流れた。


「ぅ。ガッ、」

 

背中の骨、若しくは脊椎が刺されたみたいに痛くて息が上手く吸えない。

女は殴られたときの悲鳴を上げながら、めちゃくちゃに頭をかきむしった。


痛みで目を見開いているはずなのに、網膜は上映前のスクリーンみたいに真っ暗でなにも見えない。

“レティシア”の記憶の処理に脳機能が追いついていないのだ。

記憶というものは経験と結びついて初めて脳ミソのキャパシティに大人しく収まることが出来る。物を覚える時に身体を動かした方が効率がいいのはそういう理論である。

経験を伴わない記憶が入り込むということは、空に浮かぶ雲の形をひとつひとつ寸分の狂いもなく覚えるのと同じようなもので、絶え間なく吹き荒れる風の流れを止めない限りは不可能なことだ。

脳がパンクして廃人になったっておかしくない。むしろこの程度で済んでいるのは奇跡である。


それほどまでに他人が生きた時間の価値というものは重たかった。


「っ――、――!」


しかし“レティシア”という娘の人生は違う意味でも酷く重たいものだった。

たった15歳の、世間一般でみればまだほんの子供のはずなのに……彼女の人生はいつも涙に濡れていて、湿った泥の匂いがした。

“レティシア”の生きた15年の月日を絶望と後悔の念がイルミネーションみたいに彩っていて、そればかりがピカピカと輝いて見えるのである。


狭くて暗い屋根裏部屋で、彼女はいつも独りぼっちだった。

荒れた指先を握りしめて、じっと寒さに耐えていたのである。

 

『ごめんなさい』


屋根裏部屋の片隅で、金髪の少女が小さく膝を抱えて座っている。

顔が隠れていて表情は見えないが、その言葉はたしかに女の耳に届いた。


『グズでごめんなさい。役立たずでごめんなさい。穀潰しでごめんなさい。無能でごめんなさい。弱くてごめんなさい。生まれてきてしまって――ごめんなさい』 


平坦な声だ。自分に生きている価値なんかないと思っている人間の声。

女はその声をよく知っていた。


だって、自分も同じだったから。


乾いた眼球から溢れた涙と飲み込み切れない唾液が混ざり合ってパタパタと床に落ちる。

それでも女は痛む身体に鞭を打って、少女の方へと手を伸ばした。


「いいの……謝らなくてもいいの。貴女が謝ることなんて、一個もないんだよ……」


少女の金色の髪を、そっと撫でる。

神経がむき出しになった手のひらは空気に触れるだけで焼けたみたいに痛くて……それでも女は茨のように荒れた金髪を撫で続け、少女に言葉を掛けた。


「レティシア、聞いて」


 ――ずっと、誰かに言って欲しかった言葉。

それを今この子に言うのは女のエゴでしかない。

それでも言わずにはいられなかった。


「――レティシア。生まれてきてくれて、ありがとう」


果てしない希死念慮の終着点。

一瞬、こちらを見て微笑む少女の顔が見えた……気がした。

そして――

 

「はっ、はっ、ぁ。ぐ――っ」


突然ブレーカーを落とされたみたいに、すべての音と痛みが止んだ。


「ゲホッ、ぅ。おぇ」


何度も空嘔吐きを繰り返し、ゼイゼイと乱れた息を肩で整える。

 

 ――あぁそうだ。全部思い出した。


“レティシア”のことも、自分自身のことも。

自分はあの日、同僚のあの子が死んだ次の年、上司に殴られて――打ちどころが悪くて、死んだんだった。

ズキズキと痛む後頭部を手のひらで抑える。

べったりとこびりつく血の感覚は、きっと女の気のせいだ。


「は。はは、あは……」


よく分かった。ようやく理解した。

自分は結局、最後までなにをするでもなく殺されたのだった。

 

ひと言ぐらい、言い返してやればよかった。

一発ぐらい、殴り返してやればよかった。

殺されるぐらいなら、いっそ殺してやればよかった。

 

……まぁ、自分はそんな勇気も度胸も持ち合わせてはいなかったのだけれど。


とめどなく溢れる後悔が、口の端から漏れる。

 

「あははははははッ!!!」


やってらんない、と女は投げやりに笑った。

だってこんなのって……あまりにも滑稽だ!

 

衝動に駆られるまま持っていたナイフを床に突き刺す。

それでも足りなくて、女は何度も何度も右手を振り降ろした。

 

「ふふふ、あは、ふ。ぅ……っ!」


なんてくだらない、あぁ本当につまらない人生だった!

いっその事、もうやめてしまおうか。

だって生きていたっていい事なんか何もなかったのだ。ただ無駄に生命を浪費しているだけ。それならば最期くらい楽な道を選んだっていいじゃないか。


そうだ、その方がきっと“レティシア”だって――


『ね、アンタは死んじゃダメだよぉ。アンタもアタシの未練の一部なんだから』


眼球の裏側で彼女の言葉が甦る。

頭が痛くなるほど甘い、甘い煙草の匂い。

彼女はもう何処にもいないはずなのに、その残り香が目に染みて女は涙を流した。


 ――ごめん、私もワ○ピースの在処、わかんなかったわ。


いつか交わした、喫煙所での軽口。

なんてことない無駄話の一端。

けれどもそれは後にも先にもないただ唯一の光だった。

 

この屋根裏部屋はもしかすると彼女の未練が象った世界なのかもしれない。いいや、きっとそうだ。これは彼女の短い夢の続きなのだろう。

 

世界は平等に不平等で、自分ばかりがその割を食って生きてきた。

レティシアも自分も、他人なんかのせいで心を殺された。

地獄の底で、ただひっそりと息を殺して生きてきた。


こんな……こんな理不尽が許されてなるものか!

 

王子様も魔法使いも、一番辛い時に助けてくれなかった。

消えてしまいたいと祈っても、願いを叶えてはくれなかった。

小さくうずくまって涙を流しているだけじゃ、果報なんてやってこない。


世界は優しくないのだ。

自分に優しいのは、結局のところ自分自身だけだった。

 

 ――それならばきっと、自分を救えるのも自分自身だけだ。

 

ふらつく身体を起こして鏡を覗く。


「レティシア。貴女も……同じ地獄を生きていたのね」


女は鏡に映るレティシアの輪郭を爪を立てて引っ搔くようになぞった。キィと嫌な高音が鼓膜を突き刺す。


「大丈夫――“私”が“レティシア”(貴女)の王子様になってあげる」


床に刺したナイフを引き抜き、長く垂れ下がった前髪を短く切りそろえる。

ピンクゴールドの毛束が、屋根裏部屋の粗末な床に散らばった。

レティシアの宝石のように輝くシアンブルーの瞳が月の光にキラキラと反射する。


「さて、まずはカボチャとハツカネズミを探さなくちゃ」

 

そう言うと女は――否、レティシアは鏡に映る自分にナイフを突き立て、屋根裏部屋を後にした。

 

蝉の声はもう、聞こえない。



 

◆◆◆



青白い月明かりが辺りを煌々と照らしている。

レティシアは使用人たちが身支度を整えるために使う浴場で身を清め、濡れた髪を夜風で乾かしながら屋敷の奥を目指して歩いていた。


薄暗い廊下にはレティシアの足音しか聞こえない。しかし彼女が一歩また一歩と軽やかな足取りで歩を進めるたびに、ズズ…ガガガ……と不気味な音が閑散とした渡り廊下に反響する。重たい金属が床を削って響く音だ。

レティシアは自分の腕ほどある凶悪な斧を鼻歌まじりに引きずって歩いていたのだった。


これは屋敷の裏にある納屋から拝借して来たもので、何に使うのかと言えば……


「……」


レティシアは廊下の突き当りで止まると、ゾッとするほど美しいシアンブルーの瞳で目の前の扉を眺めた。

鎖が幾重にも巻かれ、南京錠で頑丈に鍵をかけられた重たい鉄の扉。

ここは昔、まだ母が生きていた頃に使っていた部屋だった。

もう八年も前の話になるが、レティシアにとってこの部屋は母と過ごした愛しい監獄で、母を飼い殺した忌々しい鳥籠だった。

  

「えいやっ」

 

その扉に巻かれた鎖目掛けて、レティシアは斧を思いッ切り振り下ろした。ガキンッと鈍い音がなって、赤い火花がチカチカと散る。

予想よりも反動が大きくて、弾かれた斧が腕からすっぽ抜けた。

しかし頑丈な鎖はびくともしない。

これはなかなか骨が折れそうだ。物理的にも。


落した斧を拾って、次は両の手でしっかりと握りしめる。肩を痛めないよう腕全体に力を入れて、頭の上からもう一度斧を振り落した。

 すると今度は鎖の繋ぎ目に当たって……扉は思っていたよりも簡単に開いた。


ギィ、と軋む音がして、両開きの扉がゆっくりと開く。

……懐かしい母のラストノートがレティシアの頬を撫でた。

  

持っていた斧を投げ捨てると、レティシアは存外すっきりとした気持ちで中へと足を踏み入れた。



母が死んでもう随分経つはずなのに、部屋の中はあの頃のままだった。

少ない家具の配置も、湿っぽい壁紙の色も、不自然に開いたクローゼットの隙間も、机に置かれたインクの量でさえ。

記憶の中をそっくりそのまま写し取ったみたいに鮮やかで……まるで今でも主の帰りを待っているようだった。


ここに帰ってくる人間なんか、もう一人もいないのに。


「……気色悪い」

 

父がこの部屋を定期的に手入れをさせていることは、屋敷の誰もが知っていた。みんな知っていて、見ないふりをしていたのだ。

父は――あの男は母が死んでもなお母の魂を縛り付けようとしていた。母の死を受け入れず、己の罪から目をそらして。

もしかするとこの部屋に囚われていたのは父の方だったのかもしれない。

まぁだからといって、あの男を許す気は一ミリたりともないのだけれど。


「ただいま」


ホコリひとつない純白のドレッサーを指の腹でなぞる。

 

母が死んだ八年前のあの日以来、レティシアがこの場所を訪れたことはなかった。それは父が許さないかったのもあるが、レティシア自身それを望んでいなかったからでもある。

だってこの部屋はあまりに残酷すぎる。人生で最も幸福であった時間のほとんどをこの場所に置いてきたのだ。

母と過ごしたすべてに決着をつけられるほど、レティシアは大人ではなかった。

 

カーテンの隙間から差し込む月明かりを頼りに、ローチェストに置かれたランプに火をともした。ジ、と音がして部屋の中が薄ぼんやりと明るくなる。

 

レティシアはドレッサーの前の椅子に足を組んで座り、暖色に映し出された自らの顔をなにでもなく眺めた。

 

改めて見ると、この顔は本当に母に似ている。目の形も肌の色もそっくりだ。

身長は母と同じか少し高くて……並び立って歩いたならばきっと見分けがつかなかっただろう。まさに「生き写し」というやつだ。

きっと足のサイズも同じはず。


 ――これなら問題なさそうだ。


レティシアはまだ少し湿っている髪を手櫛でまとめ上げ、頭の高い位置で大きなお団子を作った。

それからローチェストの二段目の引き出しを開けて、真新しい煙草の箱と銀色のライターを取り出した。

これは母が時折吸っていたもので……しけっているかと思ったが、案外いける。父が定期的に交換していたのかもしれない。心底気色の悪い男である。


「ふー……」


ゆっくりと煙を吸って、天井に向かって吐き出す。

この身体で煙草を吸うのは初めてのことだったが、魂に刻まれたニコチンの記憶というものは簡単には落とせないらしい。

脳の裏側からドーパミンが放出されるのを感じながら、レティシアは目を閉じた。


これから何をするのかは決まっていた。

 

もちろん、レティシアと母を苦しめて心を殺した奴らを一人残らず殺しに行くのである。

首をくくった母と同じ目に合わせて、レティシアが受けた屈辱をそっくりそのまま返し、最後はキチンと殺してやるのだ。

復讐だなんてそんな崇高なものじゃない。もっと自己中心的で、利己的な行いだ。

これはレティシアから過去の自分たちへ、愛を込めた贖罪だった。

 

しかしそのためにはまず下準備をしなくてはならない。


この世界には最も優れた暴力の方法として「魔法」というものがあるらしいが、レティシアにはそんなもの使えやしない。手のひらで炎を操ることも、空気中から水を生み出すことも今の彼女にはできないのだ。


レティシアの味方はレティシア自身だけで、レティシアの武器もまたレティシア自身だけだった。

 

だからレティシアはその身一つで地獄の底から這いあがる必要があったのだが……幸運なことに、レティシアにはそのあてが付いていた。

そのためにわざわざパンドラの鎖を引きちぎって、八年ぶりにこの部屋へとやって来たのである。


「……」


遠くの空で教会の鐘が鳴っていた。


レティシアはその音が完全に聞こえなくなるのを待ってから瞼を上げた。

それからクローゼットの前まで歩いていき、薄く開いたその扉を勢い良く開ける。

防虫加工のハーブの匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。


クローゼットの中身も、やはり変わっていなかった。

 

レティシアはそれを確認すると一人で軽く頷き、靴やアクセサリー、メイク道具にヘアアクセなど女のおめかしに必要な物がこの部屋に全部揃っていることを確かめてから、もう一度深く頷いた。


 ――レティシアに魔法は使えない。これは紛れもない事実で、揺るがない現実だ。


しかし“女”は別だった。

“女”にとっての魔法とは、それすなわち「化粧」であった。

見せたくないものを覆い隠し、キラキラと輝くパールのラメで彩ってくれる。

 

目が覚めるような鮮やかな口紅は彼女をクインビーにしてくれた。

天の川のように煌めくアイシャドウは彼女を織姫様にしてくれた。

 

私たちはなんにだってなれるのだ。

 

メイクアップはいつだって女性に勇気をくれる最もロマンティックな魔法だった。


煙草を灰皿に押しつけて火を消す。

粗末な布切れを脱ぎ捨てて、背筋をスッと伸ばした。

レティシアの白い肌に月光がキラキラと反射する。

 

「Bibbidi-Bobbidi-Boo……だったかしら?」


ガラスの靴なんて必要ない。

ファム・ファタールの香水と、それから強気なルージュがあれば“女”には充分だった。

 

鏡の前で唇に色を吹き込むその瞬間、彼女は間違いなく魔法使いだったのだから。

 

 ◆


 ――夜の仕事をしていてよかった。


適当に纏めたお団子をほどいて、バサッと背中側へ流す。

それをブラシで念入りにとかして、手で癖をつけるようにクルクルと内側に巻いてやる。それからカメリアのオイルを数滴揉み込めば、金色の髪はそれだけで本来の輝きを取り戻した。

レティシアの髪は生まれつき緩くウェーブがかかっていて、その向きさえ綺麗に揃えてやれば扱いやすく、それだけで下手な小細工をするより余程美しいのだが……豪勢なドレスを身にまとうなら、やはりアップスタイルの方が合っているだろう。

手鏡で後ろを確認しながら小さな三つ編みや編み込みを数本つくり、腰まである長い髪を頭の高い所で一つにまとめ上げ、最後に宝石で出来た薔薇の花弁を差し込んだ。

 

ひと頻り髪の毛をイジり終えたレティシアは、次にドレッサーの引き出しをガラッと開けた。

中には昔あの男が母に送った一級品のメイク道具たちがひしめいていて、魔法で保護されているらしくどれも新品のまま綺麗に並んでいる。形は少し古いが“女”がかつての仕事道具として愛用していたコスメたちと大差ないものばかりであった。


レティシアはまず華奢な小瓶に入った保湿剤を贅沢に出して、顔全体にしみこませるように塗り込んだ。

それからイエローの下地を塗り終えた肌にファンデーションを広げていく。ほとんど使われた形跡のなかったそれは、レティシアの死人のような顔色を綺麗に隠してくれる。

目の下に棲みついた隈をコンシーラーで消して、パウダーをはたき込めば陶器のように美しい肌が完成した。

次に二番目の引き出しを開けて、色とりどりのパレットの中から濃いブルーのアイシャドウを選び取り、幅の広い瞼の上にのせていく。目尻にかけてグラデーションをつくり、真珠色のラメを重ねた。下瞼には軽く締め色を引いて、もともと量の多かったまつ毛はたっぷりとマスカラを塗ってさらにボリュームを出す。

頬骨に沿ってシェーディングをして、鼻先と目頭にはハイライトで光を入れた。


そして最後にチェリーレッドの口紅を引けば――


「あら、意外とサマになるじゃない」


鏡の中に母の――「金剛百鬼」と畏れられた鬼のような美貌が甦る。

シアンブルーの瞳はアイメイクによってさらに迫力を増し、水晶玉の輝きがランプの中で揺れる炎を映し出す。

精巧に創り込まれ、均整の取れた顔面に多少のあどけなさは残るが、それすらもレティシアの美しさを引き立てていて……彼女はおとぎ話のお姫様のようだった。


屋根裏部屋の隅で膝を抱えて泣いた少女はもういない。

冷たい物置小屋で絶望に膝をついた女も、もういなかった。

ここにいるのは、真っ赤なリップを纏った美しい女ただ一人である。


メイクの微調整を終えたレティシアは、最後の仕上げにクローゼットの前に立った。

 

そして細い腕をザッとドレスの海の中に突っ込んで、左右に搔き分けながらクローゼットの奥まで辿り着き、そこに大切に・隠すように保管されていた優しい青色のドレスをそっと眺めた。


レティシアの瞳と同じシアンブルーのドレス。正しくは、母の瞳と同じ色のドレス。


これは母がこの家に囚われる前から持っていた唯一の嫁入り道具で、母はこのドレスを後生大事にしていた。なんでも“大切な人”からもらったものらしい。

その“大切な人”とやらが誰かは知らないが、このドレスを贈った人物も母のことを大切に思っていたことが簡単に見て取れる。

そう思えるほどに強いこだわりと深い愛情を持って造られたドレスだった。

 

レティシアはそうして暫く母の人生に思いを馳せてから、ロココ調のそれをハンガーラックから外した。

それからアンダードレスやらパニエやらをごっそりと着込んで、なんとかドレスに腕を通した。

さすがに本格的なドレスを一人で着るのには骨が折れたが……そこはキャバクラ時代の経験が活きたと言えよう。バースデーでイブニングドレスを着せてくれた支配人に心の中で礼を言った。


レティシアの胸元で大粒のダイヤモンドがキラキラ光る。

ドレスのしわを伸ばすためにクルリとターンをすれば、無数の宝石たちがレティシアの動きに合わせて輝きを増した。

レース生地の手袋を肘まではめて、糖度の低い香水をくぐる。

金剛石で出来たミュールの踵を二度鳴らした。


「……ガラスの靴も、案外悪くないわね」


そして鏡に映った女の美貌を眺めて、レティシアは満足気に頷いた。

 

準備は上々。あとは目的を果たすだけだ。

敵は本能寺にあり。

 

ランプの火を真っ赤にうるんだ唇で吹き消して、レティシアは重たい金属の扉を閉めた。

カツン、と気高いヒールの音が閑散とした廊下に響く。

彼女は振り返らない。


灰を落したシンデレラの道を阻む者など、もう誰もいないのだ。


『いってらっしゃい、レティ』


少し低い、凛とした声が優しくレティシアの背中を押した。






ー切ー


尻切れトンボ。ここからレティシアの復讐劇が始まるのか…!?それとも始まるのか…!?

需要があれば続き書きます。読んでくれてありがとね〜

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