(12) 脱皮
一日一日はあっという間に過ぎ去り、土曜日になった。
お昼の少し前、わたしはとあるマンションの前に立っていた。
その後、遅れて早百合と野薔薇ちゃんもやって来る。
ちなみに、この場所のことは野薔薇ちゃんから事前に教えてもらった。
二階まで上がり、一番奥のドアまで向かう。
横のチャイムを押すと、しばらくして眠たげな顔で美樹ちゃんが顔を見せた。
初めのうちはボーっと外を眺めていた美樹ちゃんは、わたしたちの顔を見るなりすぐにドアを閉めようとする。
しかしやっぱり悪いと思ったのか、少ししてから再び開けてくれた。
「……何か、用かな?」
少し不機嫌そうに尋ねられ、慌てて用件を切り出す。
「今日も、合唱の練習があるんだけどさ、よかったら行こうよ。一緒に!」
美樹ちゃんは少し考えてから、申し訳なさそうに返事した。
「……ごめんね。うちなんかいたって、どうせ迷惑だろうし、やっぱいいよ。
ほら、他にうまい人なんて沢山いるはずだから、うちなんかより、そういう人たち誘った方が絶対いいに決まってるって。うちも、応援はするからさ」
そして、美樹ちゃんは今度こそドアを閉めようとする。
閉まる寸前の彼女の顔は、今にも泣き出しそうに見えた。
だからかもしれないけれど、気づいたら声に出してしまっていた。
ドアがすんでのところでピタッと止まる。
「うちなんか、なんて、そんな寂しいこと言っちゃだめだよ!」
思わず、感極まって涙があふれてしまう。
美樹ちゃんはそれを見るなり、オロオロしながら周りに助けを求めだした。
すると、後ろから野薔薇ちゃんの低い声が聞こえてきた。
「なあ、美樹。さっきのは、本当にお前の本心なのか。せいぜい半年しか付き合いないけどな、私の知ってる美樹というやつは、そんな情けない言い訳ばかりする弱虫じゃなかったはずだが」
「……わらちゃんに。わらちゃんに、うちの何がわかるのさ!」
今度は甲高い叫び声が廊下に響く。
流石にこれ以上騒ぐのは近所迷惑になるので、全員で近くの空地まで移動することにした。
「……悪い、少し言い過ぎた」
「こっちこそごめん」
空地に辿り着くなり、お互いに謝る二人。
その後、野薔薇ちゃんが優しく諭した。
「確かに、私はお前のことを何も知らない。でも、一つだけ確実に胸張って言えることがある。
それは、お前が自分をひたすら卑下できるようなやつじゃないってことさ。馬鹿みたいに明るくて馬鹿みたいにいい性格してんだから、そこはもっと自信持っていいんじゃないかって思うが」
美樹ちゃんはしばらく黙って聞いていたけれど、やがて顔を上げて言い返す。
「……うん。というか、馬鹿馬鹿言い過ぎだよ!」
そして、声を上げて笑いだした。
わたしも早百合も、それから野薔薇ちゃんも後に続いた。
ひとしきり笑った後で、わたしは改めて美樹ちゃんに自分の気持ちを伝えた。
「わたしね、初めて会った時に聞いた美樹ちゃんの歌声、とても好きだったんだ。確かにもっとうまい人は沢山いるだろうし、その人たちで集まった方が、音楽として伝えられるものも多いのかもしれない。
でも、大事なのはきっとそれだけじゃないと思う。わたしは、歌のうまい誰かと歌いたいんじゃない。美樹ちゃんと歌いたいんだよ。だからさ、一緒に歌お?
ここには美樹ちゃんの好きなものを否定するような人、誰もいない。だから自信持って歌っていいよ。そして、一緒に皮を破ろうよ。青虫からさなぎに、そして蝶に脱皮しよう!」
「なんじゃそりゃ」
わたしの熱弁とは裏腹に、美樹ちゃんも野薔薇ちゃんもケラケラと笑い始める。
やがて美樹ちゃんが目元を拭いながら言った。
「怖かった。本当は一緒に歌いたいのに、迷惑かけてしまうとか、気を遣わせるとか、弱気なことばかり考えて、自分から何もしようとしなかった。ねえ、こんなうちでもいていいのかな?」
「いいに決まってるじゃん。歌が好きなら、歌いたいのなら、大歓迎だよ!
それに、気を遣うなんて心配もいらない。特に、こちらにいる早百合先生は、かなり容赦ないんだから」
「こら、桜良! そこまではないからね。
……でも、私だって、美樹ちゃんと仲間になりたいって思ってる。この間は早とちりしちゃったけど、私もまずはちゃんと仲良くなって、それから音楽が好きな者同士、できたら一緒にずっと楽しんでいきたい。
だから、こんな私でもよければ、これからどうぞよろしくね」
やがて、その場にしゃがみこむと、美樹ちゃんは声にならない声を出して泣き始める。
そんな彼女に野薔薇ちゃんがそっと手を差し伸べた。
「良かったな、美樹。お前には、こうやって好きなことを一緒にやれる仲間ができたんだ。だから、もう自分の気持ちに嘘をつかずに、前を向きなよ。私もそれとなく見ててやるから」
その手にそっと導かれながら、美樹ちゃんはゆっくり立ち上がる。
そして、目を腫らしながらニコッと微笑むと、深々と頭を下ろした。
「……うちを、うちを仲間に入れてください! お願いします!」
わたしはその頭を優しくポンポン叩くことで受け入れる。
しばらくして顔を上げると、彼女は目を強くこすって笑いながらピースサインした。
知らぬ間に、周りの黒い靄も消えていた。
「いやあ、本当によかった、よかった。じゃあ、私はこの辺で……」
「ちょっと待ってよ、わらちゃん」