7
立ち入り禁止になっている商業ビルの屋上に二人はいた。片方――中学生くらいに見える少年だった――はほとんど四つん這いになって熱心に下を覗きこんでいる。もう片方は村雨だ。こちらは両手をポケットに収め、悠然と眼下の光景を眺めていた。
「すごい! すごいよ!」
少年は暑さだけが原因とは思えない赤に頬を染め上げている。緑化公園から始まった破壊は目下の駅前通りを通り過ぎて南北に延びる中道通りを飲み込み、それと交差するように作られた新道へ至らんとしていた。そこまで行けば駅を完全に包囲する形となる。予定ではそれを足がかりに戦力を二手に分け、町々を南北に分断する線路沿いに進ませて主要な駅を制圧していくことになっていた。もっとも、少年の頭にそこから先の具体的な絵図はない。ただ、そんなすごいことをすればなにかが成るという予感があるだけだった。
「本当にこんなことができるなんて。村雨さん、あんたの言うことを聞いて良かったよ」
「俺は詰まっていた物を通るようにしたまで。感謝される謂われはない。むしろ、こちらが感謝しているくらいだ。なかなかに面白い見ものになった」
屋上を吹き抜ける風に短い髪をなびかせながら村雨は答えた。低音の楽器を思わせるその深い声にうっとりと聞き惚れるように少年がほうと息を吐き出す。
「まさか強く想像するだけで良かったなんて。思ってもいなかった。自分にこんなことができるって知ってたら、あいつらの好きになんてさせなかったのに」
「これからは違う」と村雨が言った。
「そうだよね。これからはあいつらの言うことなんて聞かなくていいんだ。それどころじゃない、大人たちだって俺の言うことを無視できなくなる。そうなったら面白いぞ。俺の言うことがニュースになったりして、それでみんなが右向いたり左向いたりするんだ」
「強く念じ続けることだ。そして、知っておくことだ。思うことは現実になる。それさえ腹の内に抱えていれば奴らはもっと強くなる」
「俺の思い通りに?」
少年の言葉をひとつ頷いて肯定してから村雨は踵を返した。どこに行くの、と急に心細くなったような声が追ってくる。肩越しに少年を見やって村雨は答えた。
「仕掛けのところだ。万一の可能性だが、雛に壊されでもしたらつまらないからな」
「雛って俺と同じように想像したことを現実にできる奴だろ? そいつ、強いの?」
「強いか弱いかというのはこの場合当たらない。問題はなにを想像するかだからな。安心しろ、あれは小心だ。お前ほどに面白いことを起こしたりはしない」
そうなんだ、とよくわかっていない口調で少年は言った。そんな稚気を置き去りに村雨はコンクリートを蹴った。空調機やタンクを足がかりに跳んで緑化公園のある南西の方角を目指す。空へ飛び上がろうと深く体を沈めた時、こんな呟き声が聞こえた。
「でも、俺は勝つよ。もう負けないって決めたんだ」
しかし、その時にはすでに村雨は少年自身から興味を失っていた。翼もなく足がかりもないというのに虚空に身を投げ出し、即座に手足に絡みついた風が体を運んでいくに任せる。ごうごうと耳元で音が鳴るとともに遠目に見えていた緑が近づいてきた。その緑の向こうにふと興味を引かれて村雨は目を西へ転じた。緑化公園とその正面に並ぶ小さな店舗群の先、わずかな薄緑を置いて住宅街に切り替わる町並みがある辺りに金色の光と黒色の霧が舞っていた。しばしの思考、宙空での停滞――けれども、彼は結局それから目を逸らすと濃い緑のわだかまる川べりへ降りることを選んだ。
遊園地か玩具屋の方が似つかわしいファンシーなハリネズミが、その柔らかそうな双腕を振りかざして飛びかかってきた。大きさは片腕で抱けるほどと小さいが、その丸い手の先には鋭い爪が五本輝いている。なによりそれが十何匹で群れを作って襲ってくるとあっては避けないわけにもいかず、弓月はその場から飛びすさりながら黒霧を操った。構わず突進してくるハリネズミたちが霧の中から現れた牙に次々と食い破られる。腹を裂かれたもの、頭をかみ砕かれたものと様々だったが、彼らは共通して血肉の代わりに中綿をさらけだした。本来の体積以上に膨らんだ綿の塊を霧のひと薙ぎで弾き飛ばす。
怪異同士の戦いは基本的に不毛である。相手を倒すにはその存在するエネルギー――弓月や全は妖気と呼んでいる――を散らしきるか、相手が致命の一撃と思うほどの打撃を一度に与えるかしなければならない。そうでなければ――弓月は空に放り上げられた綿の塊を見て低く唸った。まるで映像を高速で逆回しにしたようにハリネズミたちの傷が癒えていく。飛び出ていた中綿も元通りにきちんと収まり、たわんでいた表皮がもとの張りを取り戻した。
「ちょっとキリがないか、なっ!!」
背後で、こちらは血まみれの人間のような――異様に青い肌を蜘蛛の巣の如く枝分かれした血管が覆っている。ゾンビか死霊の類いだろうか――怪異の顎を蹴り上げながら盟友殿が言った。まったく同感である。
住宅街を車で抜けようとした弓月たちだったが、いくらもいかないうちに足止めを食ってしまった。怪異たちの群れと遭遇したのである。爆音の原因かと思わずブレーキを踏んだ弓月だったが、盟友殿の方は面倒くさそうに言った。曰く、いいから無視無視! 通常であれば車で突っ込んだところで怪異にも車にもダメージはない。人の目に見えない怪異たちは質量があるようでなく、存在するようで存在していないのだ。車を進ませたところで怪異たちの体を文字通りすり抜けるだけ、お互いに何の影響も与え合わないはずだった。ところがアクセルを吹かせた車は群れに突っ込むなりつんのめるようにして停まった。フロントガラスの向こうでは、大蛙が相撲の突っ張りよろしく車の鼻先に両手をついている。蛙の左右にいた怪異たちがわあっと歓声をあげて車に打ちかかってくるまで、そう時間はかからなかった。車がべこべこに凹んでいく悲鳴を聞きながら盟友殿はのんびり言ったものだ。僕の車じゃないしいいんだけどさ、邪魔だなあ。思わず車外の怪異の前に盟友殿に一発食らわせたくなった弓月である。
そういうわけでドアと言わずボンネットと言わずぼろぼろになった愛車を乗り捨て怪異たちをちぎっては投げちぎっては投げしながら、ようやく住宅街を抜けて大通りへ通じる道まで前進してきたのだが、怪異たちは呆れるほど諦めが悪かった。常ならば簡単な脅しをかければ裸足で逃げだすような怪異までもが果敢に飛びかかってくる。そのたびに払ったりかみ砕いたりするのだが、それでも諦めないのだから手に負えない。いっそ、大技を放ってひと思いに消し飛ばしてやろうかとさえ考えるのだが、そのたびに浮かぶのは志朗の悲しそうな顔だった。人間を多少どうこうしても顔色ひとつ変えない志朗だが、怪異が傷つくとたとえそれが擦り傷のようなものであっても自分が傷ついたような顔をする。ほんの小物一匹でもそんなふうに扱うのだから、それがこの何十匹の群れとなるとどうなるかは目に見えていた。
「ああもう! 面倒くさいよ、君たち!」
そう言うや否や、全は両手に金色の炎を焚いた。待て、と慌てて言った弓月を見ることもなく大蛙の土手っ腹めがけて炎を打ち込む。炎は一瞬、大蛙の腹で丸く凝っていたが、見る間に大火となってその土色の体を舐め尽くした。ごおっと音を立てて金色の火柱があがる。さすがに恐怖したものか、さっと怪異たちは全から距離を取った。しかし、構えまでは解かない。隙あらば食らいつこうという意志を満々にたたえて、彼らの目は光り輝いていた。
「やめろ、盟友殿。志朗様の意志に反するつもりか」
「あいにく、僕はあの子の保護者をやっていてね。君みたいにへりくだって従ってるわけじゃないんだ」
言う間に再び炎が放たれる。軌跡から逃げようと怪異たちがわっと逃げたが、炎はそうと見るや角度を変えて彼らに襲いかかった。ぼんっと音を立てて燃えたのは、今度は小箱を積み上げたような格好の怪異だ。ギャアギャアとわめいたその怪異は闇雲に走りまわり、おかげで炎は他の怪異を呑んでさらに広がった。
「だいたい、君は頭が硬いんだよ。昔から言うだろう? 見つからなければいいって」
「どこの悪童だ、お前は」
全に近づけないと悟ったのか、かわりにこちらへ向かってくる怪異をなぎ払って弓月は言ったが、言われた当人は堪えたふうもなく肩をすくめた。
「盟友殿の羽を使うのはどうだ」
「もしかしてそれ、君を抱えて飛べって言ってる? だとしたらお断りだよ。君、重いんだもん。僕だけ先に行っていいならそうするけど?」
「こいつらを放置してか? なおさら、志朗様がなんと仰るか」
「え? あの子が?」と、目も向けずに炎の拳で怪異を殴りつけてから全は言った。「こいつらが人間を襲うかもってことなら、好きにさせとけって言うと思うけどなあ」
そうであった。思わず額を押さえる弓月である。なんだか、喋れば喋るほどドツボにはまっている気がした。そうしている間にも諦めない怪異たちが襲いかかってくる。彼らの体の一部からは細く長く緑色の光の糸が延びていた。妖気の糸、誰かがその糸を通して彼らに力を分け続けているのだ。傷つけても傷つけてもキリがないのにはこれも関係している。
彼らを退けるにあたって気持ちを挫くということはすでにこうして試している。仲間を燃やされまでしても未だに闘争意欲が萎えないとあっては手はふたつだ。彼らが人間に害を及ぼす可能性を無視してこの場から強引に立ち去るか、それともこの場で根絶やしにしてしまうか。迷ったまま怪異を打ち払い続ける弓月に呆れたような声がかかった。
「あーあ、こっちがこうじゃ、今頃あの子はどうしているかなあ」
「待て。そういえば、志朗様は今どこに」
「りりって子のとこ。駅前で待ち合わせって言ってたかな」
「その駅は!」
「すぐそこ。緑化公園の向こうの、ほら、通学で使ってる駅だよ」
振るう牙に力がこもりすぎたか、割れた陶器が重なり合って獣型を作っていた怪異が悲鳴をあげてすっ飛んでいった。ほどなく、がちゃんという音とともに悲痛な悲鳴が聞こえる。目をやると陶器の端から存在がほどけて消えつつあった。やってしまった、と思ったがもう遅い。
「なぜ、それを早く言わない!」
がなる弓月をうるさそうに見て全は答えた。
「だって、聞かなかったじゃないか」
「なんでお前はいつもそうなんだ!」
叫ぶとともに弓月は黒霧を頭上にまとめ上げた。中にひしめいていた牙が渦を巻いて霧の中を昇っていく。やがてそれは巨大な狗の頭に変じ、眼下の怪異たちに向けて唸り声をあげた。ビリビリと周囲の家の窓ガラスが、電線が震える。満足そうにそれを見た全が手の内の炎を燃え上がらせた。全自身を中心に立ち上がった火柱が中央からふたつに裂ける。それは巨大な翼だった。金の炎でできた大烏が優美にその両翼を広げたのだ。
「さて、皆々様。覚悟はいいかな?」
「志朗様のため、退いてもらおうか!」
太陽と闇が同時に落ちた。悲鳴すら飲み込んで炎と闇とが怪異たちを飲み込み、舐め尽くす。狭い路地からあふれたそれらは道の形に十字を描いて壮麗な共演を見せたかと思うと、やがてするすると潮が引くように収まって主のもとへと帰っていった。狗と烏が見下ろす眼下には弓月と全以外、もはや誰の姿もない。
「行くぞ」と、短く言うなり、黒霧を収めて弓月は走り始めた。呆れたようにそれを目で追って、やれやれと言わんばかりに全は両手を挙げた。
りりが斬りかかっていった途端、まるでとんでもない裏切りでも受けたかのように怪異たちは騒然とした。初太刀を身を捻って避けた牛頭の怪異がなにか言おうと口を開く。そこへりりは迷うことなく再度刀を落とした。間合いを見誤ったそれは牛の鼻先をぱっくりふたつに割るに留まったが、なにか効果はあったらしい。みるみるうちに牛頭の鼻が色をなくして形をなくしたかと思うと端から宙にほどけていき、やがて赤黒い断面をさらした。ばっくりと鼻先をなくした牛頭が丸見えになった舌をひらめかせながら慌てて後退る。
「さあ、誰からでもかかってきなさいよ」
太刀を正眼に構え直し、りりは十字路に居座る怪異たちに言った。もちろん、彼女に武道の心得などないはずだ。一キロ以上ある太刀をまともに持てたとしても、通常ならばやたらめったら振り回す以外に戦うすべなどない。しかし今、彼女にはその名を通して支える人間がいた。志朗ができると願えば、その影響を受けるりりにはできるのだ。一方でそれは瑠々の想像が薄れていっているということでもあったが、極力考えないようにしてか、りりはその点について説明しようとした志朗を制した。
「今はここを収めることが大事。それ以外は考えないことにしましょう」
そう言ったりりをまぶしく見て、志朗はじゃあとバス通りへ進もうとしていた足を止めて十字路を示したのだった。怪異たちの拠点があの領域であることはたしかである。ならば、それを潰した方がいいという判断だ。それにはあの十字路を突破しないわけにはいかなかった。
「誰も来ないなら、こっちから行くわよ!」
斬りかかったりりにあの花女が手を上げて叫んだ。
「待て! お前は怪異であろ!?」
構わずりりは近くにいた鎧武者――兜をかぶっていて正体は判然としなかった――の小手を叩くなり刃を跳ね上げてその首を落とした。斬られた首から血しぶきの代わりに薄い緑の煙をあげつつ、鎧武者が一歩二歩と踊るように足取りを乱した。斬られた頭の方は地に転がり、これも斬り口から煙を噴き上げながらわめいた。
「なにをする! おのれえっ!」
頭が自ら転がったかと思うとボールのように跳ね上がる。りりはさっと素早い動きで後退してそれを避け、飛びかかってくる頭を両断した。再び煙があがる。頭は今度こそ色も形もなくしながら消えていき、同時に残された胴体の方はどっと音を立てて膝をついた。そのまま、前のめりに倒れるとともに端から消えていく。怒り狂った骸骨武者がりりの背後で刀を振り上げた。が、それよりコンマ数秒早く声が響いていた。
「其は堅き盾、陥す者なき守りを!」
ガチンと鋼どうしが食い合った時には、骸骨武者は突如突き立った金属壁に前後両方から挟み込まれて身動きが取れなくなっていた。怪異たちのざわめきが大きくなった。
「立ち塞がるというか、雛!」
「おのれ、カラスの子と思うておれば! 所詮は人間か!」
打たれたように志朗は目を細めたがそれだけだった。かわりに咆哮をあげたりりが怪異たちの群れに突進していく。
「来るか!」
花女が薙刀を構え、りりの踏み込みを見計らって大きく足元を薙いだ。が、その時にはりりは地を蹴っている。たん、と軽い靴音とともに一度薙刀の柄に着地し、次の一手で花女の首をはねた。ばらばらと花弁が散り落ちる。全ての花を斬り落とすことはできなかったがそれでも十分な効果があったらしく、花女は薙刀を取り落としてうめき声をあげた。りりはそれには構わない。二歩目のつま先でその揺れる肩をすでに捕らえている。血迷ったのかなんなのか、花女ごと切り刻む軌道で怪異の一人が刀を振るったがそれも空を切った。肩を足場代わりに飛び上がったりりは、宙空でひらりと身を捻ると逆さ落としにその怪異の頭へ刃を落とした。続けざまにふたつの体躯が崩れ落ちる。音をたてて歪んだボンネットに着地したりりが、どよめく怪異たちを睨んで再び太刀を構えた。
「退くならこれ以上はしない」
低く志朗は告げた。怪異たちの何人かが惑うように頭を揺らす。が、イタチともカワウソとも言い切れない頭をした怪異が彼らを叱るように槍の石突きを鳴らした。びくりと怪異たちが震え、手に手に持った得物を構える。
「そう、それじゃ容赦しないわ」
とんとん、とつま先でボンネットを叩いたかと思うとりりは飛び出した。高く跳んだ彼女めがけて槍の穂先がきらめく。
「其は翼! 自らを由とする風!」
志朗の声がしたと同時にりりの背からトンボのような透明な翼が生えた。繰り出された穂先があえなく宙を掻く。それを笑うように拍子を送らせたりりが集団へ突っ込んだ。通り抜けざまに胴をひと薙ぎ、着地するなり低く構えて慌てる足元を一閃、崩れたところへ斬り上げる。ひらりと身を翻して後続の攻撃を剣先で払い、空いた胴を一突きする。一瞬動きが止まった彼女を刀が狙うも志朗が許さなかった。
「其は槍! 地中より這い出る顎!」
がいんっと間抜けな音が響き渡った。落ちてくる刃を弾いたのは地中から唐突に突き出た鋼の棒だ。体勢を崩された怪異が弾かれた刀を再度振り下ろそうとする。それより早く太刀を胴から抜いたりりが鋼の棒ごと怪異を斬った。その背後をイタチ頭が狙うも再び呼び出された鋼の壁がそこに立ち塞がる。鈍い音を立てて槍の穂先が壁とぶつかり、イタチ頭は焦ったように柄を揺すった。勢いのあまり抜けなくなったらしい。そこへ影が落ちた。我に返ったようにイタチ頭が顔を上げた時には、もう目の前に白刃が迫っている。
「ま――」
その一音を最後にイタチ頭は崩れ落ちた。緑色の煙がそこここで上がり、十字路を満たし始めていた。怪異たちはそれでも十字路を守ろうと、潰れた車の前で一塊になっている。駆け寄ろうとしたりりの肩を志朗は叩いた。
「翼、使って」言うなり集団に向き直る。「其は堅き盾、陥す者なき守りを!」
次の瞬間、怪異たちは宙を舞っていた。密集していた彼らの足元に金属壁が突き立ったのだ。勢いのまま跳ね上げられた怪異たちに事態を把握できたのかどうか。おそらく、あっと思った時には終わりだった。なぜなら、透明な翼を震わせたりりが目の前で太刀を振りかぶっていたのだから――。
ビル風にまかれて緑の煙は薄れつつある。炎を上げる車はそのままだが、こちらはどうしようもなかった。炎を避けてりりが潰れた車の壁を乗り越える。鈍い動きで志朗はそれに続こうとし、りりに手を差し伸べられて苦笑した。引っ張り上げてもらい、なんとか車の屋根によじ登って目を瞠る。
横転した消防車、それに鼻先を食い込ませるようにして停まっている救急車があった。その後ろには数珠つなぎになった車が、いずれも放置されたのか、運転席や助手席の扉を半開きにしたまま停まっている。怪異の影はぽつぽつとしか見えない。取り残されたのだろうか、立ち食い形式の店先に頭を突っ込んでなにかむさぼり食っている様子のものや、どこかの商店から奪ってきたと思われる服を体に引っかけて遊んでいるものなどがいたが、どう見ても戦意を持っていそうではなかった。
「無事にたどり着けるかしら」りりが言った。「あんまり争いたくないのよね?」
志朗は無言で車の屋根から滑り降りた。軽く跳んでりりが続き「あっ」と声をあげた。体を捻って不思議そうに背中を見ている。背中に生えていた羽がちらちらと暖かな光の粒になって消えていこうとしていた。
「そういえば教えてもらっていないのに。どうすればいいかわかったの」
「それと同じだ」と、志朗は太刀を示して答えた。いまだに理屈を正確には把握していないりりは、わかったようなわからないような顔をしたまま頷いて太刀を鞘に収めた。どちらからともなく走り始める。所々に見える怪異たちはやはり志朗たちに襲いかかってこない。どころか、見送るように手を振っているものまでいた。
やがて左手に緑の塊が見えてきた。入り口にはアーチ型の看板が立っていたはずだが、遠目には見当たらない。通り過ぎざまに横目で見ると、無惨にも足元からへし折られていた。りりもそれを見たのだろう。走りながら「すごい力」と呟いた。アーチを支えていたのは金属のポールである。根元にはレンガ造りの四角い脚がついていたがこちらは無事のようだった。
「怪異ってみんなこんななの? 私もやろうと思えばできるのかしら」
「俺か、相葉瑠々が、そう考えてればな」
すでにあがった息を吐き出しながら志朗は答えた。運動音痴は伊達ではないのだ。たった二百メートルくらいを走っただけだが、完全に顎があがってしまっている。川まではあと六百メートルほど走らなければならない。しかもりりとはコンパスの差がありすぎた。かてて加えて彼女は怪異である。疲労というものを知らない。うらやましいような悔しいような気持ちで走っているうちに、脇腹が痛くなってきて志朗はついに立ち止まった。気づいたりりが後戻りしてくるのがまた悔しい。
「どうしたの?」
そう言ったりりは息ひとつ乱していなかった。生物らしい反応といえば、額に浮かんだ汗くらいのものである。
「ちょっと、運動不足がたたっただけ」
膝に手をついて大きく深呼吸して、志朗は今度は歩きだした。りりが心配そうに眉を絞って見てくるのがなんとも情けなかった。川まではあと五百メートルほどか。苦しい息づかいを繰り返す志朗を笑うように、どこか遠くで鳥がカナカナカナと鳴いた。