5
「相葉さーん、ここ、ここー!」
階段を上りきって辺りを見まわすまでもなく、底抜けに明るい声に呼ばれてりりはそちらへ目を向けた。挙げた片手をぶんぶんと振っているのは加藤、あの三人組の女子グループの一人だ。薄暗い喫茶店――志朗に誘われたあと辞書で調べてみた。コーヒーと呼ばれる飲み物や紅茶、軽食を楽しむ店舗だと理解している――の店内で彼女の元気は場違いに思え、少しの気後れをしながら近づく。ほかにも見える客のうちいくらかが迷惑そうに加藤を盗み見るのが見えた。が、彼女は気にしたふうもない。バンバンとテーブルを叩いて己の向かいに座るようりりを促してきた。
朝方の通知ランプは加藤が送ってきたメッセージの着信を知らせるものだった。
――八千原のこと、どうなった?
内容は簡潔だったのでりりは少し考えてから返信した。
――なにも。変わりないわ。おまじないと言ったかしら、その件?
――そうそれ。よく考えたらあたし相葉さんには話してたんだよね。だから試したかもなあって思って。その感じじゃまだっぽい?
加藤が話したとしたらりりではなく瑠々だ。となればそれは瑠々が消えてしまう前、四月の頭の出来事だったはずだった。瑠々の失踪となにか関係があるかもしれない。逆の可能性もあるが、なぜだろう、妙にその時期が気にかかった。そこで今から会えないかと尋ねたところ、ほどなく学校近くの駅前で遊んでいるから落ち合おうとの返信があったのである。
「会ってくれてありがとう。お待たせしてしまって、ごめんなさいね」
「そんな改まって言わないでよ。クラスメイトじゃん、あたしたち」
革張りのソファは座ると柔らかくりりを支えてくれた。そのふかふかとした感触は初めてのものだ。落ち着かなく座り心地を気にしながら階下で注文してきた紅茶とテーブルに置くと、りりは「それで」とさっそく声を潜めて切りだした。
「おまじないのことなんだけど」
「うんうん、その気になった?」
「いえ、八千原君のことじゃなくて」
りりが否定すると、加藤はなにがそんなに意外だったのか「ええっ」と大声をだした。真横に座っている客からぎろっと睨まれたにも関わらず鼻息を荒くする。
「ほかに好きな子いるんだ? だっしょー? だーからあたし言ったのよ。八千原だけはないって。なのに宮っちが間違いないって言うからさあ」
「あ、いいえ。たぶん、そういった話ではないの。メッセージに書いてあったことが気になってしまって。それで話を聞きたかったのだけど」
加藤がきょとんとして首を傾げる。りりはショルダーバッグから携帯端末を取り出してそこに書かれた文面を示しながら言った。
「私に話したっていうのはおまじないのことで間違いないかしら。それっていつ頃のこと? 私が……ええと、キオクショウガイになる前のことよね?」
「そだよ」と加藤は自分の既にからになったグラスをストローでかき回しながら言った。
「ごめんなさい。私、そのことも覚えてなくて。よければ詳しく教えてくれるかしら」
「詳しくって言ったって。二年になってすぐのことだったし……うーん、覚えてないない。そーいえば教えたなーって、そのくらい?」
「じゃあ」と切り出した胸の奥で心臓が大きくひとつ鳴った。悪い予感、あるいはなにかが起こる予感がする。聞いてはいけない気がするが、同時に自分は聞くべきだと囁く声が体の中心で響いている気もしていた。「そのおまじないって、どんなものだったの?」
加藤はそこでようやく周囲を気にする仕草をした。ガリガリとグラスの底に溜まった氷をかき混ぜながら「どおしよっかなー」などとおどけて呟く。焦れたりりがお願いと手を合わせて拝むようにしてみせると、ようやく前のめりになってテーブルに両肘をついた。手のひらだけでりりを招く。
「あのね、絵馬ってわかる?」
「絵馬? それはなに?」
「あーそっかー。あのね、神社で売ってる木の板で願い事を書く奴なんだけど。それをね、神社に行って買ってくるわけ。願い事はまだ書いちゃ駄目。んでー、それを清潔なハンカチにくるんだら一晩、月の光に当てる。そしたら月のパワーが絵馬に宿るんだって。一晩経ったら次の日――必ず次の日ね、橋のある川に行って、その下で絵馬に願い事を書く。最後によく使ってる香水を振りかけてから橋に飾るの。そしたら願い事が叶うんだってよ」
「なんだか……ずいぶん煩雑なのね」
教えられた手順を頭の中で反芻しながらりりは言った。そんな手順を踏んでまで叶えたい願いなら、おまじないに費やす時間を使って努力するほうが叶うのではなかろうか。
「それ、加藤さんは試したことあるの?」
「ないない。だってあたし彼氏いるもん。それにさあ」身を起こす勢いのままソファに背中を預けて加藤は笑った。「願い事が叶うには条件があるんだ」
その笑顔からざらりとしたなにかを感じてりりは顔をしかめた。言葉にするのは難しいが、悪意というのが近いだろうか。あるいは悪い意味での好奇心かもしれない。りりが「条件って?」と問うと、待っていたように加藤は再び身を乗り出した。今度は形ばかりでなく声まで潜めて言う。
「自分の一番大事なものと引き換えなんだって」
「それって?」
「さあ? 試したことないから、あたしは知んない」
加藤はふふんと悪い笑顔でグラスをかき回している。試したこともないようなことをさも重大な真実のように教えるのかとりりは少し呆れた気持ちになった。
「ええと、絵馬は神社で売っているのだったかしら。その神社っていうのはどこにあるの?」
「どこでもあるっしょー」と、グラスを投げ出すようにテーブルへ置いて加藤は言った。バッグを漁って携帯端末を取り出す。ぽちぽちと操作する顔がぱっと明るくなった。
「あ、ごめん。あたしそろそろ行くね」
「え? そ、そう? ええと、時間を取らせてごめんなさいね。教えてくれてありがとう」
「んーん。それよか、試したら結果教えてよ。八千原とのことでもいいけど」
なにかギラギラと丸い飾りがついたバッグを取り上げるなり、加藤は「じゃーねー」と手を振って階下へ降りていってしまった。グラスが置きっぱなしだが、これはこのままにしていていいものだろうか。周囲を見まわしてみたが真似できそうな状況のテーブルは見当たらない。困ったため息をついてりりはようやく紅茶を口に運んだ。
神社で買う、絵馬、月のパワー、橋、香水――怪異であるりりが言うのも変かもしれないが、そんなことで願いが叶うなら人間は全員願いだの悩みだの持つはずがない気がする。もう一度、おまじないの要素を頭の中で繰り返す。なにかが引っかかっているような気がしていた。神社、絵馬、月のパワー、橋、香水――なんだろう。考え込みながら紅茶をすすっていると、唐突に笑顔が頭の中に蘇った。血まみれの笑顔だ。あの時、紗菜と呼ばれていた幽霊がなんと言っていたか。
――何か行事でもないかぎり、行き先なんて知りようがないんだから。
――この先っていうとお寺さんと神社と小学校と交番と。
なにも行事がない頃に紗菜は瑠々の姿を見ている。そしてその先には少なくとも神社があった。時期は、時期はいつだったか。たしか桜がなんとか言っていたはず。
――では、三月の終わり頃か四月の頭ということになりますか。
そうだ、弓月が携帯端末を操作しながらそう言っていた。四月の頭まで条件に入るのなら、瑠々が高校二年生になってすぐ、加藤が言っていた失踪前の瑠々におまじないを教えた時期とも合致する。でも、だとしたら、瑠々はおまじないを試して消えたことにならないだろうか。人間が一人消えてしまうようなおまじない、そんなものがあるのだろうか。反証を試みる自分が、しかし、同時に訴えている。きっと無関係じゃない、と。ショルダーバッグを掴むと慌ただしくりりは立ち上がった。関係が本当にあるかどうかなんてわからない。しかし、志朗に話してみる価値はあると思った。
どっという音と共に枝葉が舞った。同時に己めがけて放たれた致命の一撃を危うく牙のひとつでせき止めて弓月は唸った。その唸り声さえ千切り飛ばさんとするかのように青銅の輝きが空を切り裂く。逃げ場がないことを瞬時に判断し、弓月は眼前いっぱいに黒霧を展開した。風切る音をまとった青銅剣がいくつか霧を貫通し、目の前の地面に突き立った。
「そら、取ってこいぐらいしてはどうだ」
相手は余裕綽々で片手をポケットに突っ込んでいる。戦闘態勢に入るまでもないということか、村雨のもう片手はだらりと垂れ、何の力も入っていない証拠に軽く揺れてすらいた。黒地のスニーカーの足元は、文字通り数センチばかり宙に浮いている。
「なにを企もうとも――」弓月は吼えた。「貴様の思い通りになると思うな!」
破られた霧それ自体を目隠しに無数の牙を差し向ける。ごん、と重い音がしたかと思うと村雨を食い破るはずだった牙のすべてが鈍色の金属壁に阻まれていた。
「わかっていないな。成ると思うことは成るだけだ」
「させないと、言っている!」
続けて半身のうちから牙を生じさせると金属壁に突進させる。次々に壁が歪んで陥没を作ったが、しかし、それだけに終わった。己のうちからさらに牙を――長い年月を過ごす間に同化してきた動物霊たちのむき出しの闘争本能を呼び起こす。低い笑い声がしたかと思うと、金属壁が自ら液体になったかのように溶け落ちて霧散した。完全に舐められていることはわかったが、生み出した衝動を抑えることはできない。黒霧を牙たちの周囲に集めていく。ついに無数の獣の頭と化したそれをひとつの意思に束ねて解き放った。殺到した獣の群れを村雨は動じることなく真正面から見つめていた。笑みのうちに冷静さをはらむ瞳がやけにゆっくりと瞬きする――そう認識した時には獣たちは甲高い悲鳴をあげてひねり潰されていた。なにが起こったのか、霧が晴れゆく視界で踊ったのは牙どころか虫の針さえ防げぬような薄衣である。
「お前たち主従はつくづく救えん。いや、衆生というものたちも同じか。そこに天国の扉があるのだ。なのに、誰も開けない。禁じられてもいないのに。なぜだ」
大きく肩を上下させる弓月を霧の向こうに透かし見ながら、村雨はまるで子供のように首を傾けた。
「あいにく、唯一神とかいう者はこの国から退けられた」
「そう、カラスと雛の所業によって。天意を退け、天を落とし、次に求めるのが今さらノスタルジーか? なぜ破れた壁を塞ごうとする。なぜ後退を望む。所詮、人間は前進しかできない生き物だというのに」
「それによって地獄が現れたからだ!」
「地獄? 今の世がか? なにを言っている。これぞ進化、成長というものだろう。俺はただ、その有り様を肯定しているにすぎない。お前たちこそ嫌だ嫌だと駄々をこねている自覚をそろそろ持ってはどうだ」
答える代わりに牙を差し向けたが、それは再び羽衣のような薄衣一枚によって防がれた。頭上の、どこか近くで叫び声がしている。周囲の人間はとっくに異常に気づいていただろうが、それで逃げ出すわけでもなく、異常事態に興味を持って留まる者がいたらしい。怪我をしたのか、それとも誰かを呼んでいるのか、そこまでを聞き分けることはできなかった。
視界が不安定に揺れ始めている。少なくとも今、これ以上にできることがないことを弓月は認めないわけにはいかなかった。志朗の手を借りたとしても二手、三手が足りないかもしれない。村雨の余裕を守っているのはためらいのなさだ。例えばここで弓月を倒すも倒さないも、逆に戦闘を放棄してこの場を去ることも、あるいはこの川や周囲の人間ごと灰燼に帰さしめることも村雨にとっては同価値に意味がない。おそらく、すぐ右手にある領域を消し飛ばすことさえ、その内側に潜む怪異たちの生死さえ、彼にとっては同じだけ無価値だ。すべてがどうでもよく、すべてが興味の向くままであれば良く、己という肯定者さえ絶対であればあとのことはどうだっていいのだ。そういった種類の感覚を持つ者を弓月はほかに知らない。そしてそれを恐ろしいと思う己の獣性をまた無視することもまたできなかった。
「もっとも」くすっと音にして村雨は笑った。「犬ごときにこれを言っても仕方ないことではある。なあ? ご主人様の顔色以外にわかることは少ないだろう?」
答えずに弓月は半歩下がった。背後のコンクリート壁はとっくに瓦礫と化している。目くらましにそれをいくつか投げつけ、さらに霧を操って撤退――問題は村雨がそれを許す気分になるかどうかだ。
「俺は、俺として貴様を許すつもりはない」
足元をちらりと確認してから答える。村雨の様子は変わらない。相変わらず片手をポケットに突っ込んで、薄衣をひらひらと周囲に漂わせている。まったく、あんな布一枚に己の牙が防がれるとは尋常では考えづらいことだった。
「だとしたら、どうしてくれる?」
心を決めて弓月は霧を操作した。一部を半球状に周囲へ展開、もう一部で瓦礫を拾い上げて村雨へ投擲する。本体の弓月はその時すでに背後へ跳んでいた。むき出しになった土壁に一度着地し、再度跳躍して川の外へ逃れる。村雨が追ってくる様子がないことは、ちらりとであったが確認できた。顎を上げて弓月を一瞥し、一瞬で興味を失ったかのように領域のあるほうへ目を向ける。垂らしていたほうの手をもたげるのを確認した直後、その姿は土手に阻まれて見えなくなった。
着地すると共に反転して車を停めたほうへ駆けながら弓月は歯がみした。周囲では怪我人が出たのか、泣き叫ぶような声が響いている。同時に川のほうへ携帯端末を向けて近づいていく人々も見て取れた。この様子を見て、志朗ならなんと言うだろう。人間のすることだから好きにさせればいいと鼻を鳴らすのがせいぜいかもしれない。自分なら――彼らには彼らの大事な人の為にも無事であって欲しいと思う。心の底から、切に願っている。しかし今はその願いを叶える方法もわからない。ここに留まって言葉を尽くしたとして、もしもその様に村雨が興味を持ったらどうなることか。逃走するしかない己が情けなく、また腹立たしくてならなかった。
ようやく志朗と合流できたのは午を過ぎて夕方に差しかかろうかという時分だった。前とは逆に駅の人混みを避けてピロティの柱にもたれて待っていたりりは、己を呼ぶ声に気づいて顔を上げた。お待たせ、と駆け込むようにやってきて頭を垂れた志朗の背には汗の楕円形の染みができている。
「待たせて悪かったな。ちょっといろいろあって、電車で来たんだ」
「いいえ、こちらこそ急にごめんなさい。あの、なにかあったの?」
そう尋ねたのは、志朗がなにかを気にするように周囲へ目を走らせていたからだ。
「お前が気にすることじゃないさ」
そう言いつつも志朗は警戒するように眼差しをきつくしている。りりは戸惑ったが、ともかく用事を切り出すことにした。加藤から聞いたおまじないの話、加藤が瑠々にその話を下敷きと紗菜が瑠々を見かけた時期が合致する話、なるべく自分の勘じみたものも交えて話してみたのだが志朗はどう反応するだろう。固唾をのむように見守っていると、案に相違して志朗は「なるほど」と呟いた。
「それで絵馬だったのかもしれない」
「どういう意味かしら。おまじないのこと、知っていたの?」
「そっちは知らないけど」
志朗はもごもごと歯切れの悪い様子を見せる。参ったなとかなんとか呟いてしばらく考えるふうにしていたが、心を決めたのか口を開いた。
「実は別口で追ってみた怪異がいて。そいつの根城の近くで絵馬をみつけたって、さっき弓月から連絡があったんだ。なぜかいろいろな神社の絵馬が捨てられてたり、橋の下に引っかけられたりしてて不可解だってことだったんだけど」
「もしかしてその怪異って、車の中で言っていた人喰いって怪異? そいつのいるところに……瑠々の絵馬があったの?」
質問するのには勇気が要ったが聞かないわけにはいかなかった。否定して欲しいと思う気持ちが半分、やっぱりと思う気持ちが半分、それらを内包して恐怖がある。もし、瑠々が食べられていたのだとしたら、もう二度と帰ってこないのだとしたら。そんなことになったら自分はどうすればいいのか。瑠々のいない毎日がこれからずっと、永遠に続くなんて考えたくもない。
震えるりりを落ち着かせるように志朗はそっとかぶりを振った。途端に全身から汗のにじんだような感覚がして頬が熱くなった。
「本当に!?」思わず志朗の両腕を掴んでりりは言った。「本当に瑠々は関係ないのね?」
「それは、わからない」
ゆっくりと答えた志朗はどこか苦しそうであった。
「わからないってどういうこと?」
「相葉瑠々の絵馬はみつかっていない。というより、絵馬をひとつひとつ確認している余裕がなかったそうだ。今わかっているのはお前が持ってきた話と、人喰いと絵馬が関係ありそうだって話だけ。そもそも人喰い自体が噂の域をまだ出ていないんだ。土曜にお前を駅に送り届けてから弓月と確認に行ったんだけど、確証とまで言える情報はつかめなかった」
「連れて行って!」決然とりりは言った。「今すぐその怪異がいる根城? そこまで連れて行ってちょうだい。私が絵馬を探すわ」
「悪いがそれはできない。ちょっと……さっきも言ったけどいろいろあってさ、危険かもしれないんだ」
「構わないわ。危険だからどうだっていうの。そんなことはどうだっていいわ。もし瑠々がその人喰いに関わっているのだとしたら? もし、関わっていたとしてもまだ間に合うのだとしたら? ここで行かなきゃ私は絶対に後悔することになるわ」
「間に合う可能性はきっと、すごく低い」
りりの視線から逃れるように志朗は俯いた。
「どうしてそう言い切れるの? たとえそうだったとしても、私――とにかく、瑠々が関係あるかどうかわかるまで絶対に諦めないわ。八千原君が案内してくれないなら、自分でその場所を探すから。絵馬がたくさんあったのよね? ということは、この駅の周囲に橋が少ないか、ほかの橋じゃ絵馬を置くのが難しいんだわ。そんなの、クラスの女子全員に電話すればわかるはずよ。そうよね?」
「脅迫しているつもりか?」
志朗がため息のように言った。りりは顎をあげて答えた。
「そう聞こえなかったなら、私の話し方がまだ下手なのね」
「悪いけどそれなら意味はないよ。お前があの人喰いのところに行くなら、なにが起こったとしても俺は関知しない。話が怪異同士のものである以上、俺は両方を尊重する」
「それって、どういう――」
尋ねかけた時だった。わああっとどこかから悲鳴とも歓声ともつかない声があがった。続いて重い物体同士がぶつかる音、ファンファンと甲高い音、それに紛れてマイクのような機械を通したとおぼしき肉声がわめいた。
「はい、避けて。バスが来ますから避け……な、なんだ!? うわああああっ!!」
はっと顔を上げた志朗が音と声のした方を睨んだ。
「ここにいて。見てくる」
言うなり駆けだしていく。りりは少し迷ったが、ショルダーバッグを担ぎ直すとその後を追った。走るにつれて音はどんどん派手に、大きくなっていく。なにが起こっているのかわからない。けれども、そこに何かがある。体中の血が沸騰して熱く燃える錯覚にりりは目を見開いた。この先で私は真実をみつける。その急激な温度はそんな予感かもしれなかった。
現れたのが背の高い影だったことに心底落ち込んで弓月はうなだれた。
「おつかれだね、盟友君」
そう言って掲げた手の指先だけをぴらぴらと振ったのは言うまでもなく八千原全、弓月とは互いに盟友と呼び合う間柄の男――否、怪異だった。
「私は志朗様を呼んだはずだ」
語尾がかすれて間抜けになった。村雨の前から逃走して車に乗り込んだあと、適当に町を突っ切ってどこともしれない住宅街でようやく停まった弓月である。住所を書いた看板をみつけ、志朗に居場所を知らせると共に得た情報を伝えようとしたところ、何度端末を鳴らしても彼は応答しなかった。仕方なくすぐに合流したい旨を現在地と共にメールにして伝え、返信を待っていたのだが。
「うん、用事があるんだよね? だからさ。伝えたら?」
「どうやってだ」
「おや? 盟友君はお忘れかな? 僕だって携帯端末くらい持ってるんだよ」
にっこりと、それはもうにっこりと明るく笑って全は自身の携帯端末を振って見せた。思わずその横っ面をぶん殴りたくなったが、たぶん、実際にそうしたところで簡単に拳を受け止められた上、おやおやご機嫌斜めだねとかなんとか煽っているのか本心なのかわからないことを言われるだけだろう。
「あの子が君の電話に出てくれないなんて、そんなの当たり前じゃないか。君ってば年上のくせにあの子に譲歩させようとするんだから。そりゃあ、たまにはあの子だってキレるよね。最近の子はよくキレるっていうけど、君たちの場合はそりゃそうなるよって、僕、思うんだ」
「貸せ」と、返事を放棄することにして弓月は全から携帯端末をもぎ取った。画面には志朗と通話中との文言が躍っている。沈黙を守る端末の向こうに弓月は見聞きしたこと、特に村雨流星による企みが進行している様子であることを報告し、最後に合流してくれるよう頼み込んだ。返事は「ん」の一言である。長年のこだわりも絡むことであるから怒っている様子の志朗に謝ることもできず、しばし沈黙していると向こうが返してきた。
「弓ちゃん、また暴走したんじゃん。バカじゃん」
「……申し訳ありません。以後、気をつけます」
「ん。俺はりりに呼ばれてるからそっち行けないけど、終わったら連絡するから。それまで全となんとかしてて」
「志朗様、あの……」
「悪い。電車の中なんだよね。んじゃ」
志朗はそう言って通話を切ってしまったようだった。不通の音を垂れ流す端末を前に再び落ち込み、それから不機嫌いっぱいに盟友へ差し出してやったが相手はどこ吹く風、変わらぬ笑顔で受け取ってジャケットのポケットへしまっただけだった。
「だから、君は駄目な子なんだよ。そこは年長者らしくさ、不本意だとしてもだよ、折れてあげないと。結局、あの子のほうが水に流してくれたんじゃないか。そうやってなあなあにする関係ってよくないと僕は思うんだよね。ほら、男女の仲でも昔からよくあるじゃない。黙って黙って爆発するっていうのかな。そのうち金槌で頭を殴られても文句言えないよ、君」
わかったから黙れと思ったが、それを言っては負けのような気がする。しかし、気の利いた返事も思いつかず、弓月は黙って車へ近寄った。
「ここへは?」と尋ねると、全は頭上を示した。
「自分の羽で。盟友君が車に乗っているのはわかっていたからね。僕まで車で来ちゃうとあとが面倒じゃないか」
カラスだカラスだと言われている通り、全の本性は大鴉である。伝説の上で太陽には烏が住まうとされるよう、またその昔に神武天皇を熊野国から大和国へと導いたとされる八咫烏が太陽を象徴のひとつとするように、古来から烏は太陽と結びつけられてきた。中でも全は賞罰――お天道様が見ているという概念を背負って生まれた烏である。その言葉が庶民にまで浸透していることからもわかる通り、少なくとも忘れられた犬として生を受けた弓月よりは、強い力を持っていた。人の身をいったん烏に戻して空をひとっ飛びなどわけない話である。
弓月は車に戻ってエンジンをかけ、それから助手席を見やった。今日もご機嫌麗しい様子の盟友殿は助手席のドアを開きはしたが、閉じないままそこに片手をかけている。
「乗れ」
「だって、熱いよね?」全はシートを指差した。「クーラーが効いてたところで背中が熱かったら意味ないと思わない?」
「そのクーラーが効かないんだ。いいから乗れ」
ええーっと子供のように全は口をとがらせ、それから渋々といった様子で乗り込んできた。
「村雨がなにか企んでいるという話だが」
「そこで戦っちゃうのが盟友君らしいよねえ。確認次第、速やかに引き上げて報告をあげるほうがいいって思わなかったのかい?」
これにもなにも言い返せず弓月は黙り込んだ。わかっている。わかっているのだ、そんなことは。だが、感情が理性に勝る事柄というのは誰にだってあるではないか。自分にとって村雨流星という男はその手の存在なのだ。だから仕方ないと言い訳はしないまでも、それでも致し方ない事柄というのはあるのである。
「ホウレンソウ、今どき小学生でも知っていることだよ。君は今、何歳だっけ?」
「だから、報告は上げただろう!」
「ただ上げればいいってものじゃないさ。そうだろう?」
ちっちっと振るその指をへし折ってやりたい。
「ともかくなんだね。村雨が絡んでるとなるとあの子と合流するほかないね」
「しかし」と、弓月は躊躇った。「志朗様でもどうなるか」
「まあね、なにしろ向こうは想像力に長けていらっしゃる。同じようなことができるといっても、結果は雲泥だからね。でも、ほら、僕も来たし。三人揃えばなんとやらって言うだろう?」
「それは知恵の話だ」
むっつりと言って、弓月はハンドルを指先で叩いた。村雨と初めて出会ったのは七年前、当初は敵だとは思いもしなかった。そうと判明してから戦った時、弓月たちが三人揃うことは最後までなかった。しかも結局、当時の弓月は奴を取り逃がし、志朗と全はというと向こうが退却を選んだというのだから、これが三人揃ったところでどうなるかを考えれば頭の痛い話である。例えば奴が出した鋼の壁、完全に志朗が怪異相手に出現させた盾と同種のものであったが、その出のスピードときたら段違いであった。なにしろ、志朗はなにを出現させるにしても詠唱というべきか、己の中のイメージを固めるという段階を踏まねばならない。これまでに見たところ、村雨にはそれがない。両者互いに攻撃しあったとして――仮に志朗が防御を固めるに徹してもだ、潰されるのは間違いなく志朗のほうだった。
「僕らがやらなきゃいけないことは村雨を倒すことじゃないよ」
反駁しようと助手席を睨むと、全は意外にも真面目な目をしていた。
「奴を潰さずになんとかなると思うのか」
「なるんじゃない? だって、敵は村雨本人じゃないんだから」
どういうことだと問いただしたのとちょうど同時だった。どこか遠くで遠雷に似た爆音が響き渡った。聞き間違いかと思って窓を開け、しばらく耳を澄ませてみたが続く音はない。空を睨んでいると全が言った。
「僕にも聞こえたよ。二人で聞いたなら間違いじゃないよね?」
「起こって欲しくないことが起こったのかもしれない」
「君が負けなきゃねえ」
と、横から要らぬことを言われたのでこれにはさすがに言い返した。
「退却しただけだ!」
ギアを操作してアクセルを踏む。ハンドルを回しながら、弓月はぎくりとそのことに気づいた。志朗は今、ひとりきりでいるはずだった。