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彼女はすっかりくたびれて、中庭を掘って作ったと見える野外堂の長椅子に座り込んだ。遠くから年若いキャラキャラとした笑い声とも話し声とも付かないざわめきが聞こえる。野外堂の半円形の縁には先生のものとおぼしき車――というものを知ったのはつい先日のことだ――が数台停めてあって、しかし、それに乗っている者も近寄る者もなかった。日盛りの中庭にはともかくの静けさが満ちている。好奇心を隠しきれない猫なで声で話しかけてくる級友も担任もここにはいない。ようやく一人になれたと思ったと同時に今度はローファーのつま先がズキズキと痛みを発して、もううんざりだった。
鏡の外側に出るまでは良かったのだ。それは拍子抜けするほど簡単にできてしまって、けれど、その先が問題だった。というか、己が身に降りかかりうる問題について彼女があまりに考えていなかったのが問題だったというのが正しいだろうか。
結論から言うと、世間は彼女を瑠々にしてしまった。
初めて足を踏み入れる居間には誰の姿もなく、彼女はテレビが設置されている様子やそれと向かい合わせに置かれたソファなどを興味深く見た。当然のことだが、瑠々の姿は見当たらない。何か手がかりはないだろうかと見回して、手のひらくらいの大きさの紙が何枚も入った箱をあさってみたり、予定とおぼしきものが細かな文字で書き付けられた紙束を見てみたりしたが得るものはなにもなかった。瑠々の部屋はどうだろうかと思いついて、階段に足をかけたところでガチャリと音が聞こえた。方向は玄関というところがある方だった。振り向いた彼女は扉を開けて入ってきた瑠々のお母さんとまともに目を合わせてしまった。逃げる間も、隠れる間も場所もなかった。お母さんの目がみるみるうちに大きく開かれ、口がOの字に近づいていき、あとはもうなされるがままだった。力強く抱きしめられて頭といわず肩といわずぐちゃぐちゃに体中を撫でまわされ、お母さんは「瑠々、瑠々」としか言えなくなったように繰り返した。涙は一滴もこぼさなかった。そのかわりのように抱く力を強くした。彼女の方は、こちらもまた驚いていた。人間の体温というものを、誰かに触れる触れられるということを生まれて初めて経験したがゆえだった。それで自分は瑠々じゃないとも、鏡の中から来たとも言えないでいるうちにお父さんが呼ばれ、ケイサツに連絡が行き、彼女があまりにもなにも知らないことを怪しんだお母さんの運転する車でビョウインに連れて行かれ、なにかをぺたぺた張られたり横にされて大きな箱に飲み込まれたりした結果、キオクショウガイということで片が付いた――らしい。詳しいところは彼女のいないところで全部処理されてしまったので知りようがない。教えて欲しいと頼むと、お母さんもお父さんも、それ以外のイシャという人もどこか哀れむような慈しむような顔で彼女を見た。そして、口をそろえてこう言った。もう大丈夫、なにも心配することはないから、と。
こうして、彼女は瑠々ということになった。つまりは誰もが瑠々を探すことをやめてしまったということでもある。ますます自分一人だけの力でどうにかしなければならなくなったのに、彼女にはあてと言えるものがなにもなかった。級友はどこか楽しそうに、面白そうに不在中の大冒険を聞き出そうとするばかりだ。そうして彼女が「なにも覚えていない」「なにも知らない」と言うとわかったような笑顔を浮かべて簡単ないたわりを口にする。行方不明になったクラスメイトが何百日かぶりに帰ってきた珍事はいたく好奇心を刺激する出来事だったらしく、彼女の前には誰とも付かない人物が次から次に現れた。本物の瑠々が誰と親しかったのか、誰とどんな会話を交わしていたかを知るすべもない。誰がどのクラスで、誰が誰と親しくてそうでないのかもわからない。誰を信用できるのかもまったくの不明の中、思いきって聞いてみたことがある。キオクショウガイのふりをして、いなくなる前の瑠々がどうだったか、何かおかしな様子はなかったか尋ねてみたのだが、結果ははかばかしくなかった。
つまり、瑠々は孤独だったのだろうか。ローファーを脱いでビリビリと痛みを発する小指を行儀悪く足を組んで労りながら彼女は考えた。特に親しい友達もいなくて、特につるんでいる仲間もいなくて、それでも笑顔を作っては学校に行って、そんな毎日がつらくてつらくてたまらなくて、逃げ出したくなってしまったのだろうか。あるいは彼女の帰りが少しでも遅くなると携帯端末を鳴らしてくるお母さんが嫌だったのだろうか。習い事の帰りには必ず車が乗り付けられて、独りでいられる時間が少しもない暮らしが息苦しかったのかもしれない。誰にも変化を悟られないよう普通を心がけて、もしかするとそれ自体が負担だったのかもしれない。鏡の――彼女の前ですら笑顔を作っていた瑠々のことだ、そういうこともあり得るのかもしれなかった。そんな孤独な少女が行くところ、いられるところはどこだろう。想像してみたが上手くはいかず、彼女は仇のように小指をもんだ。
本当に、このローファーという奴はたちが悪かった。見た目が可愛らしいのは認めるが、底は薄く硬く、つま先も固い革に細く囲われて痛いったらない。これが学校指定の靴で、これ以外を履いていくと校則違反になると知った時は、その規則を作った人間の正気を疑った。その伝でいくと制服というのも大概である。鏡の中にいる時は、瑠々の出がけと帰りしなに一瞬着ていれば良かったものが数時間着るとなると暑くて重くて窮屈で大変だった。日中はTシャツに短パンかスウェットの格好が恋しくて仕方ない。しかも格好だけではなく、生活にも自由がない。考えるそばから予鈴なるものが鳴った。次の授業とやらに出なくてはならない。そこで語られるさっぱり意味のわからない数式や年号を思い浮かべるとなおのことうんざりする。聞いたことも見たこともない道徳や倫理を詰め込まれるに至ってはため息すら出てこないというものだ。
いったい自分は何をしているんだろうとは考えずにいられない。瑠々の代わりに笑って、瑠々の代わりに学校に行って授業を受けて、瑠々の代わりに弾けもしないピアノの前に座ったり塾というところで講義を聴いたり、これがいったい何になっているんだろう。しかし、瑠々を探しに行こうにも方策がない。見当も付かない。加えて人間の世界では何をするにつけお金が必要となるとお手上げだった。ともかく、生活を維持しないことには身動きもままならない。一度、業を煮やして授業を無視し、町というところを歩いてみたらひどかった。なにも見つからなかったのはもちろんだが、どうやら担任からお母さんへ連絡が行ったらしく、携帯端末が数秒の間もなく鳴り続けて、辟易して出てみたところ泣き声が耳をつんざいて響いた。娘がまたぞろ家出をしたと思われたものらしい。どこにいるのか詰問されて、数分後には車に乗せられて一路家へ、それから居間へ座らされて一時間近くお説教、数時間後に帰ってきたお父さんからも説教されて次の日は車で学校まで運ばれた。
気は重いが行かなくては。彼女はローファーをつっかけて立ち上がって空を見上げた。私たちは同じ空の下にいる――数日前に授業で聴いた詩の一節だ。本当にそうだろうか。瑠々は今、この空を見上げているのだろうか。白い雲が点々と浮かぶ青空――初めて見た時はその果てなさに驚いたものだがもう慣れた――は、今日も暑くなると告げるばかりだった。
終礼が鳴ると一気に息が楽になったような気がする。周囲が晴れ晴れとした笑顔で話し始めるからだろうか。それとも、部活に行くという生徒たちが和気藹々と誘い合って荷物をまとめ始めるからかもしれない。野球部に所属していると聞くクラスメイトたちが白い鞄を肩にひっかけて教室から出て行くのを眺めながら、彼女もまた黒い革鞄を机の上に引きあげた。『瑠々の久しぶりの登校』から数週間が経ち、今では用もなく話しかけてくるような人間はいない。それが瑠々の日常だったのか、彼女がなにか失敗をしてしまったからなのかはよくわからなかったが、常識というものをあらかた忘れてしまっているという設定には都合が良かった。大げさに別れの挨拶を交わす声を聞きながら手早く荷物をまとめる。いくつか宿題は出ていたが、どうせ意味がわからないしやる意味もない、そんなものは机の中に放置である。それよりも今日はピアノのレッスンも塾通いも予定に入っていないのが嬉しかった。門限はあるものの、それまでは瑠々の捜索に時間を使える。双子の姉なんですけど、とは最近覚えたフレーズだった。私にそっくりの子見かけませんでしたか、と尋ねれば諸々の説明が省けるのである。今日はどのあたりを探してみようか、思いきって夜の町と聞くあたりに出かけてみようかと考えていた時、すぐ背後で声がした。
「相葉」と呼びかけてきた声に聞き覚えはなかったが、それが自分を呼んでいることはすぐにわかった。相葉瑠々、それが瑠々の本当の名前であることは鏡から出てまもなく知ったことだ。
彼女は鞄をつかんで立ち上がりながら答えた。
「何か用?」
そう言ってからそっけなさすぎたかと思ったが、こうして誰かと会話すること自体まだ慣れていない。こういうときになんと言えば良いのか、参考になるかと思ってドラマというのを見てみたこともあったが、あんなふうに気取った話し方は誰もしていなかった。
「少し話したいことがあるんだけど」と言ったのは、ピンとアイロンのかかったワイシャツを着た男子生徒だった。身長が特筆に値するほど低い。ほとんど彼女の腰当たりまでしかない高さで、加えていかにも幼いですといった風貌の、周囲の男子みたいなあばた顔とは縁のなさそうな綺麗な顔立ちをしている。名前は――忘れてしまった。女子を覚えるのでも精一杯だというのに、男子にまでは手が回らなかった。が、たしか瑠々がいない間に転校してきたんだよ、と誰かが言っていた気がする。ええと、と言いよどんだ彼女の困惑に気づいたのかどうなのか、男子生徒は自分の胸を親指で指して言った。
「八千原だ。八千原志朗、この前話したけど、覚えてない?」
「ごめんなさい」と、彼女は素直に謝っておいた。
「別に良いけど」と言って、志朗は彼女の少し後ろを見た。「急ぎか? 時間ない?」
彼女はちょっと振り返って志朗の視線を追い、自分が学生鞄の持ち手を握りしめていたことに気づいて首を横に振った。矢も楯もたまらず瑠々を探しに走って行きたい――という気持ちでなければならないのかもしれないが、近頃はそんな気が起こらなかった。漫然と日常に流される中でルーティンとして瑠々を探しているというのが当たりかもしれない。なにしろ、鏡から出てきてこちら、手に入れた手がかりはゼロなのだ。
「用事はあるんだけど、少しなら大丈夫」
「いや、ちょっと時間がかかるかもしれないんだけど」
「どのくらい? もし、文化委員会のことだったら大丈夫よ。前回はうっかり忘れちゃっただけで、次はちゃんと行くから」
というのは三週前に知った話だ。学校には委員会活動というものがあって、瑠々は文化委員会というのに所属していて、文化委員会は一ヶ月に一回会合を持つのだ、そして彼女は委員会をすっぽかしてしまったのだとはなんとかいう男子から苦情と共に教えてもらったが、その男子とはこの八千原と名乗る少年だっただろうか。いまいち自信が持てなかったが、とりあえずありそうな用事だと思って言い添えておいた。それ以外となると、この男子と瑠々の間に繋がりを見出せない。
「相葉って文化委員だったんだ。まあ、いいや。とにかく話せないか。できれば、場所も変えて」
「どこ?」と尋ねると志朗はパチパチと瞬きをした。ちょっとつっけんどんだったろうか。ドラマの会話を思い返す。「すぐそこだったら構わないわよ。中庭で良いかしら」
志朗は「いや」と口ごもるようにしてから素早く周囲を見た。つられて教室の中を見回してみると、気のせいだろうか、放課後のざわめきが収まっているような気がした。みんながみんな、まるで重大事に耳をそばだてているようだ。
「中庭はちょっと。キッサテンはどう? それか、バーガーとか」
どちらもなにを指すものかわからない。どこかを示す言葉なのは間違いないだろうが、類推さえできなかった。
「ええと、そうね、構わないわ。それ、遠いの?」
「バーガーなら駅前。キッサテンは少し歩いたところにもあるけど、なにか希望があるなら聞くよ」
彼女は無言で首を横に振った。じゃあ決まりだと言った志朗が先に立って歩き始めた。鞄を持ち上げて彼女はすぐに後を追い、ドアをくぐった直後に教室の中のざわめきが大きくなったことを少し不思議に思ったが、すぐに忘れてしまった。
キッサテンはバス乗り場とは反対側に十五分ほど歩いた先、四階建てのビルの地下にあった。狭い階段を降りると店内を見渡せる一面硝子張りの壁があり、一角にこれもまた硝子製の扉が口を開けている。その隣には『喫茶室・六花』と金属板をくりぬいて作った看板が立っていた。志朗は慣れた様子で入り口を潜って、中へ入るよう身振りで彼女に示した。レジとかいうものが置かれた短いカウンター、椅子と机が数組ずつ、六人は座れそうなこちらは長いカウンターの向こうでは人間が二人、なにかに向きあってうつむいている。それが標準より小さな店だということは人間経験の浅い彼女にも理解ができた。お客は長いカウンターに二人と、椅子に腰掛けているのが一組、天井から聞こえてくる言語不明の音楽に紛れているのか話し声は聞こえない。彼女たちが入ってくるのを認めたのだろう、カウンターの中にいた人間の一人がこちらへ歩いてきて硝子壁に寄せて置かれた席を示した。志朗の仕草を伺いながら椅子を引き、腰を下ろした頃には流れるようにメニュー表が差し出されている。受け取って、彼女は頭を抱えそうになった。ずらずらと書いてある文字がさっぱり理解できない。いや、文字を読むことはできるし、文字にくっついている数字が値段だということもその多寡もなんとはなしに理解できるのだが、結果なにが出てくるのか想像がつかなかったのだ。「決めた?」と志朗が言うので平静を装ってなんとか頷き、茶と付いているからにはとりあえず家にある麦茶の親戚だろうと紅茶を頼んだが、内心はドキドキしていた。
志朗はすぐには話しださなかった。頬杖をついて長いカウンターの方を眺めている。倣うように店内を見回してみたが、特に面白いと思えるものはなかった。硝子の壁を二方から挟むように建っているクリーム色の壁にはよくわからない波形の模様が描かれているだけだったし、店員の格好も普段着に胸まである黒エプロンを着けただけの気さくなものだ。天井でくるくる回っているものの正体もわからなければ、どこからともなく漂ってくる香ばしい匂いの正体なんてなおのことわからなかった。唯一、背の高い硝子ケースの中に収められた食べ物らしき三角形を可愛らしいなと思ったが、それを見ていたらしい志朗から「食べる?」と訊かれて慌てて目をそらした。瑠々の捜索にはどうしてもバスや電車を使う必要があってお小遣いと称して渡されているお金を使うことがあった。この先を思うとここの支払いだけでもちょっと躊躇う気持ちが湧くのに、正体もわからない余計な物にお金を使う気にはなれなかった。
「お待たせしました」と再びやってきた店員が志朗の前に寸胴の黒いカップを、彼女の前には華奢な白いカップとそれより数段小さなカップと銀色の筒を置いた。運ばれてきたものが全然違う、これではどうしたらいいかわからないではないか、と彼女は持ち上げかけた手を膝の上に戻した。意識して目の前のカップを見ないようにして志朗を見つめる。
「話したいことがあるんだったわね。なにかしら?」
すると彼は答える代わりにぷっと吹き出した。なにが面白いのか、そのまま鼻にかかった笑い声をひとしきり漏らす。自分が何か失敗をしたのかと彼女が焦りだした頃にようやく笑いを収めて言った。
「飲んでみたら?」
「でも、私」こういうときは決まり文句だろう。「ごめんなさい。キオクショーガイで、実はよくわからなくて。教えてもらえるかしら」
「紅茶はわかるだろ?」と、志朗は白いカップを指さした。「そっちの小さいのがミルク、入れると味がなめらかになる。全部入れて良いと思う。銀色のは砂糖、こっちは甘くなる。好みにもよるけど、大体スプーン一杯くらいかな、入れるのは」
やってみたらと言いながら志朗は自分のカップを持ち上げた。一口すすり、旨いと呟く。それを見て彼女は言われたとおりにしてみた。運ばれてきた時は透明の赤茶だった液体が不透明のクリーム色になる。恐る恐る口に運んでみると、甘くはないが口当たりは悪くなかった。けっこう好きかもしれない。そんな彼女を志朗は頬杖をついたまま、黙って見ている。その視線には既視感があった。お母さんやイシャの眼差し、けれども憐憫は混ざっておらず、ひたすらに慈しむような温かさがある。
「こういうのがしたかったんだろ?」志朗は言った。「でも、もう帰ったほうがいい。満足してないなら、今日中付き合うからさ」
「どういう意味?」
カップを置いて、言葉通りの意味で彼女は尋ねた。
「それとも、相葉瑠々になってみたかったのか?」
「どういう意味って尋ねているのよ」
「それはお前自身が一番よくわかってるんじゃないか? お前がどうして相葉瑠々のふりをしているのかは知らないけど。今頃、仲間が心配してると思うぞ」
「こういうのってなんていうのかしら。お話にならない?」
言いながらも内心では驚いていた。彼は彼女が瑠々でないことを知っている。どうしてわかったのだろう。そんなに自分は瑠々のふりが下手くそだっただろうか。
「うん、おまえがそういうつもりならそれでもいいよ。どうしても相葉瑠々を続けたいなら、やれるところまでやってみるといい。だけど」と、そこで志朗は眼差しを暗いものにした。「お前、もうそんなには保たないよ。自分でわからないか? 存在がどんどん薄くなってる。このままじゃ消える。俺はお前がそうなるのは嫌だなって思って声をかけただけ。もし、目的があるなら力になれないかと思って」
「力に?」オウム返しで彼女が言うと志朗はじっと頷いた。その目は真剣で、彼女をからかおうという感じは受けない。それでも彼女は言った。「なんだか、八千原君だっけ、あなたの話を聞いていると私が瑠々じゃなくって別のなにかみたいね」
「あくまでそう言い張るならそれでもいい。それがお前の望みなら俺は敵にはならないよ。ただひとつだけ。お前があくまで人間だって言うなら力は貸せない。ここの勘定くらいは持つけど、それ以上のことはしない。そうじゃないと認めるなら、お前になにか困った事情があって相葉瑠々をやってるっていうなら力を貸すけど。どう? よく考えて」
彼女は迷いながら「私は」と言った。が、それ以上どう言ったものかわからない。確かに彼女は人間ではなかった。瑠々のふりもしている。困ってもいる。だけどそうと認めたら――どうなるのだろう。想像は空転するばかりで頭の中には何の回答も浮かばない。それでもなにかを言わなければと思った。
「実は瑠々の双子の姉で」
「名前は?」と志朗が尋ねた。
絶句した。なにも思い浮かばない。テレビでやっていたドラマの女の子、その名前を思い浮かべようとする端からあらすじも顔立ちもすべてが霧散する。クラスメイトの名前を思い出そうとした。この際、名前が一緒でも構わないではないか。ええと、あの子なんていったっけ。考えれば考えるほど、思考は真っ白になっていった。
「ほら、それが答えだ。お前はカイイだ。仮の名もないなら一匹狼かはぐれものってところか。それとも生まれたばかりかな」
「カイイ……」
「そう、怪しいの怪に異なるの異と書く。怪異。人間でも動物でも植物でもないものだ」
「違うわ」
かすれた声で彼女が抗うと志朗は頷いた。
「そうか、わかった。じゃあ、話はここまでだ」
言うなり伝票を掴んで立ち上がるそぶりを見せる。引き留めたほうがいいのでは、でもなんと言ったら、葛藤が彼女の体中を揺らした。
「困っていたら助けてくれるの? 本当に?」
ようやく言った時には志朗はもう学生鞄を小脇に抱えて財布の中身を確かめていた。
「助けるのは怪異だけって決めてるんだ。あんたが違うって言うならそうなんだろ。悪いけど他を当たってくれ」
先ほどまでの温かみを感じられない、バッサリとした口調だった。いよいよ焦りが募って彼女は腰を浮かせた。
「もしも、もしもよ。認めるって言ったら?」
「そりゃ話を聞くさ」
「人捜しだって言ったら? 一緒に探してくれる?」
それはもう答えと同義だったが、彼女はそれにも気づかずすがるように尋ねていた。砂場であるかもわからない金の粒を探し当てるようなこの難行のさなか、降って湧いた救いの手をなにもせずに見過ごすことはどうしてもできなかったのだ。
「もちろん」
「手がかりは全然ないの。みんな探すのをやめてしまって、お父さんもお母さんも協力してはくれないの。できるかぎり聞けることは聞いてみたけど、誰も何にも知らないの。町の人たちもケイサツの人も、私みたいな女の子は見たことないって。それでも? 協力してくれる?」
志朗は財布を鞄にしまうと再び席に着いた。ゆっくりと両手の指を組んで、心もち身を乗り出すようにする。暗いオレンジの照明がその鼻先を白く光らせていた。ごくりと我知らず喉を鳴らしながら、彼女も椅子に腰掛けた。希望というものが胸の内側でぴかりと光った、そんな気がし始めていた。
「鏡か」あらかた話を聞き終えると志朗はそう言ってどさりと背もたれに寄りかかった。腕を組んでとんとんと指を上下させる。ライトの丸い光から顔が退いて影を負い、寄せられた眉がなおさら難しそうに歪んで見えた。
「今の世の中、怪異って言うのは個人的なものになっているんだ。昔は河童とか座敷童とか幽霊とか、そういう共通認識のもとに立って怪異は存在していた。だけど、事件が起こって」
「事件?」
「いや、これは関係なかった。忘れてくれ。とにかく、世界は変わってしまった。みんなが思い描いていたから存在した怪異がそうじゃなくなったんだ。たとえば、河童って言ったら緑の肌、背には甲羅、頭には皿、手には水かきがある姿を想像するだろ?」
と言われてもよくわからなかったので、彼女はとりあえず曖昧に頷いておいた。
「昔はだからこそ河童が出たというとそのままの姿の河童を見ることができた。いまはぐちゃぐちゃだ。ある河童はキュウリの化け物みたいな姿だったり、違う河童は水かきの代わりに虎みたいな爪が生えていたりする。皿がない奴もいれば、甲羅がなくて全身緑タイツの変質者みたいな姿の奴だっている。人間それぞれが想像するものがそのまま怪異として現れるんだ」
「じゃあ、私は?」
「もちろん、相葉瑠々が想像したから生まれた怪異なんだろうな。鏡の向こうに違う自分がいる、違う世界がある、よくある想像じゃないか?」
だからこそ問題ありなんだけどな、と志朗は唸るように言ってカップを口に運んだ。真似て自分の紅茶を一口飲んでから彼女は問題について尋ねてみたが志朗は答えない。かわりに体を起こして卓上の銀色の箱から薄紙を一枚取り出した。
「それよりも、お前の場合はこっちの方が問題だろう」
胸ポケットからペンを抜き出してしばらくクルクルやった後に、彼は何事かを紙に書き付けた。彼女に差し出してくる。受け取った薄紙には『りり』とあった。
「仮の名だ。これで少しは保つ――つまり、しばらくは消える心配をしなくていい。俺がその名前を通じてお前の存在を担保するからだ。わかるか?」
「どうして?」と彼女が尋ねると志朗は笑った。
「お近づきの印、好意の証明ってやつ。相葉瑠々の姉を名乗ってるんだろ? るの上はりだから、りり。悪くないと思うんだけど」
「そうじゃなくて、あなたが私を担保するってどういうことかしら?」
「今までお前が存在できたのは相葉瑠々の想像力があったからだ。相葉瑠々が鏡に映った自分を見て、もう一人の自分が鏡の向こうにいて自分の真似をしてるんじゃないかと考えたからお前は生まれ、ここまで存在してきた。だが、今はそうじゃない。消えかかってる。存在が消滅しかけてるんだ。だから、俺が代わりに担保するって言ってるんだよ。『相葉瑠々の代わりをするりりという怪異がいる』と想像、イコール認識することでお前はともかく消える心配はしなくてよくなるんだ」
「瑠々はもう私を想像していない? それって」恐ろしいことが脳裏をよぎって、彼女――りりは身を乗り出した「瑠々がもういなくなったって、そういうこと?」
思いがけず語気が強くなったが仕方のないことではないか。りりは瑠々を探す為に鏡の世界から出てきたのだ。志朗の話も合わせれば、瑠々によって生まれ、瑠々の為に存在してきて、今また瑠々の為に行動していることになる。それが丸ごと無駄だったように思ってしまえば、志朗の言いようは受け取りようによっては無情だ。目頭がカッと熱を発したと思う間に視界が潤んできた。そんなのって、そんなのってない。
「そうとは限らないよ」
志朗はひらりと片手を振った。それはあたかも落ち着け、そうでなければ欲しい情報は手に入らないぞと言っているようにりりには見えた。
「鏡の中にもう一人の自分がいるとか、別の世界があるとか。そんな想像は早ければ小学生の頃に卒業するもんだろ。そうじゃなくたって、想像してみた直後にそんな話は馬鹿げてるって自分に言い聞かせることは珍しくない。逆を言うと、ほんのわずかでもその可能性を信じてるかぎり怪異が生まれる可能性があるってことだ。相葉瑠々は多分そのタイプだったんだろ。親や友達に『あのね、鏡の中にはもう一人の私がいるのよ』って言うほどでもないけど、そんな想像をする程度には夢想家ってタイプ」
「つまり、あなたのようなタイプってことね?」
りりが指摘すると志朗は少し笑って首を横に振った。
「俺は違うよ。知ってるクチだ。この世には怪異が存在することを知ってるし、経験してきてるし、感じ取れるからお前みたいな存在を保証できるってだけ。相葉瑠々がどうしているかは今の段階ではなんとも言いきれない。頑固な現実主義者に宗旨替えしたのかもしれないし、想像を根本から破壊するような、衝撃的ななにかに遭遇してお前の存在を信じなくなっただけかもしれない――怒るなよ。人間にはそういうことだってあるんだから」
「怒らないわ」と、りりは請け負った。もし瑠々がずっと一緒にいたりりの存在を疑って、信じなくなってしまったのだとしたらそれは悲しいことだ。だけど、仕方ないではないか。これまでりりは忠実に瑠々の鏡像としての役割を果たしてきた。一度だって、への字口の瑠々に向かって笑いかけたり、顔を洗う瑠々をからかって妙なポーズをしたりしたことはなかった。瑠々は想像はしても知らなかったのだから、もしそういうことだったとしたら仕方ない。そのせいで志朗の言うように消えてしまったとしても、多分、諦めはつく。
「明日の予定は?」
腰元から引っ張り出した携帯端末のフラップを親指で弾いて志朗が言った。慌ててりりは学生鞄を開けて自分も携帯端末を取り出した――取り出してなにをすればいいかはわからなかった。ただ、志朗に倣っただけだ。
「ピアノのお稽古があるの。次の日は塾」
「木金は駄目か。土曜は?」
「瑠々のお母さんがパートに行くから……うん、その間に抜け出せると思う」
「厳しいの?」
志朗はきょとんと目を丸めたりりを見て「親」と言い添えた。
「瑠々がいなくなったでしょう?」
「ああ、それが帰ってきたもんだからなおさら厳しくなったってわけ」
「多分……瑠々のね、お母さんやお父さんがどんなだったかはあんまりわからないの。鏡に映ったのを眺めてたのと、玄関や居間から声が時々してたのを聞いてたのと、それだけだから」
「そうだった。親が厳しすぎて家出って線もあるんだったな」
頷きながら志朗はぱちぱちと携帯端末を操作して「パートの時間は?」と尋ねてきた。
「えっと、たしかお昼には出て行ったと思うの。前の土曜は寝坊しちゃって、そうしたらご飯温めて食べておきなさいねって書き置きがあったから」
「じゃあ、十三時」ふんふんと頷いて志朗が言った。「場所は駅前でどう?」
「わかったわ。十三時に、ええと、学校から出るバスが着く駅、よね」
「そう、その駅前。もしかしたら応援を連れていくかもしれない。驚かないでくれ」
その言葉をしおに志朗が伝票を掴んだ。つられて立ち上がるりりを振り返る。
「そうだ、写真撮らせてくれる?」
構わないと応じながらりりは首をかしげた。自分の写真を撮って探してみようというのだろうが、それで何かわかるものだろうか。それでわかるならとっくにわかってる。そんな小さな声が胸の内を去来したがとりあえず笑顔を作った。瑠々の、あの笑顔になっていればいいと、そう思った。