10
救急車両の音に紛れるように川をあとにしたのだと聞いた。あれから二日経ったあとの話だ。
全の力を真っ向から浴びて崩れていく領域を弓月は志朗を片腕に抱え、ぼろぼろと涙をこぼすだけの人形のようになってしまったりりの手をもう片手で引っ張りながら走って、なんとか崩れる一歩手前で脱出したのだそうだ。流水の冷たさに両足を浸したまま息を継いでいると全がのっそりと現れて「やあ」なんて抜かしたから、さすがに怒鳴ったとか怒鳴らなかったとか、その辺りは本人たちがぎゃあぎゃあ楽しそうにやっていたから詳しくは知らない。
ともかくも人喰いの怪異は消え、それに捕らわれていた人間たちの魂も解放された。彼女ら――もしかしたら彼もいたかもしれない――の魂が天国だか極楽だかに行けたのか、いまだ此岸にある身としてはわからないが、弓月と全曰く、大丈夫だということだった。街を襲っていた怪異たちも、あのあと弓月と全で潰しにいったそうだが、大抵は手を下すまでもない小物と化していて、たいした労もなく排除できたと聞く。蛾王と名乗ったあの怪異は最後まで見つからなかったということだった。甲斐なしと見て戦線を離脱したのか、力ある怪異を求めてまた移動したのか、命乞いをする怪異に聞いてみても行方は掴めなかったらしい。
「雛君がお怪我をなさったのは私の責任です」
弓月はあれから死にそうな顔をして看病、もとい介護をしてくれた。
「いや、あんなの誰も予想できないじゃん」
「いいえ! 私がお側についていながら――っ!」
そう言っては悔しげに膝を叩くので、そのうち膝の皿でも割れないかと心配になるくらいだった。全のほうはというと、お世話係の役目をすっかり弓月に奪い取られておかんむりだとかで、事情をあれこれ話したあとは手を振りながら部屋を出て行ってそれっきりだ。
「一番大事なものと引き換え、か」
口に放り込まれた桃をもごもごと咀嚼しながら志朗は天井を見つめた。
「ねえ、弓ちゃん。弓ちゃんならなにを願う?」
「まずはその真意を問いますかね」
かいがいしく新たな桃に蛍光グリーンのピックを突き刺し、差し出しながら弓月は答えた。
「まあ、あの怪異は『それはお前の命だ』ってとこだったんだろうけどさ」
「そもそも、自分の一番大事な物を投げだしてまで叶えたい願いなどあるんでしょうか」
「それこそ、命をかけても叶わない願いとか?」
「それにしてはささやかでしたが」
川辺でみつけた絵馬を思い出しているのだろう、弓月は首を傾げた。
「どうなんだろな。最も大事なものは身近にあるってよく言うじゃん? 例えばさ、世界平和とか家族円満とか毎日元気とかさ。ほら、童話の。青い鳥ってそんな話じゃなかった?」
「懐かしいですね。昔はよく読み聞かせしたものです。雛君ときたらまったく眠ってくれなくて。目をカッと開いたまま、早く続きとせがむんですから往生したものです」
「いや、そういうのはいいじゃん」
さすがにおむつを着けてもらったことはないが、幼い頃のことを持ち出されると途端に弱る志朗である。弓月は当時を思い出しているのか、目を細めて嬉しそうに頬を緩ませている。ちらりと盗み見てほっと志朗は息を吐いた。弓月はこうと思ったら一直線に突っ走る性質だが、同時にこうと思い込んでも動けなくなるのだ。まったく、弓ちゃんは俺がいないと駄目なんだからなあ。少し良いことをした気分になって枕の下に手を差し込むと、さすがに調子に乗りすぎたか、びりりと強い痛みが走った。思わず呻いてしまい、頭上の笑顔を台無しにしてしまったのは失敗であった。
村雨の呼んだ青銅の骨は、幸いなことに志朗へ大怪我を負わすには至らなかった。腕をざっくりやられて少し骨が見えたのと、肩や脇腹の肉を持って行かれてしまったのと、それくらいといえばそれくらいだ。それでも一日は頭上で弓月が唸っているのか自分が熱で唸っているのかわからない程度にはうなされた。ついでに悪い夢も見たが、まあ、これは時々見る悪夢だったので問題のうちには入らないだろう。
その村雨はというと、弓月は領域から脱したあと姿を見ていないと言っていた。本性を現した全のほうはといえば、自身の放った光を厭うように後退するのが見えたきりだということだ。どうにかして撤退して無事ではいるのだろうというのが両者共通の見解ではあったが、ではどこへ行ったのかというとこれも両者揃って首を振った。
「じゃあさ」と心配してくる手を荒っぽくいなして志朗は言った。「特になにも要求しないから、願いを言ってみろって言われたら?」
弓月は一瞬、無邪気な子犬のように目を丸めた。それから破顔する。
「そんなの、ひとつに決まっています。あなたの幸い、それ以外にはありません」
「……弓ちゃんってさ、なんでそういう恥ずかしいことさらっと言えるの? そういえば、あの領域でも言ってたっけ? なに? 年取るとそういう恥じらいみたいな奴なくなるの?」
「では、逆に雛君はどうなんです? なんでも叶えて差し上げますと言われたら?」
「ええっ」と言って、志朗は天井に目を向けた。なんだろう、叶えたい願いはすでに全部叶ってしまっている。この上に望むことなんてないように思われた。しかしそれを、よりにもよって弓月に言うのはなんとなく業腹で、答えるかわりにパクリと口を開けて見せた。
「なんです?」
「桃。もう一個」
はいはい、と言った弓月は相変わらず嬉しそうだった。
「それでは、そうですね。欲のない雛君には特別に蟠桃をご用意しましょうか」
「バントウ?」
「中国の桃です。食べると仙人になれると伝わっていますから、今のこの国に持ってきたら面白いことになるかもしれません」
うえっと志朗が声をあげて舌を突き出す。
「それ、絶対面倒なことになる奴じゃん」
「さて。蟠桃の知名度にもよるかとは思いますが、どうでしょう」
「やだやだ。仙人つったら不老不死じゃん? 不老不死つったら人類共通の夢じゃん? それを巡って人間たちが争った挙げ句、怪異巻き込んで大騒動とか想像つきすぎるって」
「ちなみに最近ではインターネットで簡単に手に入りますよ」
ぽちぽちと懐から取りだした携帯端末に情報を打ち込んでから弓月はその画面を見せてきた。映し出されていたのは、通常の桃が平べったく潰されたような、捉えようによってはまんじゅうの類いのような果実だ。
「これさ、簡単に輸入できるよな」
ぼそっと志朗は言った。素知らぬ顔でいくつか操作しながら弓月が答えた。
「日本では珍しいですが、あちらでは普通に食されているものと聞きますから。人間の手に依ればそれは簡単に持ち込めるかと」
「絶対! 駄目な奴じゃん!」
叫んだ拍子に傷が引き攣れ、いたたと志朗は呻いた。心配した弓月が身を乗り出す。しばらくはベッドの上の住人を余儀なくされそうだった。
すみません、と言った少女を迎えて全は手を振った。慌ただしく駆け込んできた少女は、半地下の店内が薄暗い静寂に満ちているのに気づいたのだろう、もう一度すみませんと小さな声で言ってから早足に歩いてきてテーブルに着いた。
「久しぶりだね」
「ええ、ご無沙汰ってこういう場合は言うんでしょうか」
「二日、三日じゃ聞かないかなあ」
全は笑いながら、近づいてきた店員に「コーヒー」とおかわりを注文した。頷いた店員が小脇に抱えていたメニューを少女に差し出す。少女は掌を向けて断ってから、紅茶をと小声で言った。
「それで、絵馬を見つけたんだね?」
「はい」と頷いて少女――りりはワンピースの膝の上にショルダーバッグを乗せた。中からハンカチの包みを取り出す。テーブルの上に置き、丁寧な手つきで包みを開いて見せた。包みの中には土で汚れた絵馬がひとつ、横たわっている。丸くデフォルメされた馬の上には願掛け絵馬と赤い文字で印刷されていた。
「見ても?」と言われてりりは頷く。そこにある文面はすでに暗記しているほど何度も読んでいた。全は絵馬を取り上げると裏返す。しばらく裏面を眺めていたが、なにも口にすることなく丁寧な仕草でハンカチの上に戻した。
「それで?」
そうとだけ言って、テーブルの上で指を組み合わせる。
「瑠々は幸せだったと言っていました」
「うん」
「私、ずっと思っていたんです。瑠々にはつらいことや悲しいことがあったんじゃないか。だから誰にも言わずに、自分が誰からも知られていない場所を求めて行ってしまったんじゃないかって。お母さんもお父さんも熱心に瑠々を探す様子はなくて、警察もなんだか不親切に思えて、先生たちだって一度来たきりで、私はたぶん瑠々が可哀想だったんだと思います。瑠々がいなくなって私の役目がなくなること、そんなことは問題じゃなかった。ただ、瑠々が心配で、どこかで泣いているなら見つけ出してあげたくて、笑ったふりなんてさせたくなくて、それだけだったんです」
そこで紅茶とコーヒーが運ばれてきて、会話はしばらく途絶えた。りりはそっとハンカチで絵馬を包み直し、それからその面を優しく優しく撫でていた。
「君はそれを背負っていくのかい?」
ややあって静かに落とされた言葉に、りりは頷くことも首を振ることもなかった。
「あの、失礼な質問だったら申し訳ないんですけど」
「うん? スリーサイズなら答えてもいいけど?」
「いいえ、そういう話ではなく。あなたも、あの弓月さんも怪異なんですよね? だとしたら、どうやって生計を立てているんですか? それ以外にも、戸籍というものが必要だと聞きました。八千原君が弓月さんは長く生きているって言っていたのを思い出して調べたんですけど、妖怪っていう化け物が日本にはいて、それは千年以上生きることもあるんですよね? それで、失礼だったら本当に申し訳ないんですけど、あなたたちもそうじゃないかって思って。もしそうなら、どうやってその戸籍というのを得て、人間みたいに暮らしているんだろうって。教えてもらえませんか?」
ふうん、と全は漏らしてソファの背もたれによりかかった。
「じゃあ、君はそう決めたんだね?」
「……はい。迷ったんですが」
少し俯いてりりは膝に乗せたバッグを抱きしめた。瑠々のお母さんとお父さん、二人の顔を思い浮かべると鼻の奥がツンとしてくるのが不思議だった。
「瑠々って子は幸せな子だったんです。きっとお父さんのこともお母さんのことも大好きで、学校でも私とは違って人気者で、すぐ誰とでも友達になれたりして。私はその瑠々を守りたいと思ったんです。みんなの中にいる瑠々を、これ以上私のあれこれで汚したくなかった。このまま記憶にとどめておいて欲しい、そのままの瑠々を忘れないで欲しい。いつかもし、お父さんやお母さんが瑠々のことを諦めきれなくて、それで瑠々が幽霊に――怪異になったとしても。それはそれで正解なのかもしれないって。私っていう間違った瑠々が居座っているより、その方がきっとずっと良いって思ったんです」
うん、と言いながら全はシュガーポットを引き寄せて角砂糖をひとつコーヒーに落とした。
「お父さんとお母さんはまた悲しむことになると思います。他の人たちにも迷惑をかけてしまうことになるんだろうなって、今はわかっているつもりです。それでもって思うんです。毎日じゃなくていい、いつかのふとした時で良いから、そういえば瑠々って子がいたなって、笑顔の素敵な女の子だったなって思い出してくれることがあるなら。それこそが、本当の瑠々の本当の幸せなんじゃないかなって」
「君が考えて決めたことなら誰にも否定する権利はないと思うよ。あの子――志朗も受け入れて応援するんじゃないかな。それで僕たちのことだけど、これはあんまり参考にならないと思うんだよね」
なにしろ年期が違うからねえと少し遠い目をして、全は半地下の窓越しに見える人々の往来を眺めた。黒いパンプス、茶色の革靴、赤いラインの入ったスニーカー、たくさんの足が忙しそうにどこかへ向かっている。眺めるともなくそれを眺めながら「そんなに?」とりりは呟いた。
「そんなにさ。例えば弓月だけど、彼はあれで案外商才があってねえ。戦時中に鉄鋼を転がしてそれなりの財を築いたあと会社を売り払って、それを元手に不動産を買いあさったおかげで今は悠々自適。それであの子のお付きができてるってわけ。ああ、誤解しないでね。戦時中って言っても日清日露の時代だから」
はあ、とりりは答えざるを得なかった。テッコウを転がすってどういうことだろう、ニッシンニチロってなんのことだろうと思ったが、それはあとで調べることにして言葉だけ頭に刻んでおく。
「僕はそういうの面倒くさいから。適当に株を売り買いしたり、突発的にお金が必要になったら馬だの船だの買ってみたりってところかな。まあ、基本的には弓月が稼ぎ頭で僕は奥向き担当と思ってくれれば間違いないよ。戸籍に関しては、まあ、いろいろと伝手があってね。君が欲しいって言うなら用意してあげられる。だから、その手の心配は要らないよ。アフターフォローはバッチリが志朗の信条だからね。問題はあれだね。当面のことだよ。なにか当てはあるのかい?」
りりは無言で首を振った。実はそのことも相談しようと思って今日ここに来たのだ。瑠々の家にはもう戻らない予定だった。家のある住宅街にも当面の間は近づかないようにしようと思っている。
「じゃあ、それも手配しよう」
「いいんですか?」
あまりにも全が簡単に言うので驚いたが、彼はむしろ面食らったように言った。
「いいもなにも。だって、今日から寝るとこないだろう? そうだなあ、ここから少し離れているんだけど、身の回りの世話をしてくれる子を探してるって人間がいるんだ。もちろん、怪異のことは心得てる。彼のところなんか良いと思うんだけど。あとは――」
「よろしくお願いします」
頭を下げた途端、ほっと気が抜けてしまった。とりあえず今着ているものは仕方ないということでこれだけ拝借して出てきて、それ以外の携帯端末だとか財布だとかは全部、瑠々の家に置いてきてしまった。おかげでこの店まで来るのも徒歩で、炎天下のもと大変だったのだ。
「はい、よろしく。ううーん、でもあれか。こういうことは急いで決めると後々後悔が残るか。そうだなあ、一度うちにおいでよ。そこで二、三日ゆっくり考えてみるといい。志朗もちょうど暇してるからさ、ついでに構ってあげてくれると嬉しいな。じゃあ、善は急げ。さっそく向かうとしようか」
そう言って立ち上がる全に、りりは慌てて「はい」と返した。支払いをするから先に出ていてと言われて従う。地下の暗がりから外に出てみると、抜けるような青空がまぶしかった。湿気をはらんだ風が微かにワンピースを揺らす。手をかざしてりりは太陽を見上げた。
瑠々がひとつひとつを集めて作り上げたあの部屋は、自分のいた痕跡が残らないように綺麗に掃除をしてしまった。けれどもひとつだけ、メッセージカードを机のマットに挟んできていた。
――あたし、幸せだったよ。
瑠々が最後に残したあの言葉、あれはたぶん祝福だった。自分を育んだお父さんやお母さん、仲良くしてくれた友達、お世話になった人々、それらを内包する世界そのものへの感謝とエールだった。
見ていてね、瑠々。あの日、瑠々が消えていった空の果てに向かってりりは微笑んだ。私も私として、あなたの愛した世界を生きてみる。そしていつか瑠々と再会できたなら、同じ言葉を贈ろうと思うのだ。だからその時まで、少しだけさよならだね。
キラキラとまぶしい太陽が虹色の光彩を放って頷いたような、そんな気がしてりりはにっこりと笑顔を作った。