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アンゴルモア  作者: 保坂星耀
鏡は胸に花を抱く
10/11

 領域と志朗たちが呼んでいるもやの中に入った途端、呼吸が楽になったような気がした。周囲を見渡してみる。空は外と連動しているらしく夕闇迫る紫色だったが、それにしてはなんだろうか、なにか寂しいと感じた。風の吹き抜ける音、街路樹の鮮やかな色、空腹を誘う店々の匂い、肌に感じる太陽の熱、そうした世界の欠片というのだろうか、身の回りを構成する大事なものがことごとく抜け落ちた場所のようにりりには思えた。

 本当は言いたかった。自分はここで待っている、と。瑠々が書いたかもしれない絵馬を探したかったし、こんな出来事に瑠々は関わってないのだと確認したかった。できなかったのはなぜだろうか。わがままだと思ったことはたしかだ。でも、それだけではなかった。それだけなら言う決心がついていたかもしれない。だって、志朗には気安い様子の味方が二人もいた。これまでずっと三人で戦ってきたのだろうことは見ているだけでわかったくらいなのだから、言ったっておそらく志朗は怒らなかったと思うし、あとの二人も頷いてくれたと思う。言わなかったのはきっと怖かったからだ。もし、絵馬があったとしたら、それは瑠々がこの事件に関わっていることを意味する。それが指し示す事実は彼女の不帰だ。その考えが頭をよぎると怖くて怖くて、まともに考える勇気すら持てなかったのだ。

 小さな石の敷き詰められた広場を貫く石畳を抜けていくと、わらわらとどこからともなく怪異が集まってきた。即座に太刀に手をかけたりりだったが、そんなことをする必要もなかった。なにが可笑しいのか高らかに笑った全と生真面目な顔をした弓月が、それぞれ金色の光と黒い闇とを生み出したかと思うとあっという間に薙ぎ払ってしまったからだ。攻撃の範囲から運良く逃れた怪異は腰を抜かしたり逃げだしたりして、なんとか踏みとどまったものさえ遠巻きに様子を伺うに留まる有様だった。それはもう、圧倒的と言っていいに違いない。それなのになぜだろうか、志朗も弓月も言葉少なで、その顔は強ばっているように見えた。ムラサメリュウセイという存在はそんなに恐ろしいものなのだろうか。これまで見てきた怪異を胸の内に確かめてりりはひっそりと息をついた。勇気を持てなかった結果、自分がひどく場違いなところにいる気がしてならなかった。




 石造りの階段を上りきるともう目の前で陣幕が揺れていた。風もないのに不思議なことだったが、怪異の関わる事象にはよくあることとして志朗は無造作に中へ足を進めた。追ってくる怪異がないでもなかったが、自分の他に全までいるとあってか、皆が皆へっぴり腰で階段の下からこちらを見上げているだけだ。手を出してこないものをどうこうするつもりは毛頭なく、弓月は気にしたふうだったが「放っといていいよ」と言って宥めたので、少なくとも彼らが消えるところを見ることにはならなさそうだった。

 目隠しの布が切れるところで一旦息をつく。ともすれば震えだしそうな手をぐっと握りしめてからその角を曲がった。

 陣幕の中には男が一人立っているきりだった。洒脱なうねりをつけて遊ばせた金髪、黒いレースの飾りがついたタンクトップはゴシックと言うべきかパンクと言うべきか、ダメージ加工のされたパンツやじゃらじゃらとぶら下げたシルバーアクセサリーとともに嫌味なく着こなしているその男は、七年前となにも変わらない姿形で目の前に立っていた。覚悟はしていたもののなんと発すべきか悩む志朗の斜め前に音もなく弓月が立った。しかし、こちらもなにも言わない。背後に立ったままの全さえなにも言わず、沈黙は重苦しく感じられた。

「見事なものだとは思わないか」

 男の背中が口火を切った。少し仰のいた彼が見つめる先にはなんともおぞましいものが鎮座している。巨大な肉塊、でなければ心臓とでも言おうか。長身の弓月でも身長が倍あったところでその頂には届かないに違いない。規則的に脈打つ表面には人体の欠片がそこここに浮かんでいる。手や足はもちろん耳や眼球といったパーツまで、まるで精巧にそこへ彫刻したようにくっきりと刻まれていた。

「これが人一人の想像する世界と思えば興奮せずにはいられないだろう。今や世界に人類は六十億を超えて存在する。その一人一人に希求があり懇願があり哀訴がある。それがひとつ残らず具現化したとしたら、世界はどんな顔を見せるのだろうな」

「妄想はそこまでにしてもらおうか」弓月が低すぎる声色で言った。「今のお前は一匹の獲物にすぎない。今度という今度はそう易々と行くと思うな」

「相変わらずわかっていないな。妄想、妄言、妄信、妄執――それこそが世界を拡げる鍵だ。事実、人類はそれらをもって発展してきた。お前たち怪異を抱きながら、その存在を否定することで今ある今日を生み出してきたのだ。これとてそうだ」

 村雨は手を伸ばすと、まるで美しい工芸品にでもするように肉塊を撫でた。ぐちゃり、にちゃりとそのたびに粘着質な音がして、遠目にも男の手に赤みを帯びた液体がまとわりつくのが見えた。

「始まりは一人の空想だった。己を笑った女たちを屈服させたい、己をくだらないものとして扱う者たちに一矢報いたい、そんなどこにでもある空想遊びだ。俺がしたことと言えば、そいつに囁いてやっただけだ。この世の理、この国が数千年享受してきた祝福の言葉を。そう、思うことは現実になるのだとな」

「なるほど、結果がその怪異なんだね」常よりもずいぶん素っ気ない声で全が言った。「そいつ、ずいぶんたくさん食ったみたいだけど」

 まさかと肩を揺らして振り仰いだ志朗に全はひとつ頷いて見せた。

「言うほど強そうには見えないねえ。たしかに他の怪異に力を供給する能力は破格と言っていいかもしれない。だけどそいつ、自我はあるのかい? 自分で動くことは? できないんじゃない? 僕がこの指をひとつ鳴らしただけで燃え尽きちゃいそうに見えるんだけど、気のせいかなあ」

「それが貴様の見立てならその目は節穴と言わざるをえないな、カラスよ」やはり背を向けたまま村雨は言った。「言っただろう、これは種だ。始まりだ。人間の人間たるを食って成長する、それ自体が役目なのだ」

「あんたの言うこと、俺にはさっぱりわからないな。その種とやらがなにをした。怪異に力を送って人を殺させて、店も車もたくさん壊させて。怪我をした人もいるだろうし、この騒動で駆り出されて迷惑してる人だってたくさんいるはずだ。始まりがそれで結果がこれか? あんたの話を聞いてると、人間を発展させることが目的だって言ってるように聞こえるけど、あの破壊のどこが発展だっていうんだ」

 そこで村雨は初めて振り返った。「なかなかに立派なことを言う。カラスの雛は人間に興味がないと聞いていたが違ったか」ぐっと息を呑んだ志朗を見つめて村雨は続けた。「いいか、少年。破壊がなければ創造もないのだ。かつて七年前、この国の秩序が壊れて新たな想像が育まれたように、それは常に背中合わせなのだ。この種もそのひとつ。ひとつの想像がひとつの破壊を呼び、ひとつの破壊がさらなる破壊と創造を生み――こうしている今もその繰り返しの過程にある。あの破壊はなにかと言ったな。これが答えだ。すべては明日のための過程だ。明日といういずれ来たる今日を繰り返すこの世にあって、俺のすることと言えばその針をわずかに早めているにすぎない。つまるところ、今あるこの現実はもう少し先の明日だった、それだけの話なのだ」

「そんなわけないじゃない!」

 弓月の前まで走り出るなり、りりは太刀を抜き放った。ぶるぶるとその切っ先は震え、怒りによるものか、その横顔は首筋まで真っ赤に染まっていた。

「殺された人を見たわ! あの人がいずれ死んでしまうとしても、今日明日のことじゃなかったはずよ。あの人にとっての瑠々が、みんなにとっての瑠々がいつかいなくなってしまうのだとしても、絶対にあんな形じゃなかった! 私は認めないわ! あなたにとって創造とかいうものがどんなに大事なものかは知らない。だけど、こんな形で成就させようなんて絶対に認めてなるもんですか!」

「お前は……」

 村雨はふと興味を引かれたようにりりを見、それから背後の肉塊を見上げた。

「なるほど、そういうことも起こったのか。面白い」

「なにが面白いのよ! こんなのちっとも面白くなんかない!」

「落ち着け、りり。あいつは外の怪異とは違う。斬りかかったところで――」

 言い聞かせようとした志朗の言葉を、その眼前に突き出された弓月の掌が遮った。志朗が息を呑んだと同時に村雨の手が翻った。ぽん、と間抜けな音がしたのはその時だ。見れば、肉塊の上の方に筒状の口が開いている。そこから緑色の煙が音もなくひとつ、ふたつと吐き出され始めた。煙はふわふわと漂いながら村雨と志朗たちの間とに落ちてきて、やがて地面と接触する。

「雛君!」

 声と同時に激しく視界が揺れ、気づけば立っていたところから数メートル離れた場所にいた。体は弓月に俵担ぎにされている。先ほどまで立っていたところには大きな戦斧が突き刺さっていた。それを握るのは血まみれのチョッキを着たウサギだ。どこぞのホラー映画と童話を足して二で割ったようなウサギは軽々と戦斧を持ち上げると身を沈めた。高々と跳躍したその体めがけ、黒霧を生み出した弓月が牙を差し向ける。がつんと衝撃が志朗のほうにまで伝わってきた。キィンと高い音が耳を打ち、目をやればりりがなにかと斬り結んでいた。そのなにかは人型で、真っ白いワンピースを着ている。驚愕に目を瞠ったりりがその名を呼んだ。

「瑠々!?」

「違う、怪異だ!」

 志朗が叫んだが届いたのかどうか、明らかに先ほどまでとは異なる鈍った動きでりりは追撃を打ち払っている。炎がうなりを上げて上空を焼いた。見上げた先では緑の煙がいまだ次々に吐き出されている。煙は地に触れるや否や急激に形をなし、実体を持ってこちらへ敵意を表した。いくらかは炎に巻かれて散らされたとはいえ、その数は急激に増えていっている。陣幕の布を背後においた弓月が応戦して牙をひらめかせた。

「雛君、今のうちお耳に入れておきたいことが」戦いながら弓月が言った。「あの種とやら、人間の魂を閉じ込めております」

「人間の!?」

 思わず声をあげた志朗をしっと弓月はたしなめた。

「りりさんの耳には入れたくありません」

「それってまさか、相葉瑠々の魂もあの中に閉じ込められてるってこと?」

「でなければ、説明がつきません。怪異たちを生み出しているのはおそらく、その閉じ込められた魂です。だからこそ、あそこまで種族がわかれた。私が見たこともないものも多くいました。不思議に思っていましたが、あの怪異の多くがこうして作られたものだと思えば得心がいきます。蛾王のようなものはそれに惹かれて集まったにすぎない、むしろ希有な例ではないでしょうか」

 りりと斬り結ぶ、彼女とまったく同じ姿形をした怪異をみつめる。では、あれは相葉瑠々の姿をした怪異ではない。相葉瑠々が想像して生まれた怪異――りり自身だ。

「じゃあ、あの種って奴を倒せば?」

「残念ながら、瑠々が戻ってくることはないでしょう。見たところ、あれに閉じ込められているのは魂だけですから。ただ魂が解放され、それで仕舞いかと」

「そんな――っ!」

 勢いよく振り回されると同時に舌を噛みそうになって、志朗は慌てて口を閉じると弓月に捕まった。ぐっとうめき声を弓月があげる。彼の黒霧が破られたらしく、帯のように眼前を覆った黒に点々と穴が空いていた。穴は即座に塞がったが考えてみれば弓月は戦闘続きである。ぐっと奥歯を食い締めてから志朗は叫んだ。

「其は堅き盾、(とお)す者なき守りを!」

 勢いよく突き立った鋼の壁だが、不可視の弾丸が次々にその表面で破裂する。ぐにゃりと中心部が凹んだかと思うと耐えかねたように丸く向こう側を透かした。むしろそれを足がかりに上空から飛びかかってくるものまでいて、その対応に弓月がせわしなく牙を操作した。

「これ、燃やしちゃおう、志朗!」

 全の声が黒霧と鋼の向こうから聞こえる。りりはまだ打ち合ったまま、相手を倒しきれずにいるようだ。瑠々、と声が時折聞こえてくるところを見るに、怪異を瑠々本人だと見誤っているようだった。否とも応とも答えきれず、志朗は肉塊を見やった。上方の筒からはいまだに緑の煙がほつほつと吐き出されている。全が逐一燃やそうとしているが、あまりにも数が多く手が回らないようだった。

「雛君!」

 叱咤するように弓月が言ったがそれでも志朗は答えられなかった。あれを燃やせばともかくこの場は収まる。外の怪異たちも妖力の供給源を失う。どころか、魂たちが上手く浄化してくれれば存在の根拠を失って一様に消え去る可能性が高い。だが、その時、りりはどうなるだろう。ともかくは志朗と仮名を通じて繋がっているからすぐに消えることはない。けれども、存在の根拠を志朗で補うことはできても、その本質までは守ることはできないのだ。

「いくら君でも定まったものは変えられない! どうしようもないんだよ!」

 全の叫び声が聞こえる。間近では弓月の荒い息づかいが、耳と触れた肌を通して伝わっていた。

「肉体はもう失われているんです、雛君」

「でも、だってさ……」

「どこかで彼女らの幽霊が現れているかもしれない。それほどまでに、既に失われているんですよ」

 ぎゃん、と擦れる音がした直後、再び志朗は振り回された。輪郭のない片腕をかざし、反るように体を傾けた弓月から赤いものが飛び散った。

「弓ちゃん!」

 ぐううっと弓月が唸り声をあげる。その片腕に刃を食い込ませて、のぞき穴をあけた麻袋をかぶった怪異が低く笑った。

「其は槍! 地中より――」

「退けぇっ!」

 唱えるより早く弓月が吼えたかと思うと、怪異は横様に吹っ飛んだ。見送った先で胴に鰐の牙を喰らったまま、じたばたと手足を振り動かしている。

「弓ちゃん、怪我は!?」

「雛君」

 その声は優しかった。

「終わらせてあげませんか」

「でも、それじゃりりが。魂だって無事に還るかわからないし」

「彼女たちも、もう疲れ果てたでしょう。解放してあげるんです。それが彼女たちの為になります。今さら人間を救いたいなんて申しません。なぜなら、彼女たちは人間という檻から既に解き放たれている。ならば、それはあなたの領分です。違いますか?」

「わかるけどさ、それで魂が消滅してしまったらどうするんだ。やってしまってからじゃ取り返しがつかないんだぞ」

「雛君」と優しく弓月は繰り返した。「我々を慈しみ、怪異に心を寄せ、その為に生きると決めてなお人間を思いやってしまう、そんなあなたの優しさが私は好きです」

 志朗はぐっと拳を握りしめた。慰めるように背中で掌がとんとんと弾むのが苦しかった。おろして、と言う声はかすれていて弱々しかった。ひどく情けなくて、悔しくて、悲しくて、目頭が熱くてたまらない。それでも志朗は叫んだ。

「やるぞ、全!」

 黒霧の向こうから応と声が返る。

「弓ちゃんはそのまま攻撃! 押し返して!」

「御意のままに!」

 咆哮した弓月が大量の牙を呼び出し、怪異たちに向けて突撃させた。不可視の弾丸が応えるように打ち放たれたが、厚く張られた黒霧がそれを防ぎきる。銃かなにかと思われる筒音までしたが、すべて牙に砕かれ黒霧の前に火花を散らして終わった。悲鳴のようなりりの願いが聞こえる。瑠々、瑠々、その声をじっと聴きながら志朗は両手をゆっくりと拡げた。

「汝は日輪に棲まう鳥、万民の魂に座す瞳」

 黒霧の向こうで応えるように金色の光の柱が立った。

「天道紡ぐ翼にして、天道護持する猛き爪」

 広げた手の指先からすうっと金の光が走る。それは複雑に絡み合いながら腕を遡り、ジャケットを透かして肩で輝き、背へ拡がり、首筋を覆って大きく拡がる翼の紋章となった。

「天地の狭間にも稀なる真と義を奉じ、以て禍福に報いる者なり。汝の銘を示せ!」

 広げた手で天を抱く。組み合わせた指先が祈りの形を象った。

「あ――っ!!」

 最後の音を発しようとした時である。周囲の地面が突如として弾けた。もうもうと舞う土埃の中から青銅の輝きを帯びた骨が幾本も飛び出る。先端についた掌が爪の形になったかと思うと一気に中心をえぐった。

 己がなにか叫んだことはわかったが、はたしてなにを叫んだのか志朗にはわからなかった。とっさのこととして組んだ指先を動かして頭をかばったがなんの救いにもならなかったのはたしかだ。誰かが間近で叫び声をあげたがその意味も聞き取れない。なにか堅いものが全身を打つ。呼吸が、鼓動が早く大きくなっていく。全身が揺れている気がする。なにがどうなったのか。体が熱くて仕方がない。

「雛君! 雛君!!」

 目の前に影が差したと思い、重く瞬きをしてようやく志朗は悟った。弓月に抱きかかえられている。その弓月はといえば、今にも目玉がこぼれ落ちそうに目を見開いていた。なにか言おうと思ったが、かわりに出たのはしゃがれた咳だけだった。

「そう簡単では面白くないだろう」

 弓月の広い肩越しに金色の髪を揺らして村雨が笑っていた。

「貴様っ!!」

 叫んで飛びかかったのは全だった。文字通り一直線に空を駆け、炎を宿した拳で村雨に打ちかかったがあえなく躱される。

「我が契約者に与えた傷、万倍になり返ると心得よっ!」

 全は続けざまに炎の弾丸を放ったが、するりと空を滑るようにして村雨はそれを全て避けきった。カウンターで放たれた青銅剣を炎が飲み込む。ぐにゃりと曲がった剣を手に全が凄惨な笑みを浮かべて村雨を睨んだ。

「や、べえ……」しゃがれた声で志朗は笑った。「全、キレてら」

「お気をたしかに。傷は浅いです」

「映画、以外で……初めて聞いたかも、それ」

 ひどく重く感じたがなんとか腕を持ち上げてみる。金色の紋章はまだそこで光り輝いていた。頭上では二合、三合と打ち合いが続いている。

「汝の銘を、示せ」

 拳を突き上げた。負けるわけにはいかないと思ったのだ。あんなやつに負けてたまるか。再度、指で祈りを形作る。届け、届け――。

「『現照日(あらてるひ)』っ!!」

 瞬間、天地が震えた。陣幕の内に、外に、無数の光の柱が立った。高らかにカラスが啼く。滑空して攻勢をかけようとしていた村雨が反転して身を翻した。その目の前で全の体が一瞬金色の光を纏ったかと思うと爆発した。白光が周囲を埋め尽くし、光と影の境目をくっきりと描き出す。猛烈な風が砂利を巻き上げ弾き飛ばし、その勢いからかばおうと身を伏せてくる弓月の向こうに志朗は見た。鋭いくちばし、ふさふさと首周りを飾る豊かな毛並み、優美な流水形を描く首がついともたげられる。両翼は拡げると数十メートルになろうか、陣幕をすっぽりと覆ってなおあまりある翼は白金色に燃えて神々しい。瞬膜にひと撫でされた巨きな金色の目は眼下を見下ろしてただ凪いでいた。

「罪なき者は恐れるに能わず。罪負う者どもよ、震えるがいい」

 白金の大ガラスがくちばしを開く。その口腔の奥には太陽があった。

「その恐れこそが貴様の(かたち)だ。()く記銘し……滅びよ」

 閃光と呼ぶのも生ぬるい、熱線が肉塊めがけて打ち放たれた。その巨大な形、刻まれた人体のパーツのひとつひとつ、肉襞の作る微かなくぼみまでもが白日の下にさらされる。声にならない悲鳴を聞いたと志朗が思った瞬間、肉塊の表面で細い煙が立ち上り、あっという間もなくそこを中心に表皮が弾けた。まるで桃の皮でも剥いたようにずるずると表皮が崩れて落ちていく。中に閉じ込められていた肉片がとろけ出ようとして端から蒸発して薄い煙となるが、光はそれすら許さず焼き尽くし燃やし尽くす。やがて肉塊はその体積を半分にまで減らしていき、そこで耐えきれなくなったのか、ぐちゃりと地面に拡がった。薄く薄く延びていくその表面から光の粒が放たれたのはその時だった。淡い虹色に輝く拳大の光球だ。それがあとからあとから形を失った肉塊から離れては暗い空へ昇っていく。否、空はすでにその暗さを失いかけていた。ぽろぽろと布が端からほつれるようにその色味を失った空が曙光の白に染まっていく。虹色の光球は吸い込まれるようにその白の中に溶けていき、やがて見えなくなった。

「りりっ!」

 しゃがれた声を精一杯に張って志朗は呼んだ。りりは――()()は呆然と空を見上げて動かなかった。続けたかった言葉を拾って弓月が叫んだ。

「りりさん! こちらへ!」

 その時、りりがちらりとこちらを見たと志朗は思った。その頬は望陀の涙で濡れている。唇がひとつ、ふたつ動いてなにかの言葉を為した。その唇の形すら白に呑まれていく。全ての罪を(すす)ぎ、全てを均しく飲み込んで、そうしてひとつの世界が閉じた。




 全てが白々しく照らし明かされる世界の中でりりは見た。

 シャボン玉といえば近いだろうか、小さな真珠色の粒が無数に空へと昇っていく。光に圧力があるのかりりにはわからないが、それまで刀を交えていた瑠々はまるで押しつぶされるように、鏡の世界の鏡像のようにペラペラの紙切れのようになったかと思うと、四肢の端から炎に呑まれて消えてしまった。声すらかける暇もなかった。というより、かける言葉を探すたった数秒の出来事だった。

 ふっと膝が力を失って地面に崩れ落ちた。砂利が膝に食い込んで痛かったが、立とうという気力が湧かなかった。もうずっと長いこと旅をしてきて疲れ果ててしまった旅人のように、りりはそこにうずくまって、それからゆっくりと上体を倒した。一度、拳で地面を叩く。もう一度、もう一度、何度やっても気持ちは収まらなかった。それなのに、大きく開けた口からはひとつの言葉も出てこない。涙がこぼれそうなくらい目が熱いのに、やはりなにもそこからは流れなかった。

 ちらちらと視界の端が光る。終わりの時が近づいているのだと、なにが起こっているのかわからないながらも理解できた。屍が立ち上がるかのようにぞろりと上体を起こす。ぼんやりと真珠の輝きが空に昇っていくのを見上げた。キラキラと輝くそれは美しく、まるで喜んで空へ昇っていっているように見えた。その中のひとつがである、きらりと一等まぶしく輝いたように見えてりりは目をこらした。ふわふわと空に昇っていく真珠の中にあって、それだけがりりに合図を送っているように輝いている。綺麗だな、と見守るうちにそれはすうっと空を行く列から離れてりりの目の前まで降りてきた。その時、りりは聞いた。

「あなた。あたしなのね」

 瑠々の声だった。とても楽しそうに、嬉しそうにたしかに声がそう言ったのだ。ぽかんと口を開けたままなにも言えずにいるりりを見下ろして、その真珠は笑った。あの儀式、毎朝の懐かしい儀式の残照がりりの目にはっきりと映った。

「――――」

 声はさらになにかを続けて言ったがりりの耳はそれを聞き取り損ねてしまった。

「なに!? なんて言ったの!?」

「あのね」それだけはわかった。「あたし、幸せだったよ」

 言い終わるなり、その真珠は風に巻かれるようにふわりと揺れて、来た時と同じようにすうっと空を滑らかに駆けた。わからなくなっていく。他の真珠に紛れてあの真珠がどれだったのかわからなくなっていく。小さく、小さくなって、そして――。

「瑠々っ!!」

 ようやくその名を呼べた時にはもう空と同じ色になっていた。

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